4-3




 

 須見との箱庭療法も四回目となった。


 この日も顔を合わせるなり須見は、自ら箱庭を製作したいと喬之介に申し出ると、了承を取り付けるや否や喬之介に案内されるよりも早く、先立って既によく知る作業部屋へ向かって歩き出したのである。

 須見の背後うしろに喬之介が続く。

 遅れて来たことに、焦っているようにも見える。

 今回はいつもと違い、珍しく面談の予約時間に三十分も遅刻し来院した須見に、どことなく薄汚れた印象を受けるのは、無精髭が生えている所為ばかりでないようだ。

 先週の綺麗に散髪され、身形を整える余裕さえあった須見から今の姿は程遠かった。

 何げなく服装に目を向けた。大した変化は見られないが、着ているものに皺が目立つ。足元を見れば靴の側面が汚れ、走ったのだろうか黒いスラックスの裾からふくらはぎには乾いた泥跳ねが薄茶色に、点々と付着しているのが見えた。

 ……泥跳ね?

 ここ二、三日のあいだは愚図ついた空模様であったものの、雨らしい雨は降っていない。ふくらはぎに泥跳ねを作るほど地面が泥濘んでいたのは、かなり前のことだ。

 そう思ってよく見れば、ストライプ柄のシャツは先週と同じものではないだろうか? 


 喬之介が記憶を手繰り寄せている間も、須見は箱庭の中の砂、右斜め上から左側隅に向かって蛇行する小川を掘っていた。

 執拗に繰り返すと思われたその作業を、この日、易々と終わりにした須見は、造型物の詰まった棚の前に移動する。

 ちらと喬之介が箱庭を覗き込むと、砂の上に小川らしい窪みはあるものの、箱の底の水色は見えていなかった。


 箱庭が変化を見せる。

 これまでのきたりだった田舎の原風景は、姿を消した。


 季節は分からない。

 前回の製作で、雪であるとされた敷き詰められていた一面の白い真綿は取り除かれたがしかし、茅葺き屋根の上には変わらず真綿が置かれたままであった。

 さらにその屋根の上に、前回、朱い祠の前に置かれていた灰色の狼の造型物が乗せられている。

 また、田んぼの中には、いくつもの魚の造型物が無造作に置かれた。その魚が散らばる田んぼに、年寄りの男性と女性の人形、スーツを着た男性の人形を配置する。

 そして朱い祠のあった場所には、今や目玉のない達磨が置いてあった。

 小川に水はなく橋は横倒しにされ、川の流れの中に、赤と黄色のツバメのマッチ箱が絵を上にしてある。

 最初から位置が変わらず、たいした動きもないのは、子守をしている人形と手縫いを被ってしゃがみ込む人形だけとなった。


「出来ました」


 箱庭を覗き込んでいた喬之介は、声のした方へ顔を上げた。扉の前で様子を見ていた筈が、気づけば須見の肩に触れるほど近くに立っていたことに動揺する。

 目の下の弛み、まばらに生えた無精髭と小さな滲みが浮かぶ須見の血色の悪い頬、それよりも気になるのは、近寄るとぐっと鼻に感じる皮脂とその奥のえた臭いだった。脂でベタつく髪の根元には、古くなった頭皮が剥がれた白いフケが、ちらほら見える。

 不快に思っていることが顔に出ないよう、ごく自然な調子を努めながら、喬之介は須見から少し距離を取った。


「……それでは、見ていきましょう」


 言いながら喬之介は、どこから尋ねるべきか考えあぐねていた。

「そう……まずは、祠。ここには以前、祠があったね? そこに達磨を置いたのは、どうして?」

「それは、どんな願いも叶う祠だと思っていたら、実は達磨だったんです」

「この達磨には意味があるのかな?」

「意味? 意味なんてものは無いです。強いて言えば、朱いから? 朱いから間違えてしまったんです。よく見たら祠じゃなくて達磨だったってことですよ」

「朱い造型物オブジェは、他にもあったと思うけど、どうだろう?」

「……そうですね。どうしてかな。理由は分かりませんけど、達磨を見たときにこれだと思って、置いてみたらしっくり来たんです。やっぱり祠じゃなかったんだと思いました」


 置かれている目のない達磨が、じっと喬之介のことを見上げているように感じ、振り切るように視線を別のところへ移動させる。


「田んぼの魚は?」

「あるとき空から降って来たんです」

「では、この人たちは?」

「最初は驚いて、今は泥の中にいるこの魚が食べられるかどうか話しているところです」

「泥の中? 水はない?」

「そうですよ。田植えはまだ先ですからね」


 次に窪みがあるだけで、箱の底が見えない小川を喬之介は指先で示す。


「小川に、これは水が……」

「干上がってしまったんです。橋も必要なくなってしまいました。歩いて渡れます」

「マッチ箱は? これが橋ではないの?」

「橋じゃないです。ツバメが川の上を飛んでるところにしました。見た途端この絵が気になって、どうしても使いたかったんです」


 喬之介は思案に暮れていた。

 未知の領域、隠された深層を示す右上の森の手前に置かれていた神聖な祠が、達磨に変わったことは、何を表しているのだろう。

 突然、現れた魚。

 水のない、小川。

 その川の上を飛ぶ、ツバメ

 不穏な様相を示す箱庭の中に、縁起物とされる達磨や燕が二つ同時に現れたことに喬之介は興味を惹かれた。良い意味に捉えるべきか、しかしそれぞれに隠語があり、そのことを知るや知らずや須見が無意識に選んだにせよ、色々な解釈をすることが出来る。

 さらには茅葺き屋根の上の狼と、そこにだけ残された雪。

 狼は、家の中に入ろうとしているのだろうか? 何故、雪が?

