第7話 南の大陸へ

 翌日、朝食を済ませると、キリルはさっそく昨日案内された古書のしまわれてある部屋へと向かった。鍵のかけられていない扉を開き、閉められたカーテンを引く。射し込んだ朝日が、彼の顔を照らした。

埃に埋もれた部屋は、どこか不気味である。その中で、目当ての本を見つけるのは、大変なように思えた。

求めているのは、リーザの砕けた心を取り戻す為の、魔法や薬である。

「薬草全集……ためになる家庭用魔法──あぁ、違うな」

 頭を掻きながら、片手の指で背表紙をなぞる。やはりそのようなものは無いのではなかろうか、そんな不安が、更に心を掻き乱す。

 その時、不意にある一冊の本の前で指が止まった。なにかに導かれるかのように、その本へと手を伸ばす。題名は滲んでいて読む事ができない。音もなくページをめくると、一つの題字が目に入った。

「パナシー──気のふれた者を治す魔法……これだ!」脳裏に愛しい笑顔が浮かぶ。「あぁ、リーザ……」

 思わず、言葉がこぼれていた。

 そのまま、本を抱え外へと飛び出す。クラースにこの事を聞かなければ──そこまで思い、ふとキリルは立ち止まった。

 魔法など、もう存在しないのである。

 心を満たしていた高揚感が冷めて行くのを感じた。これはいにしえの魔道士が犯したものと似たような過ちである。キリルは振り返ると、本を本棚にしまい、塔を後にした。ただ、パナシーと言う魔法を、頭の中にしまい込んで。

 書庫へと戻ると、嬉しげに鼻歌交りで軽く片翼を広げているラナの姿があった。

「もう大分良いわよ」

 と、ラナが言った。

「昨日はまだ危ないって言ってなかった?」

 キリルは腕を組む。

「古竜は回復が早いって、あなた知らなかった?」

「初めて聞いた」言いながら、彼は椅子に逆向きに腰かけた。「本当に大丈夫なのか?」

「ちょっとその辺を飛んで来るわ。外の様子も見てみたいし。あなたを乗せて飛ぶのはその後ね」

「はいはい」

 どすどすと音を立てて書庫を出て行くラナへと視線を向け、キリルは手を振った。

 やがて扉の向こうから、制止させようとする司書であろう男の声と、凄んだラナの声が聞こえてくる。押し問答はしばらく続いていたが、司書が折れたのか、ラナの足音が遠ざかっていった。

 誰もいなくなった書庫の中で、キリルは一つため息をついた。書庫には窓もなく、外を臨む事もできない。ただ天井まで続く本棚が、さながら書の海に溺れているような感覚におちいってくるのである。

 扉が開く音がしたのはその時だった。キリルがおどろいて振り返ると、神妙な面持ちをしたクラースが立っていた。

「どうしたんだ?」

 と、キリルが問うと、

「魔法について調べているようですね」

 クラースは言った。

「……ちょっとね」

「魔法はもう書の中にしか記させていないのですよ?」彼は続ける。「そうしてここはその書全てが納められている場所。今更新たな魔法など、存在はしない」

「わかってる、わかってるよ!」キリルが立ち上がり声を張り上げた。「魔法に頼ろうだなんて思っちゃいない。ただ単に──」

 夢を見たかった。そう言いかけた唇を閉ざした。そうして、

「……誰かを連れてくる、そんな事はできないよな?」

 思わず、言葉を紡いでいた。

「ここは書の魔法の霧に護られたまぼろしの図書城。ここから少しでも離れれば、戻る事はできません」クラースはキリルの肩を掴んだ。「それに、書が拒めば、霧の刃によってたちまち身体を切り刻まれる──」

 その時、

「ただいま帰ったわよぉ」

 陽気な声が二人を遮った。

「ラナ……」

「もう、晴れてたと思ったら突然霧が包むように広がって来たのよ? ここからはぐれそうだったわ」

「そう、か」

キリルは再び椅子に腰を下ろす。

「お邪魔だったかしら?」

「なんでもないよ」と、キリルはクラースを見た。「な、そうだろう?」

「そうですね…」

クラースが答える。

「あら、そうなの」

ラナは二人を交互に見遣ると、己の寝かされていた場所へと向かい、座り込んだ。そうして、つまらないと言いたげに、時を告げる振り子のように尻尾を振っている。

「傷口はいかがですか?」

 その場をしのぐように、クラースは尋ねた。

「見てわからない? この通り大丈夫よ」ラナは片翼を広げて見せる。「多分キリルを乗せる事もできるわ」

「その”多分”が不安だなぁ」

 キリルが眉をしかめる。

「古竜を馬鹿にしないで頂戴」

 そんなキリルを見遣り、ラナは言った。

「それでは……」

 クラースがラナを見ると、

「えぇ、そうね。今日中には出発できるわよ」と、ラナは言った。そうしてキリルへと眼をやり、「キリルはどう?」

「悩むな……」

 キリルは首をかしげる。まだ調べ足りない事もある。だが、いつまでも同じ場所に留まっていれば、リーザへの送金も滞ってしまう。ラナも大丈夫だと言うのならば、その言葉に甘えたいと思った。

「それでは、明日出発されるのはいかがでしょう」

 クラースが言った。

「いや、申し訳ないよ。今日中に出発する」キリルは顔を上げる。そうしてラナに前掛けカバンを取り付けながら、「少しの間だったけど、ありがとう。クラース」

 共に部屋を出、外へ向かうクラースにキリルは言った。

吹き抜けの階段を下り、日の下に出る。風がキリルの髪をふわりと舞い上がらせた。

「それでは、お気をつけて旅を続けられて下さい。途中霧がかりますが、真っ直ぐに進めば、じきに地上が見えます。一度出てしまえばここへは戻れません。どうぞ、お元気で」

「あぁ。元気で」

「あなたも──キリル、ラナ」

 彼らの飛び去る姿を見送ると、それから若い館長は頭を下げた。


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