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 カウンセリングルームへ移動し、ソファへ腰を落ち着けたあと、未だに姿を見せない茅葺き屋根の家の住人のことを喬之介に尋ねられた須見は、質問に困惑した様子を見せた。


「なぜかと聞かれても、んですよ」

「えっ? 何が?」

「茅葺き屋根の家の中です」

「家の中が見えない? 見えたら、分かるの? どうして?」

「なぜってあの家は、まるで窓らしい窓は全部、閉まっているじゃないですか。入れ物の中が視えなければ、何が入っているのかは分かりません」


 言われて喬之介は、造型物オブジェを思い出しみる。

 須見の言葉を額面どおりに受け取るのであれば、確かに特徴的な大きな茅葺きの屋根のほか、窓や玄関といったものは申し訳程度に作られており、見ようによっては木製の雨戸で閉ざされているようでもあった。

 

「そうなんだ?」

 大きく頷いた須見は、喬之介の顔をじっと見つめてから「閉ざされてしまっていてはのは難しいですから」と言う。


 言外に何かを滲ませたような言い方だと感じるのは、考えすぎだろうかと喬之介が探るように須見の顔を覗き込む。

 黒く汚れた毛穴、無精髭に覆われた須見の顔色は、橙色の混じる照明の下で見ると、乾涸びてしまったオレンジのように、歪み黒ずんで見えた。そのなかにあって、垂れ下がる瞼の中の小さな目だけが、異様に爛々としている。

 短期間で現れた変化は箱庭の中や、須見の外見だけでは無かった。

 これまで須見は座っている時、深く腰を下ろし、ソファに背を預けていても話を始めるとなると身体を起こしていた。ところが、いま目の前にいる須見は、背凭れに寄り掛かった無精な姿のまま、だらりと投げ出された両手は腿の上で萎れた花のように自然に閉じている。伸びた爪の中には、黒い汚れが詰まっているのが見えた。

 当初の緊張した様子も、前回の高揚した様子も見られない。だが、寛いでいるのとも違うのは、右足がせわしなく小刻みに動いていることからも分かる。

 心身共に疲弊しているのが見てとれた。


「最近は、どうですか?」


 足の動きが止まる。

 一拍おいて後、また動き始めた。


「……最近? ですか?」

「そう。体調は、どうかな? やっぱり前ほど頭痛には悩まされていないのかな。それとも他に、気になることとかありますか?」


 質問の意味を考えていると思われる間、須見の足の動きが大きくなり、完全に止まる前、突然ぐるりと喬之介の方へ顔を向けた。光るギョロリとした眼玉、その奇妙な首の動きは、何かに似ている。

 ……昆虫だ。

 喬之介は異様な動きの悍ましさに、思わず目を背けた。

 脳によって制御されるものから見ると奇異としか言いようのない、神経節によって切断されても動く身体。

 トンボやカマキリなどの不完全変態の昆虫が身体を食べられても尚、頭だけが動いている悍ましく奇妙な様を目にした時と同じような気持ちになったのである。

 

「頭痛は、前ほどではありません。それより最近は、色々と調べることに忙しくて」

「色々と? 調べること?」

「視えるものに関する、あれこれですよ」

「例えば、どんな?」


 意図せず喬之介の口から衝いて出た厳しい口調は須見を警戒させたようで、一瞬ではあったが、僅かに目が細められる。

 しまった、と喬之介が思った時には既に遅く、須見は用心を重ねるように


「断片的に視えたものだけでは、不十分なんですよ。視えたものを実際に確かめないと助けようにも助けられませんから」


 とだけ言うとそれ以上は答える気はないのだというように、唇を固く結び顔を背ける。


「視えたものを実際に確かめる? それは前に言ってたみたいなこと?」

「答え合わせ……まあ、そんなようなものですけど、今回は答え合わせというよりをするために、ですかね。先生が私に言ったんじゃないですか。どうすればいいか分かったら、教えてくださいって。だから、何をすれば良いのか視えたものを確かめているところです」


 間違い直し?

