〈二〉



 広大な街をぐるりと囲った郭壁かくへきの上を駆け、さらに城牆じょうしょうを抜けて二騎は黒い影を落とす小山へ辿り着いた。腰を反って見上げなければならないほど巨大な高楼を重ねた石造りのこれが、街を守る要塞であり王のおわす城だった。


 大広房おおひろまにはすでに大多数の僚班、伴當たちが集まっていた。壇上はいまだ空席、貴人の姿はない。


「おや、狼家の」

蔡豊さいほうさま、ご無沙汰しております」

 天波に声をかけてきたのは長年僚班の重鎮として仲間の信頼厚い蔡家大人たいじんだ。

「まったく、あなたときたら。城で伴當がご無沙汰しているなんてことは普通はありえませんぞ」

 はは、と笑って天波は肩を竦めた。「それで、蔡豊さま。今日のお召しはいったい何事ですか」

 潭凱が慌てて言う。

「お嬢、お伝えしたでしょう。前回の登狼登虎のことですよ」

 天波は瞳を宙にさまよわせた。「ああ――あれか、合格者がわずかだったという」


 登狼を突破するのは容易なことではなく、さらに登虎は登狼よりも上段の登用試験、合格者が出ないことも珍しくはない。


「なぜ半年も前のことをいまさら?」

さきの登狼を受けたのは五十人、登虎は五人。合格者はいなかった。これだけなら、何も珍しいことではありません。しかし、奇妙なことがあったのです」



 通常なら、たとえ脱落しても軽傷重篤の差はあれど大多数は生きて帰れる試練だ。しかし前回の登狼では大半が死に、時を同じくして行われていた登虎でさえも生存者がいなかった。たった一人、登狼を受けかろうじて生きて帰った少女はずっと寝たきり、つい先日ようやく目覚めた。登狼も登虎も受験者どうしを戦わせるような類のものではなく、同級者を排除することにはさほども意味がないので誰かの陰謀というわけではなさそうだった。であるのに五十四人全員がひどい死に様で見つかった。これに異状を感じた重臣たちは帰ってきた少女の快復を待ち、今冬の試験の前に詳細を把握したいと思っていたのだ。



「なるほど、おりよく昏睡から戻り、事情を聞いたというわけか」

 ということはその事情とやらが重大なことのようだ。天波はようやく話を飲み込んだ。

「生き残りがあれです」

 潭凱が目で示した先、壇のすぐ下に座り込む小さな背を見て呆気にとられた。

「ちょっと待て。まだ子どもじゃないか」

 ええ、と潭凱も眉間に皺を寄せ、蔡豊が袖を口に当てた。

りん家は功を挙げることに焦っておる。あのように幼き者に登狼を受けさせるなんて正気ではない」

「いったい、いくつなのです?」

「七つかそこいらと聞きましたよ」

 ばかな、とさらに凝視した。年端もいかない幼年者に受けさせるような試験ではない。しかし、登用する年齢に制限などないのもまた事実、本人が行くと言えば大抵は許可されるのである。


 ざわめきが大きくなるなか、小さな背は丸まることなくじっと空の壇座を見据えている。その後姿はあまりにか弱く、頼りなげに見えた。声をかけてやったほうがいいだろうかと天波が一歩踏み出したとき、開扉の号令が聞こえた。



 臣下たちは一様に膝をつき頭を下げる。倣いながら天波はちらりと入ってきた当主を見た。就任して三月みつきあまり、長身に広袖の衣を揺らめかせ壇上に音もなく登った当主の顔は黒い仮面で覆われている。旋毛つむじの一筋だけが白い黒髪がいちどうなじでひとつに纏められ、輪を三つわがねて余った房は胸に垂れかかっていた。


 当主のすぐ下に座した進行役が口を開いた。

「本日集まってもらったのは皆も周知のように、初春の登狼及び登虎の件である。このたび唯一戻ったこの鈴丞りんしょうが目覚め、何があったのかを証言した。いま一度、皆にも仔細を把握し吟味してもらいたい」

