33.エリミアスの戦い(上) 公爵視点

 イルミーレに皇国商人の懐柔を頼んだ時、私が真剣に効果を見込んでいたと言ったら嘘になる。


 イルミーレは社交の天才だが、商人の懐柔は謀略の範疇に属する事だ。そもそもが帝国に私に悪感情を持っている皇国商人を懐柔し、皇国の情報を得ようなどという事が簡単な訳が無い。いくらなんでも謀略と諜報の素人であるイルミーレには荷が重かろう。


 ・・・と、思っていた事もあったな。私が思わず遠い目をしてしまうくらい、イルミーレの手際は鮮やかだった。


 皇国商人を招いた夜会。イルミーレに挨拶に来る商人の関心はやはりイルミーレが本当に聖典を読んだのか?だった。それはそうだろう。聖典はそこらにある物では無いし、そうは読める代物でも無い。


 しかしイルミーレは聖典を侍女に持って来させ、その場で読んで見せるというこれ以上無い証明をして見せた。これには皇国商人も納得するしか無かった。別にイルミーレは自慢げでも無く当然という表情だ。皇国と国境を接せず、何の関係も無かったワクラ王国出身のイルミーレには皇国に対する先入観が無い。聖典も面白そうだと思ったのと暇つぶしに読んだと言っていた。なので皇国人に対して帝国民が持つような敵愾心のような物も無いし、聖典を胡散臭いと思う感情も無いのだろう。


 皇国商人はこの時点でイルミーレに対する畏敬の念を持っていたようだが、続けてイルミーレがした事で崇拝と親愛の念まで見せるようになる。


 イルミーレは私達に送られた贈り物を、出席した貴族婦人に購入する様に勧め出したのだ。は?最初は私も戸惑った。贈り物を売れというなど逆に失礼では無いのか?


 しかしイルミーレの考えは一味違っていた。彼女はこの販売を通して帝国貴族と皇国商人に購買という「信頼関係」と持たせようとしていたのだ。商売とは信頼で成り立つ。信用して商品を売り、信用して金を払う。どちらかの裏切りがバレれば商売は続かない。信頼関係が成り立てば皇国商人は帝国で受け入れられる。


 皇国からわざわざ帝国までやって来て商売をしている皇国商人なら誰でも欲するその「信頼」をイルミーレはこの夜会で自分以外の帝国貴族と購買関係を成り立たせることで与えて見せたのである。この販売会は好評で、イルミーレはこの後も何度かお茶会などで開催したようだ。帝国貴族が顧客として信頼関係になれば、皇国商人としても皇国の方だけを向いた商売はもう出来なくなるし、意味が無くなる。


 有事に皇国の手先になる可能性があった皇国商人が中立になるだけでも大成果である。それどころか皇国商人はイルミーレの事を非常に敬愛するようになり、贈り物を持って何度も屋敷にご機嫌伺いに来るようになった。そんな扱いを受ける帝国人は前代未聞である。何しろイルミーレの前に出るとしっかりと跪いて礼拝するのだ。私には普通の挨拶しかしないのに。しかしながら「イルミーレ様の婚約者」という事で「銀色の悪魔」である私にも挨拶するようになったのだから、私への態度も大分軟化しているのだと言える。


 イルミーレの活動の結晶が皇国での飢饉の情報だった。諜報員の情報よりも早く、しかも皇国の皇主が遊牧民族に帝国への略奪を認めたという事まで皇国商人から伝えられた。これは重大な情報だった。


 私は慌てて北西部国境の警戒を命じ、諜報活動の強化を命じた。遊牧民族の移動は早い。一度国境を越えられてしまうと追撃するのが大変だしその間、帝国国内を荒らされ放題になってしまう。まだ侵攻準備段階で対策が取れて、国境で食い止められるというのは本当に大きいのだ。


 実際、遊牧民族は絶賛侵攻準備中だったらしい。私はとりあえず即応出来る様に3万の部隊を編成し、ファブロン将軍に預けて大至急送り出した。これでいきなり国境を破られる事は無いだろう。これはもう何もかもイルミーレのお陰だ。イルミーレが軍人ならこの成果だけで二階級特進させても良いくらいだ。


 諜報員の情報によれば遊牧民を主体にした侵攻軍は10万人以上の規模になるようだった。遊牧民には輜重の概念が無いので、全てが戦闘員だ。であればこちらは輜重部隊を含めて15万規模で臨まなければならない。流石の帝国軍でも近年まれに見る大軍である。私は全軍上げて準備を命じ、私自身も全力で準備に取り組んだ。


