灰猫と桜の墓

木谷日向子

灰猫と桜の墓

 新聞の記事に、「今年の冬は昨年に比べ、温かい気温」と書かれていた。堀越立春(ほりごえたつはる)はその字面だけを眼鏡越しに追っていると、視界の隅で娘の美桜子(みおこ)が三角座りをしながら、庭へ繋がる大きなガラス窓をじっと見つめているのが入った。

 美桜子は今年で6歳になる。3月の終わり、桜の花が満開の時期に産まれた。「私と一緒で桜に愛された姫なのさ」と妻の志桜里(しおり)笑った。


 思えば、自分が志桜里に惹かれたのも、大学の日本美術史の講義で、偶然隣の席に座った彼女が自分のノートに書かれた名前を見て「わあ、立春(りっしゅん)っていうんですね。名前に春の字が入ってるなんて素敵。私も春生まれだから、志の桜の里って書いて、『しおり』って読むんです。宜しくね。『りっしゅん』くん!」 

 と春の陽射しのような笑顔で声を掛けられてからだった。立春は確かに春の字が入っているが、春の季語ではない。2月初旬の時期に使う言葉なので、真冬である。そのことを知らないくせに、まるで志桜里が言うと全て彼女の言葉が正しいかのように肯定されて聞こえてしまう、不思議な人だと思った。そして、彼女の雰囲気に圧倒されて、オレは『りっしゅん』ではなく『たつはる』だ、と言えないままその日の出会いを終えた。


「ねえ、おとうさんあれ」

 窓越しに庭を見つめたままの美桜子は、すっ、と人差し指で己の前方を示した。

「ん? どうした」

 立春はつられて美桜子の指先を見る。

いつもと変わらない庭の隅に、灰色の塊が存在していることに気づいた。

「あれは……」

 立春は、新聞紙をテーブルに置くと、立ち上がり、ガラス窓を開ける。

近付くとはっきりわかった。あれは猫だ。だが生きていない。

(死んでいる……)

灰色の錆びた毛並みをした老猫が、庭の桜の木の下で体を丸め、硬くなって死んでいた。

気付けば美桜子は開け放たれた窓から、勢いよく庭へ飛び降り、老猫の死体に近づいていた。

 小さな体を屈め、硬くなった老猫の死に顔を見つめ続ける娘に近寄る。

(近所の野良猫が、老衰場所にたまたまうちの庭を選んだんだろうな)立春は思った。

「おとうさん、この猫ちゃん、どうしたの?」

 立春の気配を感じ取り、美桜子が垂直に顔を上げる。肩で揃えた黒髪のボブが冬の陽に白く光沢を放ち、しゃらりと音を立てるように流れて綺麗だと感じた。美桜子は髪質が細く柔らかい。自分譲りではない。志桜里の遺伝だ。

立春は柔らかく微笑むと、腰を屈め、優しく美桜子の頭を撫でる。

「この猫は……おじいさん猫だったんだ。寿命を全うして、天国に旅立ったんだよ」

 立春の言葉を聞くと、美桜子は立春の顎を見上げていたが、かくんと首を落とすと、口を開けたまま、またじっ、と老猫を見つめ続けた。美桜子の瞳が一瞬琥珀色に煌めいたように見えた。

そして、ふいに右手を広げると、老猫の体を小さな手の平で撫でていく。

「美桜子」

 流石に野良猫の死体を幼子が触ることに抵抗を感じた立春は止めようとした。

「おとうさん」

 美桜子の視線は老猫を見たままだが、本当に老猫を見ているのかわからない。

「おかあさんも、こんな風に冷たくなっちゃったの? 固くなったの?」

 美桜子、と問いかけようとし、言葉の意味を理解すると、胸が抉られ、動きを止めた。

掛けていた眼鏡に陽が当たり、立春の表情は見えなくなった。

「美桜子……」

 娘の小さな背中に、その受け継がれた髪質と、まっすぐな眼差しに、亡き妻の面影が重なり、蓋をして見ないようにしていた悲しい記憶が漣(さざなみ)のように呼び起こされる。



「あ、いいじゃん。ショートも似合ってるよ。ロングより若く見えるんじゃない?」

 気持ちとは正反対に、努めて明るい言葉を志桜里に投げたのは、3年前、丁度桜が満開の3月の終わりであった。

 その日も立春は、妻の容体を心配し、病室を訪れていた。毎日彼女に会いに行きたかったが、3歳の小さな美桜子の世話と会社の仕事に追われ、空いた時間をやり繰りすることでしか妻に会いに行けない。大体は美桜子を連れてきていたが、志桜里の身の周りの世話をしたい時は両親に預けた。

 一週間明けて再会した志桜里の頭は、いつもの藍色の医療用帽子ではなく、亜麻色のショートヘアのウィッグを被っていた。

「ちょっと何それ。レディに対して失礼なんですけどー」

 籠に入った志桜里の好物の蜜柑を持ち、ベッドに近付いてきた立春に不機嫌に目を眇める。その姿が愛らしく、立春に(元気そうでよかった)というじんわりとした安堵を抱かせた。

