それは戦いの始まり

 それはいきなりやってくる。


 今ここに、すぐに。おしまいだか始まりだかは知らないが、いつだってそうだった。今日はその一日のクライマックス!


 救われないが救いたい愚かな自分に、災いを。呪いあれ!


 姿なく声も無し、そこに在っても誰も知らず知られることもない。なれど名前だけを知っているその娘、リュミエンヌは無防備な姿をさらしだして目の前にいた。


 その少女の眼前にはそそり立つ乳白色の立方体が漆黒の闇が覗く大扉を開いて、彼女を呑み尽くそうとしている。


 リュミエンヌは見開かれた瞳に歓喜の表情を浮かべ、両腕を広げると全身を差し出すと投げ出さんばかりに半ば背筋を反らせて入り口を前に立っていた。


 彼女は今にも笑い出すのではないかと思うほどリラックスした様子でその怪異に向かい合っていて、それはリュミエンヌが正気を失い、今またさらに狂気の淵に置かれていることがノワールならずとも誰の目にも明らかだった。


 そして目の前の扉の奥からはリボンのような細長な”白い帯”が奔流のような勢いと数百本の数で彼女を取り巻き、生き物の触手のように彼女に巻き付こうとする。


「リュミエンヌ!リュミエンヌ!」


 ノワールは連呼する、彼女の頭上から、背後から。そして、その耳元で、全方位から同時に呼びかける。彼女にはそれでも届かない。


「ノワール」は彼女の従者にして、戦友。そして”ともだち”として出会い、”友人”になるまでの歳月を共に生き命を分かち合ってきた。呪式によって作られた霊的なトーテム。奉仕をさだめにリュミエンヌに与えられた”手段”であり、私なき忠節で仕えてきた。


 ノワールは物理的には実体がなく”気配”だけの存在としてリュミエンヌの周囲に偏ることなく全方位に偏在している。


 それは見えず聞こえず言われなければ、いや言われていても周囲には認識できない物理的のみならず社会的にさえ”透明”な存在だ。


 誰も知らないから何時でもそこにいる。リュミエンヌだけがそれを知っている。だがそのためのノワールだ。そのためにいるまさかの時の”切り札”としての存在だ。いやそうでなくては…と。


 ノワールは焦っていた、脅威と近すぎる。間合いがなさ過ぎた。


 振りほどくにしてもリボンの数は途方もなく、瞬く間にリュミエンヌの全身を包み込む。いやそれだけではなかった。


 その一筋一筋はしなやかで軽やかに見えてカミソリのように鋭利な切れ味で触れたすべてを切り裂いて、リュミエンヌの表面から衣服のすべてをそぎ落としてゆく。


 だがそれは攻撃ではなかった。と、とっさにノワールは判断する。でなければ肉も皮も一瞬で彼女は擦りおろされていたろう。


 あれはリュミエンヌに対し無数のリボンで触れているだけで殺意はない。危害を与える気もないのだ。ならばあれは何をしている?うかつには近づけない、下手に触れればリュミエンヌの身体が危ない。それぐらいの速度で取りついたリボンは彼女の身体を嘗め回すように取り廻す。もう外套は跡形もない。彼女を擦りまわす音が半端ないのだ。それが狙いかもしれないとノワールは考える、実際ノワールは手が出せない。


 が、それもここまでだ!確かに呪術的な遠隔攻撃はできない。雷撃柱も殺火弾もリュミエンヌを巻き込んで彼女をローストにしてしまうだろう。ならば、と覚悟を決めた。やるしかない。


 ノワールは攻撃に集中するべく霊気をそばだてると視点を周囲に分散させる、同時に全方位から間合いを取るのだ。肉体に依存しないノワールならではのやり方だ。三次元的にリアルタイムな照準を定めてゆく。数百本のリボンをすべて別々に捉えつつ攻撃の角度を計算する。例えるならそれだけの腕を同時に振るい、一本残らずそれらを一瞬で両断するのだ。


