5-2



 「…………茅花ッ!!」


 喬之介は、男の背中に手を伸ばした。

 同じ――同じだ。

 あの嵐の日の夜と。

 狭まる視界に阻まれ、目は景色を映し出し見ている筈なのに、はっきりと見えない。

 ごうごうと低い海鳴りが耳の奥に轟く。

 海は遠く離れているというのに。

 ――違う。

 血潮。

 これは身体中を巡る血が煮え滾る音だ。

 そうだ。海はいつだって直ぐ傍にある。

 逃れることは、出来ない。

 人が決して、のと同じように。

 伸ばした手は、男の肩を掴む。

 母親の首を絞めていたのは、父親だった。

 高秋ではなかった。

 では、この男は?

 回り込み、握りしめた反対側の拳で男の鼻の辺りを思い切り殴りつけたその時、茅花の首を掴む男の両手が、血に染まっていることに気づいて、喬之介は言葉にならない叫び声を上げた。

 男は鼻から鮮血を飛び散らせ、バランスを失ってよろめきながら驚いた顔で喬之介の方を見る。

 その隙に、茅花の首を掴んでいた男の手が緩んだのを喬之介は見逃さず、男を無我夢中で蹴り飛ばした。男が呻き声を上げながら両手を完全に離した隙に、その身体の下から茅花を引き抜く。


「茅花ッ、ちか、茅花……茅花ッ!?」


 ぐったりとして動かない茅花の触れる腕は冷たく、脈が弱いが、浅く呼吸をしていることを素早く確認すると、頬を叩きながら声を掛け続ける。遅れを取るまいと喬之介が心肺蘇生を始めようとした時、茅花の閉じていた瞼が開き胸が大きく動いた。意識が戻ったことに安堵し、その場に崩れ落ちるように膝をつく。

 誰のものともつかない荒い呼吸音が、吸い込まれてゆくのを見届けるように、肩で大きく息をしながら喬之介は天井を仰いだ。


「……先生? 先生のために間違いを正しに来たのに、どうして邪魔をするんですか?」


 声のした方へと、ゆっくり顔を巡らせる。

 喬之介が殴り付けた時に折れた鼻から出た血が、男の顔の下半分を赤く染めているが、気にしてる素振りもなければ気づいてもいないようだった。

 それにしても……。

 青いストライプシャツの前身頃が、べっとりと濡れ、染みをつくっているのは血だろうかと喬之介は、ぼんやりとした視線を送る。


「須見、さん……」


 言って喬之介は、自身の両手へと視線を落とした。

 血で汚れ、べたつく両手。

 右手の拳には、殴った時に出来たと思われる裂傷がある。

 だが、左手の掌の方の汚れが酷いのは、須見の肩を掴んだときに付いたのだろうか。

 振り返って茅花を見る。

 首回りを血で斑らに赤く染めているが、どこからも出血は認められない。

 

「……その血は、どうして」


 喬之介の言葉に、須見は着ている服を見下ろすと軽くシャツを引っ張るようにして、濡れた部分を摘みながら顔を上げて薄く笑う。

 須見の五本の指先は、掌は、乾いた血が固まり奇妙な赤黒い手袋をしているように見える程だった。


「ああ、これですか? 少し汚れてしまって。私の怪我は大したことないので大丈夫です。それよりも……先生を助けるために来たのにんですか?」


 助ける……。

 焦点の合っていない須見の目。

 じりじりと寄せて来る身体は金気臭く、吐き気を催す獣のような脂の臭いをも撒き散らしている。

 動揺していることを悟られてはならない。いつもの面談のように話しかけろと自分に言い聞かせながら喬之介は、さりげなく、まだ動けないでいる茅花を背に庇うような格好で身体をずらした。

 怪我はしていない、と言う須見の服に付着する血液は異常な量だ。

 どこかにナイフでも持っているのだろうか?

 それよりも

 ちらりと横目で倒れている高秋の方を見る。頭部からの出血は、床に血溜まりを作っているが、傷の場所を考えればそれほど酷いものではなさそうだった。意識のないことに嫌な不安を掻き立てられる。それでも、さっと全身に目を走らせたところ、頭部以外の身体からの出血は見られない。


「…………邪魔、を?」

「そうですよ。先生、先生は私にを教えてくれましたよね? だからこそ私は先生を正しく幸せにする手助けをするため、ここにいるんです。ね? です。先生が過去に間違えてしまったことを、無かったことにするんです」