「蜜柑持ってきたよ。食べられそう?」

「マジ? やったね。さっすがりっちゃん。わかってますなぁ。あれ? でも今春じゃない?」

「兄貴が青森で暮らしてるからさ。あっちはまだ寒いから蜜柑あるんだよ」

 なるほど、と指をぱちんと鳴らし、にかっ、と明るく笑う志桜里を穏やかに見つめる。

『りっちゃん』という呼び名で立春のことを呼ぶ人は、この世の中で志桜里しかいない。

最初に出会った時に立春の名を『りっしゅん』と読むと勘違いしたときに付けられたあだ名で、この呼び名は恋人になってからも、結婚してからも、美桜子が生まれてからも変わることがなかった。最初は嫌だと思っていたのに、今ではその呼び名で自分のことを呼んでくれる人がいないと、不安になるほどであった。

「あとで剥いたげるから待ってて」

「えー、いいよう。りっちゃん剥くの下手なんだもん」

「なんだと」

 こうやって志桜里と何気ない会話で笑い合っている今が幸せだと思った。

 胸の異様なしこりを最初に見つけたのは、立春だった。いつものように志桜里と愛し合っていた時、口づけながらその柔らかな乳房を揉んだ時、違和感を感じ、瞠目した。そして、それが、妻との最後の交わりになった。

 気付けば志桜里はするすると末期ガン患者となってしまっていた。志桜里は童顔で、「大人になってからの人間の老いは緩やかなのに、なんでガンってこんなに急成長するんだろうね」と苦笑いしていたのが、未だに忘れられない。

「あ、りっちゃん見て、一週間前はまだ8分咲きだったけど、桜、満開だよ」

 志桜里の視線に促され、窓を見る。志桜里の病室の窓からは、薄紅色にもう少し白を一滴垂らしたような、美麗な桜の花が咲き誇っているのが見えた。

「本当だ……」

 頬を染め、嬉しそうに桜を眺める妻の顔を見ていると、これから死だけが彼女を待つとは考えられないほど、満開の桜と同じように儚い生命力を感じた。

 桜の花を見つめていた志桜里であったが、ふ、と唇を噛むと、切なく睫毛を揺らし皮肉に笑った。

「これからも、桜が毎年咲いていくのを、見たかったな。桜が毎年綺麗に成長して、満開の花を咲かせていくのをずっと見ていたかったな……」

「何弱気なこと言ってるんだ。お前はこれから100回以上お花見し続けるんだろうが」

 え、と呟き、まじまじと立春の怒った顔を見上げると、堪え切れず、手で口を押え、腹を抱えて笑い出す。

「な、なんだよ」

「100回って……、あたし129歳じゃん。そんなに生きたら、妖怪になっちゃうよ?」

「そうだ。お前は生き続ける」

 ほほ笑みを返そうと笑おうとしたが、自分を見上げる志桜里の満面の笑顔を見た時、愛しさと切なさ、口惜しさと怒りが綯交ぜになったものが喉の奥から込み上げた。

「お前は……、オレよりずっとずっと長生きするんだ。こんなに明るいお前が、オレより先に死ぬはずがないんだ」

 気づけば、立春は頬を涙で濡らしていた。眉をしかめ、瞼をきつく閉じると、後から後から涙がこみ上げ、収まらない。

「りっちゃん……」

 志桜里は立春の腕を引っ張り、屈ませると、彼の頭を自分の胸へ寄せ、両腕で抱きしめた。

 手術で摘出してしまい、もう今は無い妻の胸だったが、柔らかさに包み込まれているように感じた。

「……ねえ、りっちゃん。お願い。あたしの骨は、お墓になんて埋めないでね。あたしの骨は、家の庭の、桜の木の下に埋めてね……」

 耳元で低く透き通った志桜里の声が囁かれた。一拍置いて言葉の意味を理解し、泣き濡れた顔を上げると、志桜里は窓越しの桜の花だけを見ている。

 志桜里の輪郭に、桜の花越しの朝の春の光が纏われ、睫毛や鼻筋を白く縁取り、輝かせて、表情が見えなかった。


 志桜里の遺体を焼却した後、遺骨を箸で拾い、骨壺に遺灰ごと入れる。その光景を自分の体で行いながら、心はあの志桜里と過ごした病室の中に置いてきてしまったように感じた。あんなに深く愛し合った柔らかい体は、今では両手で抱えられるほどの軽く小さな骨箱になってしまった。

 49日まで志桜里の遺骨を家に置いている間、立春は切り裂かれるような虚無感と共に、志桜里の遺言を頭の中で反芻していた。

『あたしの骨は、お墓になんか入れないでね。あたしの骨は、庭の桜の下に埋めてね』

 先に美桜子を寝かせ、深夜まで一人で妻の遺骨と向かい合っていると、志桜里がそこにいるような錯覚を覚える。

「志桜里……。お前の墓、もう決まったんだ。立派な墓だ。毎週、オレも美桜子も来てやるし、寂しくなんてさせない。お前のご両親も、娘の遺骨が桜の下に埋まるなんてことを望んでいないんだ。……お前の遺言、叶えてやれそうもない……」

