アレス国王への謁見

 中庭が目に入ると、あの日出会ったばかりの小さな王女がまだそこにいるような気がして、リュシアンははっと我に返った。彼女は、もうここにはいない。ここはおろか、国内にすらいないのだ。それどころか、他ならぬ自身のせいで蛮族に奪われた挙句、アレス王の意志によって命まで狙われてしまった。


(あの日お仕えすると誓ったはずが……こんな無様な羽目になるとは)

 

 幾度目になるかもわからぬ悔恨を噛み締めていると、いつの間にか案内を終えた王宮仕えの侍女が立ち止まっていた。


「こちらにございます」


 そびえたつ荘厳たる白い扉。その上には、国章でもある赤い薔薇と獅子をあしらった紋様が刻まれている。扉を守るようにずらりと立ちはだかるのは、王立騎士団の白い装束を纏った騎士たち。その誰もが人形のように無表情で、リュシアンには見覚えがない者ばかりだった。


「……行きましょうか」


 傍らの朗らかな声も、いつにも増して緊張を帯びている。どうやら、「王の間」とも呼ばれる謁見の間まで来たようだ。


 リュシアンは深く息を吐いた。今の目的はただ一つ。あの密偵から託された手紙を渡し、王の真意を確かめることだ。彼が本当にシエナのことを殺そうとしていたのか。アル・シャンマールからの使者をことごとく殺していたのか。

 しかしながら、この国では王が白と言えば白、黒と言えば黒となるのは周知の事実だ。兄がシエナに剣を向けた一件から、リュシアンの中に芽生えた王への不信感はそう容易く拭いきれていなかった。難癖を付けられて罪人として投獄されても、何ら不思議ではない。


 悪い想像が脳裏を過ぎった途端、リュシアンの足取りは鉛を引きずるように重たくなった。万が一にも拘束されてしまえば、シエナを救いに行くことは叶わなくなる。彼の顔色が優れないのを見て取ったのか、セシルはそっと囁いた。


「大丈夫です。僕が付いていますから」


 澄み切った水色のアーモンド形の瞳を見つめ返す。その眼差しは童顔には似合わず、堂々と落ち着き払っていた。


「そう……だな。」


 確かに、リュシアン一人ではどうにもならなかったかもしれないが、セシルの父―オルコット公爵のおかげで、謁見の約束も叶った。王も公爵の手前、二人を下手な目に遭わせることはしないだろう。そう思い直した騎士は落ち着きを取り戻すと、改めて目前の扉を見つめなおした。


「……恩に着る。」


 彼らが意を決して王の間に足を踏み入れた瞬間、ぴりつくような空気が肌に突き刺さった。扉を開けた騎士が跪く様に諭す。辺りを伺う暇もなく、二人はすぐさま膝を付け顔を伏せた。

 一分が何十分にも思えるじれったい時間が進んでいく。やがて、不意に重々しい足取りで誰かが入ってくる気配がした。途端に走る緊張感。と、唐突に響き渡る大声に、彼らは顔を伏せながらも身を縮めた。


「国王陛下、万歳! アレスの太陽に大いなる栄光があらんことを!」

「我らの偉大なる父、国王陛下万歳!」


 永遠に続くかと思われた静寂を破ったのは、万歳三唱。それにより、王が来たことを悟る。張り詰めたような緊迫感が広がる中、雷鳴が轟くように荘厳な一言が放たれた。


「面を上げよ。」


 赤い絨毯が敷かれた先の玉座は、随分と遠く感じられる。そこには立派な赤い毛皮のコートを纏った壮年の男が、射抜く様にこちらを見据えていた。険しい眉間に刻まれた皺に、表情の見えない青緑の細い瞳。引き結んだ口を覆うのは、長年に渡って蓄えられた白銀のあごひげ。かのアレス国王は、リュシアンが騎士団時代に遠目に見た時よりも一層迫力を増していた。その場にいるだけで、誰もをひれ伏させるような気迫は相変わらず健在のようである。


「リュシアン・ブラッドリー。ならびに、セシル・オルコット。そなたらのことは公爵より聞いておる。その望みとやらを申し入れよ」

「……。」


 耳が痛くなるほどの静寂は、呼吸音すら向こうに筒抜けのようで、次の一言を発するのも躊躇われた。全ての注目は、自ずと二人に集まっている。王だけに見つめられているはずが、無数の目から監視されているような感覚に、リュシアンは居心地の悪さをひしひしと感じた。下手なことを口走って王の機嫌を損なえば、彼らなど虫けらのようにひねり潰されてしまうだろう。

 重圧のあまり、額に脂汗が滲む。渇いた薄い唇を開いて声を出そうとしても、喉の奥が震えるようで、彼は躊躇するように言葉を飲み込んだ。それから、暫し逡巡した後、おずおずと口を開いた。