 肉眼では認識できない速度と精度の物理打撃を行おうとノワールは局部的な打撃点を作り出す。気を集中してゆくとノワールの周囲の空気が歪み、ガラスのように表面の屈折した光のエッジがおぼろながらノワールの半透明の外観を浮かび上げた。


 それは千本の鞭のようにしなう腕を持ち複数の振動するヒレのような脚を持つ異形の神の姿。それはもはや怪物と言っていいだろう。それはノワールの持つ八十八の相の一つであり、その由来が示すものは秘して周囲に伝えられることのなかった事にも、それをまだ幼いリュミエンヌにあえて”継承”させたこと自体に、彼女の生誕に及ぶ謎が秘められていた。


 ノワールはその姿をリュミエンヌの傍らに凝集させた。ほんの一瞬、半ば実体を伴うほどに具現化したノワールはその”先端”のすべてをリュミエンヌに指向し一気に勝負に出た。


 だが、その切っ先が触れた瞬間に彼女を取り巻くリボンの束はバラバラになって一気に飛散した。霧のように蒸散しその内側にあったリュミエンヌの姿がノワールの前に表すと、彼女は身に着けたほとんどの生地を失った全裸に近い姿を白日の下に表していた。


 リュミエンヌ!そのノワールが発する”言葉”に彼女は反応を示した。そのうつろな視線が実体を伴うノワールの方を向いた瞬間、彼女の姿はかき消すようにその場から消え失せた。ノワールの視線の向こうにはリュミエンヌのいたところの床に真っ黒な穴が開いている。彼女はそこから落ちたのだ、誰にもわからぬ何処かへと…。失敗だった。が落胆する暇すらノワールには許されなかった。


 穴のあった傍に立ち尽くしていたノワールを突如、巨大な鉄拳が襲う。その大きさたるや拳だけで牛ほどもある大きさで、毛むくじゃらの”剛腕”から繰り出されるそれは例の”暗闇”の門の中から飛び出したものであった。


 ノワールはしたたかに反対側に弾き飛ばされる。油断した、動揺の隙を突かれた格好だった。


「お引き取りを…。」


 ”門”の奥から声がする。先ほど聞いた男の声だ、落ち着き払った柔らかな声に聞き覚えがある。それを聞くノワールをさらなる攻撃が襲う。今度は女の脚だ。門の奥の暗闇からヒールを履いたレースのフリル付きのストッキングを着けて突き出したしなやかな足がノワールを容赦なく蹴り飛ばす!


「退け!汚らわしい下郎めが!」


 今度は女の声。上品できれいな声だけに余計にキツイ。


 それは宙を舞うどころではなかった。砲弾のようにノワールは弾道を描き、通ってきた街道を挟んだ向こう側の森の茂みに叩きつけられると、ひとかかえもある其処にあった大木がササラのような破片をまき散らし根元から四散、倒壊した。凄まじい威力だ。その馬鹿馬鹿しいやり方とシュールなスタイルが却って恐怖を倍増させる事もある。


 叩きつけられノワールは四散した。爆散して散ったフリをする。ダメージはほとんどなかったがここまで”勝機”を失った以上退くしかないと判断する。リュミエンヌのことはそれほど心配はしていない。殺されることはないだろうという意味でのことだが。


 彼女ももう子供じゃないしこういう時の身の処し方は心得ている。そう思い彼女を信じることにした。奴らも意外に紳士的だとノワールは考える、やることに節度とユーモアがあった。


 もちろん自分がやるべきことは別にある。不可視の”男”は不死身であり不退転の闘士でもあった。彼女は取り戻す、言うまでもなかった。


 そしてもう一つの彼は聞こえぬ声でつぶやいた。風邪ひくなよ、と。先ほどに垣間見た裸のリュミエンヌが脳裏に浮かび、きっと着替えもいるなと考えた末、これは長丁場だと覚悟した。


 待ってろよ。それはリュミエンヌが知らない(彼女には見せない)ノワールの素顔だったかもしれない。

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