 渾然とした世界を見れば、須見の中で何かが起こりつつあるのは確かだった。小川によって分断されていたものが統合されようとしているのは明らかである。

 前回の面接で須見が語った、頭の中に映像が入って来るのを受け入れたことの変化が影響しているものと考えられた。 


 狼の造型物を指差すと、須見を見る。

「この屋根の上にだけ、まだ雪が残っているね? それに狼がいる。この家に入ろうとしているのかな?」

「さあ……どうでしょう? 多分狼は村に獲物を探しに来て、屋根の上にいるんですよ」

「隠れるのをやめたの?」

 喬之介は、怪訝そうな声を出してしまう。感情を露わにした喬之介を、珍しいと感じたのか、須見は愉快そうに笑った。


「変ですか? でも……そうですよね。丸見えだ。もう隠れる必要がないのかもしれません。それか腹が減っているのに、屋根の上にいるのは、探しものは高い所の方が良く見えるからだと思います」

 須見は喬之介に笑顔を向けた。 

 向けられた笑顔の空々しさから喬之介は、目を逸らしながら、

「この茅葺き屋根の家には、誰か居るんじゃなかったのかな? 狼が屋根の上にいることに気づいてないの? それとも、やっぱり誰もいないのかな?」

 再び茅葺き屋根の家を指差した。

「いますよ。そうか……」

  須見は満足そうに肯き、続けて言った。

「機会を狙っているんです」

「茅葺き屋根の家の人が、外に出るのを待ってるの?」

 眉を顰める喬之介の問いに須見は、何を言っているのだと驚きを隠さずに答えた。

「狼は、お腹が空いていますからね」

「では、狼はこの家の人を食べる機会を狙っているということ?」

「この家の中の何かですよ。人とは限りません。でも……次に食べられてしまうのは、この村の中の誰かでしょうね? 茅葺き屋根の家の人は姿を見せてないんですから。やっぱり、食べるなら外に出ている人の方が食べやすいですし」

「食べられるとしたら、それは誰かというのは分からない?」

「それはそうです。母親かもしれないし、父親かもしれない。あるいは子供かもしれない。誰でも可能性はありますからね」

 そこで一旦、須見は口を閉じると喬之介の顔をじっと覗き込む。

 須見の血走った目は、喬之介の顔を見ている訳ではなく、あの時のように直接、頭の中を覗き込んでいるようだった。

 喬之介の方へ向けられた須見の顔に穿つ黯い二つの小さな穴が、見ている間にも、ずすずすと大きくなってゆく。

 思わず後退りしそうになり、抗おうと両脚に力を入れた。だが、地面に着いている筈の両足の裏には何の感触もなく、宙に浮いているような、穴に落ちてしまいそうな奇妙な感覚に囚われ、堪えきれずに顔を背けた。

 顔を向けた先に茅葺き屋根の上の狼が再び目に入り、取り繕うようにして須見に質問を投げかける。


「狼が屋根の上にいるのを、誰か気づいていたりするんだろうか?」

「さあ……子守人形は気づいているかもしれません。母親の人形も」

「だとするなら、田んぼにいる他の人形たちは?」

「それはないですよ。人形は、それぞれ夢中なことがありますからね。今はほら、田んぼに現れた魚に夢中です」

「屋根の雪が溶けないのは、どうして?」

 須見は当たり前のことを何故聞くのだろう、という顔で言った。

「狼の寝床ですよ」


 これまで須見の箱庭は右上から左下を流れる川によって世界が二つに分割されていた。

 上部は『意識』を示す領域であり、下部は『無意識』を示す。家や田んぼ、人形たちは上部に固まり、下部の無意識領域には殆ど何も置かれていない。辛うじて左側隅に茅葺き屋根の家があるだけだ。

 また、右側を外界、左側を内界とする見方が一般的なのだが、須見の場合、左右の反転が見られた。

 そうして見ると右側の世界、そこはおそらく須見の隠された内界であろう鬱蒼とした鎮守の森と朱い祠があるばかりで、他に大したものは置かれていない。須見が心を開いていない点が反映されているようだった。

 そして当初、右側と左側を隔てる小川には橋も架かっておらず、分割の程度が強く見られていたが、二回目で橋が出現したことによって内界と外界とを繋ぐ、いわゆる統合へ向けて動き出したのではないだろうかと喬之介は考えていた。

 さらにここに来て須見の箱庭の様相は大きな変化を見せる。

 森から出てきた、狼。

 その狼が、右側から左側、祠の前から茅葺き屋根の上に移動した。内界から外界へ向けての動きを見せたということはつまり、外の世界と交わろうとする未来への動きである。

 となれば狼は『誰か』ではなく須見自身の深層心理の中に隠されていた意識だと考えるのが自然ではないだろうか。

 同時に小川が干上がり、必要としなくなった橋が横倒しにされたのは、隠れていた狼が姿を現したことで、内界と外界を統合するに至ったということなのだろうか。

 祠に変わり達磨と燕が現れたのもまた、何かの意味があると考えられた。

 

 それにしても……と、喬之介は茅葺き屋根の家を見る。

 未だに誰が住んでいるのか分からないとする家には何を隠しているというのか。


「……須見さん、茅葺き屋根に住む人はどうして姿を現さないのかな?」



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