 促されて壇下の幼子は向き直った。膝立ちになり揖礼れいをする。

「鈴丞と申します。この度の件、長らく伏せっておりまして当主ならびに皆々様には多大なるご迷惑をおかけしました」

 幼いなりにもきびきびと言葉を繋ぐ。

「正直に申し上げますと、眠っているあいだに見た夢と混同しているかもしれません。しかし、わたしはたしかにを見ました。それは間違いありません」

 凛と顔を上げた。


「……おそろしく大きな闇でした。わたしは、その闇が瞬きごとに姿を変え、皆を喰らうのを確かに見ました」


 広房はしんと静まりかえり、呆然とその言葉を聞いていた。天波もまた反芻する。

「大きな、闇……」

「闇とは?」

 問われて鈴丞は俯く。「なんと答えれば良いのか、わかりません。谷底に大きくわだかまったうろのよう、その中に入ると光を見ず、自分の息継ぎの音さえ聞こえないのです」

「中に入る?」

「取り込まれると言ったほうがいいかもしれません。とにかくまわりに真の闇しかなくなります。外にいるうちは、それはさまざまに姿を変えました。狼や、虎や、大きな鳥に」

「それは何だ」

 聞いた者たちが騒ぎ出した。

「お前の夢ではないのか」

「なれどほとんどが死んだのですぞ」

「まやかし……いや、妖の類か。それに皆喰われたと?」

「おそらくは」

「それは何か。なぜお前だけ生き残った」

 鈴丞はさらに苦悶に満ちたさまで目をつむり、微かに首を振った。額に流れた汗が床に落ちる。

「……姿を、思い出そうとすればするほど、どんどんけていくのです。また、ぼやけていく……」

 ふらりと体勢を崩す。思わず駆け寄ろうとした天波は潭凱に止められた。


「もうよい」


 壇上からくぐもった声が降った。ひどく居丈高な温度のない冷たい声で、黒い面の当主は座したままひたと壇下を見た。

退さがれ」

 幼子は深々と頭を垂れると横に退いた。当主は頬杖をついて皆を見渡す。


 見解を待たれて天波は頭の中を整理する。しかし、仔細を吟味するといっても手がかりなど無きに等しい。困惑した空気が流れ、発言がないのを見てとると主は口を開いた。

「……まず、受験者を襲ったのはそので間違いはない。それは谷底に巣食い、姿を自在に変え、人を喰らう。……このことで、なにか思い当たることはあるか」

 水を打ったようにしんと静まり返るなか、頭指の爪で肘掛けを打ち鳴らした。


 人を食うということは獣かはたまた妖であるに相違ない。しかし、姿を変え、闇のようになる?天波はまるで何者か分からない。五十四人が死んだことを考えれば、鈴丞の証言は嘘ではないのだろうが。

 お前も分からないだろう、という同意を隣の潭凱に求めた天波は、彼が息を飲んでいるのを見て驚いた。他にも、ちらほらと何人かが愕然とした表情で、しかし自信なさげに目を泳がせている。