 のだったが、そこで激しい横やりが入った。宰相が「皇国から抗議が来ている!皇国には侵攻の意図など無いのに、国境を緊張させるとはどういう事なのだ!」と防衛作戦に勅許を得るために開催した御前会議で私に食って掛かったのだ。


 あいつらが「意図など無い」と言いながら攻め込んできたのはこれが初めてでは無かろうに。と、私は呆れてしまうのだが、宰相は激しく抗議し、予算を出す事に激しく反対した。しかしながら宰相以外の閣僚やもちろん皇帝陛下も宰相の意見には耳を貸さない。宰相の抗議は正式に却下され、予算は無事に通過した。この半年でイルミーレのお陰で帝国の貴族界の勢力図は激変しており、閣僚に宰相の味方はいなくなっていたのだ。


 私にとっては非常にやり易くなった反面、閣僚や有力貴族はもはや明らかに私を皇太子、いや、事実上の皇帝であるとすら扱い始めていた。私は否定するのだが、他ならぬ皇帝陛下がそう扱うのだから困る。私が婉曲に皇帝陛下に抗議すると、兄はこう言って笑った。


「そなたの婚約者の方が腹が座っているではないか。いつまでも逃げ回るでない」


 くっ・・・。実際、イルミーレは私が皇帝になったら皇妃になる気満々らしく、皇妃様から既に少しづつ引き継ぎを受け始めていると聞いた。それを聞いた私がイルミーレに「皇帝になる気は無い」と再度言うと、彼女は優しく笑いながら物凄く辛辣な事を言った。


「陛下がお亡くなりになれば同じ事ですよ?陛下は早くご静養に入らないと数年しかお保ちにならないと聞きました。一刻も早く帝位を引き継ぐのがアルステイン様にとって一番の兄孝行になると私は思いますけど」


 私は絶句した。あまりに正論過ぎて耳が痛い。私は悔しくてイルミーレに少し意地悪く言ってみた。


「なんだ。君は皇妃になりたかったのか」


「い~え。全然。あんな大変な事やりたいとは思いません。ですけど、アルステイン様が皇帝陛下になられるなら皇妃は私がなります。誰にも譲りません。そしてその時にアルステイン様のお役に立てないのは嫌なのですよ」


 イルミーレのブルーダイヤの視線はいつだって真っすぐで正直だ。そして、私に逃げを許さない。私はイルミーレの頭を抱いて意地悪を詫びながら、それでも往生際悪く、どうしたものかと考え込んでいた。





 軍団の編成も済み、皇帝陛下の正式な出陣の勅命も出て、私の出征が一週間後に決まった。私はこの時点まで物凄く忙しく、しかも出陣の高揚に包まれていたこともあり、出征するという事がどういう事かすっかり忘れていた。


 私が帰って来たエントランスでイルミーレを抱き締めながら笑って出征が決まった事を報告すると、イルミーレの顔が真っ青になった。全身から力を失って倒れそうになっている。私は慌ててぐんにゃりしたイルミーレを抱えた。


「どうしたのだ!」


「・・・出征・・・。また、離れ離れに・・・」


 あ!私も青くなった。出征。しかも遠い北西部国境まで遠征となればかなり長期の出張になる。当たり前だがイルミーレは置いて行かなければならない。つまり会えない。こうして抱き締めるどころか、顔さえも見られず、声も聞けない!


 私も力が抜け掛けて、トマスとエルグリアが二人して支えてくれなければイルミーレと二人エントランスの冷たい床に崩れ落ちるところだった。


 私としても嘆き悲しみたいところであったが、私は出征しなければならない。嫌だとは言えない。それに私まで落ち込んでいたらイルミーレが余計にしょげてしまうだろう。私は気合を入れてイルミーレとその日の晩餐に望んだ。案の定、イルミーレはがっくりと既に落ち込んでおり、食事に手も付けない。私はイルミーレを叱り、エルグリアに「縛り付けても良いから食べさせるように」と無茶苦茶な事を言った。あまりの無茶苦茶さ加減にイルミーレは笑ってくれたが、遠征が最低でも二ヶ月は掛かる事を聞くとベソベソと泣き出してしまった。