 忙しなく動く須見の右足を、喬之介は見るとも無しに見ていた。


「……それにまずは、母を何とかしてあげなくてはと思っていましてね。私の頭の中に視える映像がどれほど特別であるか、私が選ばれた人間であるのかを説明しても分かって貰えなくて……そうは言っても母も、もういい歳ですからね。理解をするのが難しいのかもしれません」


「そう。確か須見さんからお母さんの話は前に一度、聞いたことがあったね。須見さんが子供の頃に、家へ架かってくる電話が誰からか当てて驚かれていた話だった」

「ええ、そうでしたね」

「須見さんから見て、お母さんとはどんな人なのかな」

「どんな? それは性格的に、といったことですか? それとも」

「何でも構いませんよ。前みたいに須見さんが子供のころのエピソードでも」


 暫く何かを考えている様子の須見だったが、喬之介がふと足元を見るとその右足は止まり、もう動いてはいない。

 やがて両手が伸ばされ膝の上に置かれたことで、ソファから須見の背中が離れた。


「ええと、なんだろう。母は忙しい人でした。もちろん母ひとり子ひとり、といった理由もあるんでしょうけど、母の性分なんだと思います。家にじっとしていることが少なかった。仕事や交友関係で、外を飛び回るようにしていました」

「その間、須見さんは?」

「子供ですから母と一緒にいたいのは当たり前なんですけど……私は母と違って、上手く人と関係を結ぶのが苦手で……未だにその傾向はあるんですがね。幼い頃の私は、母に連れ回されるのが苦で仕方なかった……母は良かれと思ってしていたのか、自分の都合で私を付き合わせていたのかは、分かりません。母の付き合う人たちは、私には合わない人ばかりで……そのうち、ひとりで留守番をするようになりました。父がいたら違ったんだろうかと思うこともありましたが、まあ、いないものを考えてもしょうがないですからね」


「お父さんが欲しいと思ったりした?」


「いいえ。家に来る男たちは、どれも嫌な奴ばかりで、父親になるなんて言われなくて良かったと今も思っていますよ。母は私には黙っていましたが、家に連れて来る男は、どうしたって友達なんかじゃないと幼くとも分かっていました。大抵は母よりも若い男でしたが、目の前の二人のやり取りを見ていれば、いくら子供だって分かります。それに、私に対する彼らは下手に媚びるか、嫌がらせをするかのどっちかしかなかった。中には懐かない私が悪いと、真っ正直に言う男もいましたし、それでも有り難いことに肉体的な虐待はありませんでした」

「では、須見さんが先ほど言ったお父さんとは……」

「会わせて貰ったことのない生物学上の父、ですよ」

「確か、顔も知らないんだよね?」

「…………ええ、そうです」


 不自然な間に気づいた喬之介が、物言いたげにじっと顔を見れば、決まりの悪そうに見返す須見の目とぶつかった。


「直接見たことはありません。今になって母を通して過去の父がことはありますけど」

「そう、どうだった?」

「母が……若い男とばかり付き合っていた理由が分かりました」

「それは、須見さんのお父さんを忘れられないから?」

「逆ですよ。いや、逆とは言えませんね。父は、母より十歳ほど歳上で妻子がいるんです。母は見せつけるために若い男と付き合ってたんでしょう。とはいえ母が私を産んだのは、過去を視た限り、父へというより父の妻子への当て付けに過ぎなかったんじゃないかと思っています。なぜって、そんなこと分かりきってますよね? まあそれでも、自分の子供ですからね。母が私を愛していることには違いないんでしょうけれど、いらない子供だったこともまた、確かでしょうね。かと言って一度として誰とも婚姻関係を結ばなかったのは、私の存在が邪魔をしていた、というよりも父のせいだと思っています」


「なるほど」


「なぜなら母は、父しか見えていないんです。それに父は決して母を手離すことはありませんでした。母もまた同じです。若い恋人が出来ても結局は父を選ぶ。それに自分の子供だからと言っても私のことなんて、少しも見てやしません。母の目が映しているのは、どうやっても父と似ている私であって、一度として私自身じゃなかった。今だって、私の向こうの父を見ているんです」


 自殺したところで悲しむ人なんていないと言っていた須見を、思い出す。

 喬之介の前で身を乗り出し話す須見は、母親を語りながらも満たされない愛情を求めて、訴え、どうにかして認めてもらいたいと、足掻く子供だった。

 

「お父さんは亡くなってるんだね?」

「ええ……そう言えば……その頃から頭痛が酷くなったような気がします」


 深層意識を介して受け取った母の感情。絶対的存在の欠如が齎した絶望感が、須見の心理的な葛藤の引き鉄となったのだろう。

 