「まずはこのような機会を設けていただき、陛下の寛大なお心に感謝申し上げます」


 そして、件の書状を差し出すが早いか、王の深い眉間にはシルティグアイムの峡谷よりも深い皺が寄った。


「……それは、何だ」


 交差する湾曲した双剣に、コブの付いた猛々しい馬は砂馬の紋章。それはほかならぬ敵国を意味するものであり、本来ならここにあってはならないものだ。厳かな声は、心なしか凍てつくような冷気を帯びている。


「そなたらは何ゆえ、蛮族の使者の代わりをしておるのだ」

「……。」


 追及するような語気に圧倒されそうになる。なんと説明するべきか迷ううちに、リュシアンは黙りこくった。頭の中をぐるぐると巡るのは、カティーフでの悪夢のような戦いに、気だるげな密偵に託された経緯だが、それを順序だてて説明しようと思えば思うほど、言葉に詰まる。


「―それに関しては、僕から説明差し上げてもよろしいでしょうか。」


 彼が何か言わなくてはと焦燥に駆られていると、傍らのセシルが臆することなく助け舟を出した。驚いて目を見張ると共に、ひそかな安堵に胸をなでおろす。


「構わぬ。申せ」

「仰せのままに。……この者は、第十三王女・シエナ殿下の護衛騎士を務めておりました。そして、僕も殿下の教育係を務めておりました。僕たちは先日頂いた手紙により、王都に戻る予定でございました。しかし、度重なる不運により航路を絶たれ、仕方なく、東の国境付近を迂回しておりました。その途中で蛮族に襲われ、不覚にも殿下を奪われたのでございます」


 聡明な教育係は淡々と事実を述べつつも、複雑な事情はさらりと流しながら経緯を述べた。嘘は言っていない。カティーフでのいざこざは、手紙の内容を示してからが良い、という冷静な判断だろう。


「なるほど。ならば、蛮族はそなたらを解放する代わりに、その書状の使者をするようのたまったと言うことか。」

 

 本来ならもう少し付け加えるべき内情はあるが、間者と疑われるのも面倒なので童顔の青年は大きくうなずいた。リュシアンも彼に勇気づけられるように続けた。


「……姫様を守れなかった咎はすべて俺にあります。ですから、いかなる罰も受ける所存です。しかしながら、あのお方は生きておられます。俺はこの目で、人質として生かされていることを確認しているのです。 」

「さようであったか。ところで、その文には何と書いてある?」


 敵国からの書状を目にした途端、何歩も先にいるはずの王に気圧されるようだ。これではその剣幕だけで、いつ首が飛んでもおかしくない状況である。

 王のそばに控えた紳士は二人の元まで恭しく進むと、手紙を手に取った。そして王の元へいそいそと戻るや否や、明朗な声で内容を読み上げ始めた。


「『拝啓、アレス国王陛下。西の貴大国に発展と繁栄があらんことを。さて、貴国は先日、布告無しの―』」

「―御託はよい。要点のみを申せ。」


 リュシアンははっとして身を固くした。王が遮った文の続く内容は、例のカティーフ奇襲についてだろう。国王にとっても預かり知らぬはずはない。意図的に飛ばしたのは、取るに足らないことと認識しているからか、それとも触れてはならないことであるからだろうか。


「仰せのままに。では―『.......貴国の第十三王女であるシエナ・ヴェルレーヌ殿下との婚姻に了承を請う』」


 その瞬間、場の空気が一気に凍りついた。予め目を通していた二人は覚悟がついていたものの、王の反応を見る限り、好ましい事態でないことは明らかだ。白い眉がぴくりと不愉快そうに動く中、紳士はなおも続けた。


「『……尚、これまで通り返事を頂けない場合は、本人の同意により了承を得られたものとし、ひと月後に婚姻の議を執り行う。これにより、今後は相互不可侵の掟を結び、互いの国が続く限り遵守することとする。……アル・シャンマール王代理、第三王子ザイド・アル=サレハ』」


 一同は固唾を飲んで王の様子を見守る。やがて、沈黙を破ったのは心底億劫そうなため息だった。


「身の程知らずの蛮族が……。わが国の王女を所望するだと?」


 怒りにすら及ばない、呆れにも似た侮蔑。王は虫けらを追い払うように手を振りかざすと、続けた。


「知っての通り、あれは気難しい病気がちの子でな。この度、あれに南の小国より縁談が来た。私も人並みの親だ。娘の幸せを願って、そのために呼び寄せようと思ったのだが……まさか、蛮族に捕まっていたとは。」


 では、王都に呼び戻したのはシエナの睨み通り、縁談のためであったわけだ。あれほどうんざりしていたあるじの姿を思い出すと、リュシアンは素直に喜ぶことができなかった。けれども、蛮族と無理やり結婚させられるよりは、王の願い通りに縁談を進めた方が丸く収まるのは、言うまでもない。


「日取りはじきに迫っている。こちらの面子が潰れるのは致し方ない。それより、今はあれが帰ってくる方が大事だ」


 あたかも子を慈しむような言葉。果たして、この王は本当にシエナを犠牲にしてでもカティーフを奪い取ろうとしていたのだろうか。そこで、はたとリュシアンは違和感を覚え始めていた。