「潭凱、分かったのか」

 小声でつつくとありえないというふうに首を振った。

「いえ……」

「なんだ?教えてくれ」

「……もう当主もアテがついているようですよ」

 天波が前を向けば当主は指を組んで黙っている。わかっているんじゃないか、もったいぶって、と頬を膨らませ睨んだところで黒面は頭を上げた。

「……予想のついた者もいるだろう。しかし、信じられないことではある。ほぼ伝説、空想上の存在だ」

 やはり、と何人かは頷いた。それに頷き返し、脇台に積んだ巻物のひとつを手に取る。紐を解くと壇上からなんのこだわりもなく放った。


 階を流れて下まで転がった古びはてた羊皮の書、古語を混じえ記された墨の文と文の空白には奇天烈な獣のがある。


 伸び上がって見下ろした天波たちに当主は含み声で静かに言った。



麅鴞ホウキョウが居着いたと考える」



 分かる者は絶句し、思い浮かばない者は唖然とした。


「――ばかな!麅鴞とは、あの麅鴞ですか⁉」


 大声をあげた伴當のひとりを尻目に天波は隣の袖を引いた。

「説明しろ」

 潭凱は前を向いたまま短く息を吐いて腕を組む。

「存在は神話に近い、伝承に出てくる怪物です。姿を変容させ人を惑わして食べる。しかしこれが事実なら大変なことです」

 説明しつつ蟀谷こめかみから冷や汗がつたう。

「麅鴞の本性ほんせいは妖魔、魑魅魍魎ちみもうりょうたぐいです。おおよそ人にどうこうできるものではないのでは」

 当主の近くは最も騒がしくなった。


「それが本当なら手を出すべきではありません。今年の試験は中止です」

「中止したところで状況は変わらないではないか。このままずっと居着かれてはもっと累が及ぶ」

「だからといって貴重な人材を失わせるというか」

「討伐隊を出しましょう。このままそやつがずっと谷底にいるのならまだしも、上がって来て街に侵入されれば同じことが起こります」

 息を飲む間があり、どよめいた空気は困惑と恐怖に満ちた。

「討伐……しかし、そのような化物を我々が討ち取れますでしょうか」

「殺せずとも谷から、我らの領地からは確実に追い出さねばならぬ。民の生命がかかっておるのだぞ」

「しかし、次期伴當と目されていた者さえ全滅させるような妖魔ですぞ」

「事は大凶にございます。民に混乱を招かぬうちに速やかに禍根を取り除く必要があります。当主、いかがか」

 当主は短く沈黙し、熱くなった臣下たちを落ち着かせるかのように手をかざしてみせた。

「予想だけで、まだ麅鴞だという証はない。さきがけて確かめる必要がある」

「斥候をお出しになると?しかし、あの非常に入り組んで深い危険な谷ですぞ、並大抵の者に務まることではありません。出すにしても僚班級に能力の高い者でなければ戻って来られませぬ」

 いや、と別の声が言った。

「城の侍臣をみすみす失わせるわけにはいかぬ。当主、ここは万騎はんきに任せるのはどうでしょう」

「どういうことだ」

「荒くれが多いとて、万騎兵も能力の高い者たち。しかしまつりごとに関わっていないぶん、大きな損害とはなりません」

 聞いていた天波は拳を握った。万騎を使い捨てる気か。

 当主は腕を組んだ。「……そもそも谷を使うのは登狼登虎のときのみ。万騎とて谷に詳しくないのは同じだ。そんなあやふやな地理の場所で、しかも本当にいるかも分からない怪物を見つけろというのはいささか無謀に思う」

「しかし、このままただ手をこまねいているだけでは何の解決にもなりません。現に五十余が犠牲となっています」



 犠牲者の遺骸は鈴丞が満身創痍で帰還した数日後、崖上に山積みになっているのが発見された。ある者は四肢を欠き、ある者は頭が無くみな身体のどこかを切り取られたさまで、まるでもてあそばれたかのように遺棄されていた。すなわち実際に谷に降りて捜索していないのだ。もともと試験を受けて帰らなかった者は死んだと看做みなされて遺体の回収は行われない。加えて登狼、登虎とは一生のうちに一度挑戦出来れば良いというほどの惨苦、成功した者は二度と受けることはないし、失敗して生きて帰って来られても再挑戦する者が少ない。ゆえに谷底の岩や洞穴や草木沼が混成した蕪雑ぶざつな迷路と呼ぶべき地形を把握している者はいなかった。



「どのみち真実を確かめる為には人を遣わさねばなりませんでしょう。伴當を筆頭に立て、残りの小隊を万騎で組み調査させましょう」

 意見を交わす人々の中で当主は沈黙した。またひとりが言う。

「少しでも谷に詳しい者がおれば良いのだが。どうします、民のあいだにも識者がいないか募りますか」

「あまりに危険ではないか」

「実際に遣わす必要はないでしょう。なにか少しでも手掛かりがあれば」

 話の行方を追っていた潭凱は隣の主が一歩前に出たのに気がついた。


「――――あの!」


 響いた声に皆が注視する。隅で手を挙げたのは少女、至極落ち着いた調子で壇上を見る。

「調査隊にはあくまでも万騎主体で考えておられるようですが、おそらく彼らはこの話には乗りません」

 お嬢、と押し殺した制止を無視して天波は続ける。

「それに、もしその麅鴞とやらと会敵したとしても逃げ切って、あるいは退治して報告できるような者が行くべきです。ひとりも帰って来ないとなれば本当にそいつが原因なのかも分からずじまいですし」