 項垂れ、膝の上に置いた両こぶしを握り締める。すると背後で戸を開ける音がした。

振り返るとパジャマ姿の美桜子が、目をごしごしと擦りながらぼやけた眼差しでこちらを見ている。

「おとうさん、おしっこ……」

 夜中に目ざめ、トイレに行きたくなったらしい。

「美桜子、一緒に行こうね。お父さん、待っててあげるから」

 無理に微笑み立ち上がる。美桜子の頭を撫で、先を促すように肩を抱くと、志桜里の骨箱のある部屋から出ていった。


 腕の中ですやすやと眠る温かい娘の体は、愛しく大切で、抱きながら柔らかい髪を撫でていた。

美桜子は母が亡くなったということを、本当の意味でわかっていないように感じる。病室でこと切れた志桜里と会わせた時も、葬式でも、焼却でも、ぽかんとした顔で大人たちに子供らしい質問をしていた。美桜子ちゃんはきっと強い子なんだわ。と志桜里の両親は涙ながらに言っていたが、立春だけが気付いていることがあった。

 美桜子は、蜜柑を食べなくなった。以前は志桜里と同じように、美桜子も蜜柑が大好きで、よく立春に剥いてくれとせがんで笑顔でおいしそうに一房ずつ食べていたが、蜜柑の「み」の字も口にしなくなった。

それが何故なのか、母親が亡くなったことによるPTSDのような物なのか。わからない。

だが、美桜子の様子を見ていると、夜中にぐずって泣き出すことはあったが、それが母が亡くなったことをわかっていて、悲しみから泣いているのか、それとも母は生きていてどこかへ行ってしまったという寂しさからの涙なのか、わからなかった。母の死について、立春は懸命に、わかりやすく美桜子に伝えようとしたが、多分本当の意味で「死」を理解はしていないのではないか、と思っていた。

 しかし、志桜里が亡くなってから、あれだけ母子が好きだった蜜柑が食卓に上がることは無くなった。


「おとうさん、この猫ちゃん、どうする? おかあさんのおはかに、いっしょにうめてあげる?」

 美桜子は無垢な瞳で立春に問いかける。

立春は、悩んだ末、この灰色の老野良猫を、庭の桜の木の下に埋めることにした。

 桜の木の根元に、スコップで小さな穴を掘り、老猫の死体を布で包んで抱えると、穴に入れる。傍らで美桜子はその様子を珍しそうに見ていた。

 その体に土をかけ、埋めようとしたとき、立春は何かを考え、動きを止める。決意の眼差しで老猫を見つめる。

そしてシャツの中に隠していた小さなハート形の銀色のペンダントを首から外すと、老猫の遺体の上に置いた。

 それは、骨壺から取り出した志桜里の遺灰を入れた、遺骨ペンダントだった。

「おとうさん、これ、なあに」

「お母さんの、最後の一部」

 切なく娘に微笑むと、迷いを振り切るように老猫とペンダントに土をかけていく。

美桜子はじっと、その様子を見ていると、ぽつんと呟いた。

「お母さんのかけら、きらきら光っていてきれいだった」

「……時期に温かくなる」

 スコップを置き、両手を合わせると、戻ろうと美桜子を促す。

しかし、美桜子は、人差し指で天を差した。

「おとうさん、見て。桜、咲いているよ。まだ冬なのに」

 娘の鋭い観察眼の先には、枝の中にひとつだけ咲きかけている薄紅に染まりかけた桜の蕾があった。

立春はその蕾を見て瞠目し、志桜里が病室で言った言葉を急に思い出した。


――――これからも、桜が毎年咲いていくのを、見たかったな。桜が毎年綺麗に成長して、満開の花を咲かせていくのをずっと見ていたかったな――

 

あれは、あの言葉は、庭の桜のことでは無かったのだ。あの「桜」は美桜子のことだったんだ。娘の美桜子がこれから毎年年齢を重ね、成長し、美しくなっていくのを、母として見守っていきたかったという意味だったのだ。

 庭に自分の骨を埋めてくれ、と言ったのは、庭の桜となれば、美桜子を傍でずっと見守っていられると考えたから――

「志桜里」

 亡き愛妻への溢れる想いが涙となって止まらなくなり、立春は口を手で押えると震えながら屈み、俯いて号泣した。

 そんな父に近寄り、美桜子は彼の頭を撫でると、つられてなのかわからないが、一緒になって泣き始めた。

 

 その日の夜、何が食べたいか美桜子に尋ねると、美桜子はお父さんの剥いた蜜柑が食べたいと言った。立春は驚き、そして、志桜里が亡くなってから初めての満面の笑顔になり、頷いた。

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灰猫と桜の墓 木谷日向子 @komobota705

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