最終章

5-1



 仄明るい階段を、ゆっくりと降り、最後の段から足を離した喬之介が目にしたのは、煌々と照らされる室内から漏れる光だった。

 掴みどころのない不安が、喬之介の足元を覚束なくさせる。雨戸に不規則に打ち付ける風雨は波飛沫のようで、荒れ狂う海の上の船の中に、よろめきながら立っているようにも思えた。

 戸の僅かな隙間を高く低く音を立てながら通り抜ける風が、古い家の漏らす吐息と潮の香りに混じって、喬之介の鼻先に薄らと嗅ぎ慣れた匂いを運ぶ。

 ……煙草の匂い。

 懐かしいメンソール煙草の匂いだ。


 久しく訪れていなかった高秋が、遊びに来ているのだろうか?

 こんな嵐の夜に?


 早くから雨戸を閉めてしまった所為で、時間の感覚が分からなくなっていた。

 喬之介が布団に入ったのは『特別なご飯』の食事を済ませ、入浴後、さらには嵐の中での映画館ごっこが終わった後ではあったが、普段より遅いことはない筈だ。どちらかといえば、早かったと思う。何故なら、もう少し起きているつもりでいたところに父親が帰宅したのだから。

 帰ると思わなかった人の姿に驚く喬之介と母親を目にした父親が、帰宅の挨拶をするよりも早く「子供は早く寝ろ」と疲れていることも隠さず不機嫌に言い放ったことから、面倒を避けるために喬之介は自室へ下がり大人しく布団に入ったのである。

 雨戸が風に殴られ、ひときわ大きな音を立てた。海へと誘い唸り叫ぶ姿の見えない怪物は、依然として家の外にいる。

 だが、その音と重なるようにして聞こえたのは、海の怪物ではない別のもののようだった。喬之介の耳に届いた隙間風と紛う細く長い悲鳴も、海鳴りとは違う轟くような咆哮も、目に見えないそれらの正体を確かめようと自室の扉を開ける。

 嵐の音に紛れて聞こえていたのは、家の中で激しく争い床にぶつかり合う音と声、だった。

 行っては、ならない。

 見ては駄目だ。

 だが思えば思うほど、確かめたくなる。

 心臓が、早鐘を打つ。

 階段を降りきった喬之介は、冷んやりとした床を一歩いっぽ踏みしめように歩く。平らである筈の床が、波打つように両足の裏に感じられ、その覚えのある違和感に、こんな時にあって喬之介は、初めて下駄を履いてお祭りに行った夜、家へ帰って脱いだ時の足裏の感覚と同じようだと考えている自分の冷めた一面に、半ば驚いていた。

 あまりに非現実なものを前にすると、おかしなことに、却って冷静な自分が頭の隅の方に存在するのは、これもまた現実逃避というのだろうか、などと考えながら。

 恐怖に怯える喬之介と、それを眺めている冷静な喬之介。まるで二人の喬之介が存在するようだった。

 光に近づくごとに、溺れるように視界が狭まるのは、何故だろう。

 恐怖はやがて冷静な喬之介をも飲み込む。

 薄く開いた扉の先が、見えた。

 その瞬間、雨戸を揺らし打ちつける風雨の音は、喬之介の激しい心臓の音で掻き消されてしまった。

 大きな一拍の後。

 全ての音が、消える。

 見ているのに、はっきりと見えない。

 薄く開いた扉の、先。

 縺れ合うそれを。

 首を絞められている、母親。

 広い背中に力が入り盛り上がる誰かの肩は大きく上下し、止めるため伸ばされた別の誰かの腕の所為で、揺ら揺らと見え隠れする長い髪ばかりが目につく。

 その間から覗く斑らに朱く染まる母親の顔は、驚愕の表情と恍惚を浮かべているように見えて、知らない人のようだった。半開きの口からは、濡れてぬらぬらと覗く舌から滴り落ちる涎が、一条の糸のように長く伸びて落ちている。