「……僕の過去の間違い?」

「ええ、そうです。と言っても母の方を正すのに、少々時間が掛かってしまったことを謝らないと……」


 では、須見のシャツの血は。

 まさか……。


「ああ、これ? 気になりますか? 着替える時間がなかったもので、すみません。母を正しく幸せにするために、母の望んでいたことをして来たんです。いや、父の願いでもあったのかな? 母が真実幸せになるために、要らないものを排除してきたんですが……包丁は駄目ですね。手が滑って、なかなか上手くいきませんでした。それで予定より遅くなってしまって……今日、先生がこの家に来るのは少し前からのでいましたけど、まさかこんなに早いとは。先生が来たときには綺麗さっぱり済んでいて、あとは喜んで貰うだけにしようと思っていたんですけどね。参ったな。どうもそこまでいきませんでしたよ」

「視えた? 僕が家に来るのが?」

「ええ、そうです。最近は、離れていてもよくんです。凄いでしょう? こればかりは先生と母に限ったことではあるんですけどね? それほど母と先生は私にとって特別な存在なんです」

「なっ…………特別って」

「そりゃあそうですよ。先生のおかげで、私が選ばれた人間だって分かったんですから。それに、もう先生も分かったと思いますが、方法も見つかったんです。幸せにする方法」

「そんなもの、あるわけ……」

「ありますよ。だから、こうしてここにいるんじゃないですか。母がどうやって正しく幸せになったか聞きたいですか? 私の頭の中に視えた過去の映像で、母が父に言ってたんですよ。『あの人たちさえいなければ』って、父もまた同じことを言ってました。『いっそ死んでくれたら』なんて言ってたのに、間違いが分かっていて何も出来ないまま父は先に亡くなってしまいました。残念ですよ。父が生きているうちに、この方法が分かっていたらと思わなくもありませんがね。悩みになっている問題そのものを消してしまえば、苦しみは無くなる。心は平安を保つことが出来る。苦しみの源である問題への執着心から解放されるんです。ね? 間違えてしまったことの部分を元から排除してきたんです。これで母は幸せになれる。次に先生に喜んで貰えるようにと……」

「いなければ? 死んでくれたら? 須見さん、そんなのは方便に決まってるじゃないか……それに……問題そのものを消せば、悩みも消える? 喜ぶ……?」

「方便……? 願望でしょう? 私の頭の中に視えていることは、どうあってもなんですよ。先生だってご存知のはずだ。それに……どうしてですか? 私は先生の間違いを正すためにこうしてるというのに。先生もこれが正しく幸せになる方法だって、知っている筈ですよね? だって嵐のあの夜、何もかもしまおうとしてたのは先生の方じゃないですか。私は、あのとき先生が出来なかったことを、してあげているんですよ」

「嵐の……夜? 出来なかったこと?」


 須見が笑った。

 喬之介の動悸が激しくなる。

 

「覚えてないんですか? 先生が、やり遂げられなかったことと言ってもいいかもしれませんが……まだ思い出していない? あははは。どうりで……なかなか覗かせて貰えないとは思っていましたけど」


 須見の喬之介に向ける親密そうな笑みが、じわじわと広がってゆくのを前に、身体中の震えを隠すことが出来なくなった。相変わらず耳の奥からは絶え間なく、ごうごうと低い音が聞こえて続けていたことに気づく。いつだって忘れることはならないとそれは、不意に耳奥に触れる海鳴りと同じ。汗が、喬之介の背中をなぞるように滑り落ちる。

 ぎらぎらと目を光らせ、顔半分、鼻から下口の周りが血塗れた須見の顔はまるで、獲物の臓腑を喰いちぎった獣のようだ。

 いや、それどころか――


「怪物……いや、バケモノだ」


 思わず口を突いて出た喬之介の言葉に、須見は心外だとでも言うように、片方の眉を上げて見せた。


「怪物? バケモノ? 何を言っているんですか?」

「……ッ」


 少しずつ身体を寄せて来ていた須見は、息の触れそうなほど近くにいる。

 喬之介は、込み上げる吐き気を堪えながら、自身の手によって放ってしまったバケモノを真っ直ぐに見た。


「……ねえ、先生? 私には、もうんですよ?」


 押さえつけていた記憶の蓋が持ち上がる。

 キンと耳に何かの金属音が、聞こえた気がした。

 聞き覚えのある音。

 あれは、あの音は――

 須見が、低い声で言った。


「早く思い出してくださいよ。バケモノが私だなんて、そんな。先生……バケモノはね? アンタの方なんだって」


 呵呵かかと笑い仰反のけぞる須見の、血に濡れていない白い喉元を見つめる。

 あの嵐の夜の記憶は、喬之介の心の隅に巣食う闇だ。その闇が濃く深く喬之介を内側から飲み込もうとしているのを感じて、眩暈を覚えた。

 









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