第5話 残された命1

 囲炉裏のあかい炎が、鍋の底に勢いよくぶつかっては、小さな火の粉を巻き上げていました。

 粗末な小屋の中は、壁に掛けられた毛皮の照り返しを受け、華やかな山吹色に染めあがっていました。


 サッダは、力の泉を得たかとばかりに働き続けていました。大柄な鹿のからだをその場で血抜きした後に、小屋まで運び、肉を切り分けて荷ぞりに結び、剥いだ毛皮を木枠に架けて壁に吊しました。

 今は絞った布で、毛皮の表面に付いた血や土を拭き落としていました。


 もう夜も更けていましたが、これまでにキドもサッダも何も食べ物を口にしてはいませんでした。それぞれの思いで胸が一杯だったのです。


「長いこと矢を射てきたわしじゃが、こいつほど心が震えた獲物はいなかった。冬の蓄えのためではない。まして美しい毛皮を我が物にしたかったからでもない。ただただ、こいつを我が手で射とめたかった。わしの心は、今でも震えておるほどじゃ」

 じっと炎を見つめるキドに、つぶやくような声がかけられました。

「そうは言うが、あんたはそいつではなく子鹿を狙っていたじゃないか」

 キドは顔も上げずに言いました。

「確かに二射目は欲をかいた。じゃが最初は違う。おまえは気づかなかったか、親鹿の目は常にヤジリと子鹿の間を彷徨さまよっていた。わしはわかっとった。動きの遅い子鹿に矢を射れば、必ず親鹿が盾となり守ろうとすることを」

 確かにその通りでした。

 親鹿の素早い動きは、自分が逃げるためのものではありませんでした。常に子鹿をかばうように寄り添っていたのです。確実に親鹿を射とめるには、子を想う親心に矢を放つしかなかったのです。


『けど、自身の腕を賭け、獲物と真っ向に対峙するという狩人の誇りはどうなる。サッダはそれを良しとしているのか』

 わからなくなったキドは横になり目をつぶりました。降り積もる雪が、重く山小屋を押していました。


 ※ ※ ※


 翌日、キドは鳥たちのざわめきとともに目を覚ましました。壁の隙間から差し込む光に微かな塵がおどり、毛皮が波打つように輝いていました。


 サッダはすでに起きていました。細い人影は愛おしむように何度も弓をさすっています。

「もう起きとるのじゃろう。わしは毛皮と肉を売りに、国境くにざかいの市まで荷ぞりを引いてくる。二、三日はかかるじゃろうて、先に村に帰っていておくれ」

 いつになく優しい声でした。


 肉はともかく、皮のなめしには日を要するもの。約束した買い手がいるわけでもなく、何をそれほどに 急ぐ必要があるというのでしょう。しかし、夕べから引きずる胸の重さが自然な問いかけを阻んでいました。キドは返事もせずに起き上がると、自分の弓矢をつかみ、外に飛び出しました。


『まぶしい…』

 目の前には白銀の世界が広がっていました。陽の照り返しを受け、どこに目を向けても光が突き刺してくるようです。

『森よ、迎えておくれ』

 目を細めながら、キドは木々の間に駆け込んでいきました。


 山は、昨日の顔は嘘だったと言わんばかりに、獣たちで満ちていました。野鼠や山兎、狐や猪、そして鹿などなど。時折、秋に腹を満たすことができなかった熊、それも灰褐色の大熊が彷徨さまよっているのも見かけました。奥山のさらに奥のこの辺りには、遠い蝦夷えぞの地にしかいないと言われている大熊(ひぐまの類)も数は少ないながら生息していました。

 多くの獲物を目にし、時に大熊に後を追われながらも、キドは、背中に負った弓には、一度も手を伸ばしませんでした。雪に踏み込む足におどけ、頬に当たる風を求めて谷をのぞき、木々の梢から落ちる雪の塊に身を硬くしました。まるで自分も一匹の獣になったかのようでした。


 やがて陽が落ちる頃に山小屋に帰ってきました。小さくまとめられた囲炉裏の炭を見て、村に帰ることを忘れていたことに気づきました。朝まで心に重く淀んでいた思いはどこかに消えていました。


「けど…」

 何かおかしなことが小屋にありました。キドは首をかしげながらわらを取り出して囲炉裏に火を起こし、たきぎをくべました。



 夜は更けていき、小屋の中はしんしんと冷え込んできました。

 戸口に丸められたムシロを取りに行き、はたと気が付きました。戸の上にサッダの弓が掛けられていたのです。

「なぜ、弓を置いていったんだ」

 たとえ荷ぞりを引いているにせよ、邪魔になるほどのものではありません。国境からの帰りに立ち寄るつもりだったのかも知れませんが、弓を置いていく理由にはなりません。

「昨日の山歩きで、あんなにへたっていた。無事に山を下りたのだろうか」

 胸騒ぎが起こりました。


…歳に関わることは、どうしようもねえ…

 何気なく聞き流した言葉がよみがえり、耳の奥で繰り返されました。


「いいや、よけいな心配だ」

 不安を晴らそうと、キドは夕げの支度を始めました。戸口にたまった雪をすくって鍋に溶かし、胸元の巾着に入れておいたあわを流し込みました。

 燃え尽きた炭を掻くと、灰の中に炭棒の半分ほどの長さの白い欠片かけらが見えました。それは金色の鹿の骨でした。きっと胸の辺りの骨だったのでしょう、子鹿をかばって射止められた時の矢傷が斜めに走っていました


『観音様、あなた様はおっしゃいました。これを手元に置き、時が満ちた時に何かを作れと。この母の想いの名残なごりのような骨で、いったいわしは何を作れば…』

 注意深く拾い上げながら目をつぶりましたが、光に満ちた姿は現れませんでした。

 と、戸の前で、ざくりと雪を踏む音がしました。獣のように動き回ることはなく、その場にたたずんでいます。サッダではありません。

「誰…」

 用心のため、小刀を握りしめながら戸を開けました。


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