 

 目にしているものの意味が分からない喬之介は、吸い寄せられるように扉の向こうへと知らず足を踏み出していた。

 足先が、何かを踏む。

 視線を落とせば、そこには眩しく銀色に光を反射するものがあった。

 見慣れたオイルライター。

 高秋は、落としたことに気づいていないのだろう。

 ポケットの中にないと気づいた途端に、大事にしていたものを失くしてしまったことに慌てて、探し回るに違いない。

 渡してあげなくては。

 喬之介は、久しく見ていない高秋の嬉しそうに喜ぶ顔が、また見たかった。

 身体を屈め拾い上げ、固く握り締める。

 ずしりと重く冷たいライターが、喬之介の掌の熱を少しずつ、奪い取ってゆく。顔を戻したそのときになって、母親の首を絞めているのが誰か分かった。

 同時に、喬之介の目に映るものの意味が。



「お父さん…………!!」

 


 叫んだ、と思った。

 声の限りに叫んだつもりだった。

 両手を胸の前で握りしめ、声にならない声を上げているだけの喬之介の姿に、争う大人たちは誰一人として気づいていない。

 外で荒れ狂う風雨が、外の闇が、漆黒の海が、中へ入れて欲しいというように執拗に繰り返し雨戸叩いている。

 いつの間にか泣き止んでいた小さな妹が、再び泣き出すのが聞こえたのを最後に、再び喬之介の耳から全ての音が消えた。

 音のない世界で、喬之介はひとりだった。

 大人たちは、依然として背を向けたまま。

 高秋が、父親を背後から羽交い締めする。

 縺れ合う三人。

 蹴り飛ばされる高秋。

 振り返る父親の、物凄い形相。

 剥き出しになった歯。

 ギラギラと光る目玉。

 怪物は、外にいるのではなく家の中にいたんだと、喬之介は震えながらも目が離せないでいた。

 父親の足元に動かない母親の姿があった。

 その奇妙に捻くれた格好は、床の上に放り出された操り人形のようだ。

 有り得ない角度に曲がる首。

 虚ろな顔。

 だらしなく開いたままの目や口。

 喬之介を優しく抱きしめてくれた両腕は、身体中をくすぐり笑いを誘う細い指は、糸が切れてしまったみたいだ。


 どうして? なんで?

 それなら、ほら。

 とでもいうように、父親が紐を持つ手を持ち上げたように喬之介には見えた。

 ゆらと揺れる紐。

 そうなんだ。

 切れてしまった糸の代わりに、お父さんが紐を持っているんだね。

 それでお母さんは、また動くんでしょう?


 倒れていた高秋が起き上がると同時に、驚いた顔で喬之介を振り返った。

 どうしてそんなに驚くのだろうと思ったところで、気づく。

 何か激しいものが突如として喬之介の中に湧き上がり、弾けるような笑い声を上げていたのだ。

 大きな笑い声を。

 涙を流し、悲鳴に似た笑い声が自分の口から出ていることは、走り寄って来た高秋に揺さぶられて初めて分かった。

 苦しくて、息ができない。

 ひゅうひゅうと喉の奥が空気を求めて音を立てているのに、笑い声は止まらなかった。

 苦しい。

 苦しくて堪らない。

 崩れ落ち、片膝を突いた喬之介の背を撫でる高秋の手を、邪険に振り払う。

 そのとき父親が、のそりと動くのを目の端で捉えた。

 笑い声は声とは言えぬ引き攣るような音に変わり、呼吸しようと必死に胸を掻きむしる。薄い胸板が上下に動くも、肺は萎んだまま張りついてしまったようだ。

 額に滲む脂汗が落ちて目に入る。

 父親は喬之介をちらりと見ただけで、どこへ行くというのだろう。

 高秋が父親を追ったことで気づいた。



 ……茅花。

 小さな妹。

 

 

 



 

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