 自分の兄であるアルヴィンのことは、よく心得ている。彼ほど王に忠実な男はいない。あの時確かに、彼の口によって王がカティーフへの奇襲とシエナ殺害を命じたとこの耳で聞いたのではなかったか。しかしながら、それらの言動と今目にしている王とには、大きな乖離があった。南国との縁談のためとはいえ、シエナが生きていることを願うのなら、なぜあのような命令を下したのだろうか。


 看過するわけにはいかない矛盾に、リュシアンは落ち着かなかった。気づけば、ふつふつと湧き上がってくる疑問を口に出さざるを得なかった。


「……僭越ながら、陛下。姫様がいた場所―カティーフに、王立騎士団を向かわせたのは、本当でしょうか。」

「なんだと?」


 傍らの青年が慌てて両手を振りながら制止しようとしたが、怯んでは真実に近づくことはできない。正義感に突き動かされた騎士は、内に秘めた情熱を抑えて静かに問うた。


「質問を変えます。第十三王女殿下の命を奪うようにご命令されたのは、陛下なのでしょうか。」

 

 その途端、青緑の瞳は氷柱のように尖った。その目にぎろりと睨まれるだけで、心臓を直に掴まれているような息苦しさを覚えた。


「そなたは、儂が人の親と知って、なおそのような非道を行うと申すのか」


 胸騒ぎがする。さては、悪手だったか。それでもリュシアンは見聞きした非道な現実を告げぬ訳にはいかず、拳を握りしめて尚も言い張った。


「騎士団長……わが兄アルヴィンより伺いました。その場にいる者は王女を名乗る者であろうと皆殺しにせよ……と」

「ほう。では、王立騎士団長―アルヴィン・ブラッドリーの処罰を命ず」


 思ってもみなかった返答に、彼は息を呑んだ。王の言う通り、兄が間違っていたのか。それとも、王が堂々と偽りを語っているのだろうか。そのどちらとも判断がつかずに、彼は当惑していた。


「……なぜですか?」

「王女を殺せ、などと儂がのたまうはずなかろう。そのような嘘つきが王立騎士団長を務めるわけにはいかぬ。第一、カティーフの侵攻も命じた覚えもない。そもそも、そこに王女がいたことも存じておらぬぞ。」

「……なっ?」


 動揺のあまり、返す言葉も見つからない。あの忠義に厚い兄アルヴィンが、果たして王令を無視して独断で騎士団を動かすだろうか。にわかには信じられなかったものの、王の手前、それ以上の反論は許されなかった。リュシアンが狼狽している間に、王は断定にも近い語気で切り捨てた。


「おそらく、その騎士団長とやらが単独で行ったのだろう。おかげで、蛮族を調子に乗らせた。……何らかの罰を与えねば」


 おそらく、王はカティーフ奇襲が失敗に終わったため、その責任をすべてアルヴィンに負わせようとしているのだろう。そう気づいたものの、指摘すれば捕縛され、すべての努力が泡になりかねない。


「―そなたはどう思うか?」


 王はリュシアンをまじまじと穴のあくほど見つめていた。無言の圧力を感じる。その視線を感じるうちに、たとえ非はなくても、謝罪をしなければならないような状況にいるのだと思えてくる。そうしなければ、この場で息をすることさえ許されないような気がした。やがて、彼はひれ伏すように額を地に付ける他無かった。


「……身内のやったことです。罰なら……俺にお与えください」


 老王が僅かに口角を上げると、それに合わせて白銀の髭が揺れた。まるで丁度いい駒を見つけたとでも言わんばかりの余裕の笑みに、鼓動が早くなる。


「リュシアンと言ったか。それなら、そなたを見込んで代替案がある。これにより、身内の不始末のけじめをつけるがよい」


 王の氷のように冷徹な目は決して笑っていなかった。その微笑を見た瞬間、全身がぞわりと粟立った。


「蛮族の次期王を殺せ。この手紙の差出人だ。父親は放っておけばいずれ死ぬだろう。手段は問わない。そしてわが娘……第十三王女を取り戻すのだ。さすれば、あれはそなたにくれてやろう」

「……?!」


 一瞬、何を言われたのか理解が追い付かず、頭の中が真っ白になる。


「何を―」

「本気、ですか……?」


 セシルの方をちらりと見やると、彼もまた王のとんでもない提案に驚きを隠せず、困惑したように固まっていた。


「悪い話ではなかろう? この国の王女が手に入るのだ。加えてそなたには、餞別として最高の騎馬や武器を与える。いかがかな?」


 これは提案ではない。選択肢などは元より存在していなかった。ここで首を横に振れば、そのまま首が飛ぶだろう。もはや彼は無言の圧力に屈する他なかった。


「……謹んで、お受けいたします」


 これは、本来のシエナを救うという目的に、宿敵の殺害が追加されたに過ぎない。あるじが救えれば何でもいい。むしろ王のお墨付きとなるのは喜ばしいことだとも言えよう。これくらいで、おのが目指す道は変わらない。

 覚悟を決めた彼の灰紫の目は、冷たい虚空を見据えていた。

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