 これまで喬之介は、箱庭を通し、須見と共に何かを感じ、そこにある何かを読み取ることで少しずつ相互関係を深めて来たと考えていた。

 箱庭の中には、多くの心的内容が集約的に表現されている。人の心の内部の色々な要素が、ひとつの作品の中にあるのだ。

 須見の場合に於いても、森の中から出て来た狼が、心の影の部分であるのか、外界と融合するための恐怖を打ち消す強い自身を表しているのか、あるいはまた別のものか様々な見方があり断定的に『〇〇である』と言い切れない。

 配置された人形も、また同じだ。

 手拭いを被り、子守人形から背を向けた母親の人形が、そのまま母親を表していると考えても良いかどうかも分からない。年寄りの男性と女性の人形、スーツを着た男性の人形についてもそうだ。その三体の中で祖父母の姿をして、いかにも祖父母然としている人形が、父親らしき人形と一緒にいるのならば、もしかしたらそれは、想像の祖父母ではなく実際の須見の父親とその妻子を表している可能性もある。

 

 箱庭の中の心象風景は、心の内部の可能性の表現である。即ち、いくつかに変形し得る可能性を持って生じたものなのだ。

 須見自身だとした子守人形も、背中に背負っているものが単純に赤児ではないとするなら、それは希望なのか絶望なのか、責任なのか別の何なのかを知るためにクライエントの心の動きに従い、より深い部分へと手を伸ばしていかなくてはならない。


「母が幸せになれなかった理由はどこにあるのか、この頃よく考えているんです。私が存在しなければ、幸せになれたなんてのも違うでしょう」


「須見さんのお母さんは、まだ何かに苦しんでいると思うのはどうして?」


「それは、私の頭の中に流れ込んでくる映像からですよ」


「方法を、まだ探している?」


「……そうです。もっと視えてこないと望む幸せが分かりませんから。正しい答えを導き出す前に、どこに間違いがあるのか気づくのが大事なんです。そうでしょう? 勉強の時の問題を解くのと同じですよ。間違いを知り、それを正すことで初めて理解したことになるんです…………そうか……ああ、なんだ。どうしてそんな簡単なことに気づかなかったんだろう。どうすべきかんだ。いや、気づいていて目を逸らしているのかも」


 唐突に何かを思いついたのだろう須見が、後半は誰に向かって話すのでなく、それまでとは違う様子で独りごちるのを見て、喬之介は憂いを感じずにはいられなかった。


「間違いが分かる……間違いを正す……私にしか視えない、私にしか出来ない。私にだけ出来る……ようやくこれで」


 そうこうするうちに、熱に浮かされたような様子でソファから立ち上がった須見を喬之介は、驚きと共に見上げた。

「ちょっと待って。間違い? 間違いとは、それは一体誰がどうやって決めるの?」

 須見が満面の笑みを浮かべ、喬之介を見下ろす。

「先生だって、分かっているはずでしょう? その人本人ですよ。私が視ているもの、その人が私に視せてくれてるものの中に、幸せを阻害する間違いがあるんです。私には、はっきりと視えているのに本人は知っていて、それに気づかないようにしている。だからこそ、にしか出来ないことをするんです。そうすれば私がどれほど特別な存在であるのか皆が気づきますよね? 母にだって分かって貰えます。望む望まないに関わらず、おそらく私が生まれて来た理由も、ここにあるんです」


 何かを言うにも、何と声を掛けるべきく分からなかった。歩き出した須見を引き止めようとするにも、面談の時間は疾うに過ぎている。これ以上は須見を無理に引き留めてはおけなかった。

 急ぎ椅子から腰を上げ、喬之介は扉の前まで須見を見送りながら、それでもひと言、何か言葉を掛けるべきだと考え言葉を探し、迷い、見つからないことに焦燥感を募らせていた。

 カウンセリングルームの扉が外へ向かって開かれる。須見の片方の足の爪先が、部屋の外へ向かう。

 早く何か言わなくてはと焦り、視線を落とした喬之介の目が、須見の足元の泥跳ねの他に、靴の踵に別の何かの付着物を捉えた。


「……ねえ、先生?」


 須見の呼び掛けに喬之介は、はっと顔を上げた。部屋を出てゆくところで振り返った須見と目が合う。

 弛んだ皮膚、その瞼を切り裂いた中にある、澱んだ水溜りに浮かぶ眼球がどろり、と喬之介に向けて動かされる。


「本当は茅葺き屋根の家には誰がいるのかなんて先生は、もうとっくにご存知なんじゃないですか?」


 喬之介の目の前で、大きな音を立てて扉が閉まった――。

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