 私は慌てて「なるべく早く帰ってくるから!それにイルミーレには帝都の事を頼みたいのだ」と言った。帝都の貴族界に睨みを利かせ、情報を集め、それとこの屋敷を守って欲しい。私はこの時そういうつもりでそう言ったのだった。イルミーレは私の言葉に涙を止め。真剣な顔で頷いた。うん。彼女なら大丈夫だろう。


 ・・・この言葉に奮起したイルミーレが「アルステイン様に帝都の事を頼まれたのだから」と、まさかあんな危険でとんでもない事をしでかすとは、この時は思いもしなかったのである。


 出征の日が来て、私は12万の大軍を率いて帝都の街並みを行進し、帝宮の塔から皇帝陛下と皇妃様の激励と祝福を受け、帝都の北の城門へと向かった。行きかう帝都の市民は熱狂的な万歳とエールを送ってくれる。春ならば祝福の花吹雪が舞うところだが、今は冬だ。


 城門の際にはイルミーレが灰色の毛皮のロングコートを纏って立っていた。寒さで頬が赤くなっている。あんなに緋色の髪が鮮やかでなければ、地味な色を纏ったその姿は神官のようにも見えただろう。彼女は馬上にある私の前に進み出て、ブルーダイヤモンドの瞳でじっと私を見上げた。ざわめきが潮が引くかのように静まって行く。


 イルミーレは略式の祈りの姿勢をして、頭を下げた。


「勇ましき戦士たちの上に大女神ジュバールと七柱の大神のご加護がありますように。誰よりも強く、誰よりも速く、誰よりも勇敢で、誰よりも慈悲深くあれ。勝利の神ウェックベルデと勇者の神アルドベレスと友情の神クアンツプールが戦士たちの前を常に明るく照らしますように。我が愛しのアルステイン様の上に大女神のもたらした軍旗が常にはためき、その場所を示し続けます様に」


 本来は神殿の神官が行う出陣の祝福だが、私の勝利を一番祈ってくれているイルミーレがするのが一番ふさわしいと戯れに私が言ったら、遠征軍の幹部が誰も反対しなかったのである。ブレンでさえ反対しなかった。皇国商人が彼女の事を「帝国の緋色の聖女」と呼んでいると聞いたのが理由なのか、それとも他にも理由があるのかは知らないが。


 顔を上げたイルミーレの瞳には涙は無かった。むしろ華麗な笑みを浮かべながら、手を振り上げた。


「アルステイン様と軍団の皆様に祝福を!」

 

 舞ったのはなんと色とりどりの花びらだ。公爵邸の温室庭園からわざわざ持って来たのだろう。寒々しい灰色の風景の中で、花弁の彩とイルミーレの緋色髪だけが鮮やかに映った。決意を込めて見上げるブルーダイヤの瞳に、私は言おうとしていた言葉を言うのを止めた。言葉は無粋だろう。私は彼女に一つ頷くに留め、顔を上げて後方へと怒鳴った。


「出陣する!」


 私は一度も振り返らずに前を向き進撃していった。イルミーレなら大丈夫だ。そう信じられたから。





 季節は冬で、戦線は帝国北西部国境だ。帝都から11日。そこは荒涼とした小雪舞う草原地帯。その外れに位置する都市エリミアスに我々は入城した。ここは皇国と対峙するために築かれた都市で非常に守りが固い。位置的にも遊牧民がどこで国境を越えようとしてもすぐに対応出来るようになっている。


 ただ、あまりにも大軍であるため、城壁の外にも野営地を造営しなければならなかった。この寒さでは野営は厳しいので、城壁内部と定期的に野営する兵士は入れ替える事にする。もちろん、大量の物資をふんだんに輸送しており、兵士たちには十分な食料、防寒のための衣服、暖房のための薪が支給されていた。この手の処置を怠り、長期の遠征で兵士に我慢を強いると、兵士がいざという時に役に立たなかったり、下手すると逃亡してしまう。


 私は先行していたファブロンから報告を聞く。皇国軍は既に国境近くまで進撃してきており、その規模はやはり10万人。遊牧民が主だという。


 しかし、意外な事に大規模陣地を築いて野営をして、そこから動かないという。これはおかしい。私はファブロンに聞いた。


「皇国の軍勢がもう数日、動かないだと?」


「はい。かなりしっかりした陣地を皇国内に造ってそれから動きがありません」


「どういう事だ?遊牧民は確かに野営には強かろうが・・・。皇国の飢饉のために食糧の備蓄は少ない筈ではないか。一刻も早く帝国で略奪して帰還せねば、奴らの家族が飢えてしまうのではないか?」