 谷は人を拒む魔境、なにも危険なのは麅鴞だけではない。

「あと、谷に詳しい者なら知っています」

「まことか?誰だ」

薬師いしゃ炮眇ほうびょうです」


 聞いたことのある名に一同が納得した。炮眇は薬学の第一人者で一族きっての名医と噂される男だ。


 壇上の当主が脚を組み、めん越しに天波を見据えた。

「では炮眇に話を聞くとしよう。しかし失われてはならない貴重な人材だ。谷に降ろすことはせぬ。それで、万騎が拒否すると?であるなら誰を遣わす」

「まずは麅鴞だという確認が取れればいいわけですね?討伐でないならそれほど人を集める必要はないと思います。伴當から四、五人で十分ではないですか」

 咎める声が不快げに荒ぶった。

「分かったように」

「偉そうに采配するでない、わきまえよ小娘」

「口だけならなんとでも言えよう」


「……では、口だけでなく」

 背筋を伸ばした。


「――私が行きます」


 一瞬ののちに静まる。しかしすぐに喧噪が沸き起こった。

「なにをばかな」

「意地を張るものではない。これは遊びではないのだぞ」

 横にいた蔡豊もおろおろと天波を見る。潭凱はたまらず主人の腕を引いた。

「お嬢、何を言ってるんです。撤回してください」

「お前こそ、私が冗談でこんなことを言うと思うのか」

 超然と言い返し腕を振り切り、ずんずんと人垣を掻き分けて壇下に踏み出した。堂々と立ったまま当主を見上げる。

「皆には驚かせるので黙っておりましたが、私は去年登虎に受かってからというもの、度々谷に降りております」

 一同は唖然として凝視した。

「もちろん、深くまでは分け入りませんが、崖肌からおおよその地形は掴めますし、谷は冬よりも今のほうがまだ霧も少なく見晴らしがきく。妖の潜んでいそうな洞穴や岩窟のアテもいくつかあります」

「なんと危険極まりないことをしておるのだ。呆れて物も言えぬ」

「勝手も大概にせよ、狼家の。命が幾つあっても足らぬぞ」

 天波は周囲を見回した。

「登狼登虎で帰って来られずとも、助けに行けばまだ生きている者もいるかもしれないのに、それをしないのが私にはどうも納得がいきません。去年の私の登虎の時も、動けなくなり助けを求める者がおりました。伴當や僚班が貴重だと言うのならみすみす惜しい人材を見捨てることはない。だから、もし道を知っている者がいればいざという時救えるかもしれないと思ったまでです」

 その為に谷を探索していた。そんな理由で、とまたも呆然とした空気が流れる。

「……登虎を受ける者は谷を抜けるまで何人なんぴとも助けてはならないし、それを求めてはならない。また外の者も手を貸してはならない。そういう、掟だ」

 静かに言った当主に天波は返した。

「分かっております。しかしこうして不意の非常が生じた。備えていて損はなかったと言えますよね」

 不敵に笑った彼女に、僚班らは眉をひそめてけなし、または感心して喜色を浮かべた。しばしの間黙って見つめていた当主はひとつ息を吐いた。

「良かろう。貴様に麅鴞探索の指揮を任す。あと五人選出して奏上せよ。人選は伴當僚班からでも万騎からでもよい。ただ、民を巻き込むことはならぬ」

「よろしいのですか、当主。このような大任を」

「大任といっても、結局は皆が押し付け合うことになったのではありませんか。それなら私が行きます。五十四人の無念を晴らします」

 さざめきが途切れる。天波は片膝をついた。

「狼天波、この任拝命いたします。必ずや原因を明らかにしてみせます」


 当主は軽く頷き立ち上がった。それで合議の終わりとなり、大多数の者はいまだ狼狽したまま頭を垂れたのだった。





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