 こちらとしては長期戦は望むところではある。帝国としては皇国軍の侵攻略奪を防げれば勝利なのだ。帝国は今年は豊作で、南部の穀倉地帯から余るほどの穀物が帝都に運ばれており、むしろ値段の暴落を防ぐために遠征軍が消費してくれているのは有難いとまで言われている。補給ルートはしっかり確保しているし、既に相当な量をエリミアスに備蓄してもいる。こちらが先に飢える事は心配しないで良いのだ。


「何か狙いがあって長期戦を意図していると思われますが、分かりません」


「何か皇国本国に動きがあり、それで侵攻を止められている可能性もあります」


 参謀の一人が言ったが、それこそ分からない。


「皇主が許可したのは冬越しのための略奪だと聞いている。それを既に冬なのに長期に渡って我慢させる事が出来る理由など検討もつかないな」


「無策に国境を越えてもこちらにこれだけの大軍がいるのですから略奪は難しいでしょう。怖じ気付いただけなのでは?」


「連中には生活と家族の命が掛かっている。略奪を諦めるという選択肢は無い筈だ。必ず奴らは来る。ならばやはり何らかの時期を待っているとしか思えぬのだが」


 私は考えたが全く見当も付かなかった。とりあえず厳重な監視と諜報を命じ、待つしか無かった。


 帝都と前線の間は、幾つか駅を置きリレー形式で運ばせる事で、書簡を5日で届ける事が出来る。往復で10日だ。流石にリレー形式の早馬は公的な文章の往復にしか使えない。いや、私信を持たせる事は出来なくは無いが、全ての文書は一度帝宮に届けられ、帝宮の文官が内容を確認する。その際に総司令官である私が婚約者に送る愛の言葉満載の文書を見られるのは流石にまずい。そのため、私はイルミーレとやり取りする手紙をわざわざ自分の家臣に運ばせていた。これだと使者と馬が休養を取らなければならないから片道8日前後掛かる。


 本当はイルミーレの手紙こそ最速で欲しいのだがこればかりは仕方がない。イルミーレの手紙には以前とは打って変わって誌的な愛の言葉が美しく謳われており、読んでいて楽しい。ただし、目が悪いので字は下手だ。こればかりは仕方が無い。実はこれは本人も非常に気にしていて揶揄ったりすると本気で怒る。


 もちろん、愛の言葉だけではなく、帝都の状況も詳細に記されている。イルミーレは精力的に動いて情報集めをやっているようだ。公爵邸の下働きに頼んで帝都に流れる噂話などまで集めていた。イルミーレならではだ。皇国商人も戦争中であるにも関わらず関係は良好であるらしく、そこからの情報もある。本国からは特に何も言ってこないらしい。


 こちらからも負けずに愛の台詞と前線の状況を送る。帝都の平和と前線の不気味な停滞はアンバランスなのかそれとも調和しているのだろうか。皇国商人に本国から何の音さたも無いというのが気に掛かる。戦争中であれば本国から何らかの指示や依頼があっても良いだろう。皇国商人が嘘を言っている可能性はあるとしても。


 そんな事をしている内に私達が出征して1ヶ月が経過した。


 流石におかしい。あれほどの大軍を編成して国境まで進出しておいて何の動きも無く停滞するとは。もう年末である。つまり冬が始まってかなり経つ。皇国から支援が無ければ冬が越せない筈の遊牧民はそろそろ飢え始めてもおかしくはない。いくら我が軍を恐れていると言ったって、小部隊による迂回作戦とか陽動だとかやりようはあるだろう。


 ちなみにイルミーレの誕生日が今月の始めにあったのに過ぎてしまった。一緒に祝いたかったのにガッカリだ。一応、エルグリアに託しておいたから誕生日のプレゼントは当日に渡されただろうが。というか、この戦役が無ければ来年早々に私達は結婚の儀式を執り行う筈だったのに!戦役が長引く程結婚が遠ざかる。


 不安、不信、不満を溜めながら寒い北の大地でジリジリ日々を過ごしていた私の元に、突然凶報が飛び込んで来たのは、年が変わるほんの数日前の事だった。


 


 


 


 

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