枕辺に白狐

土御門 響

瑠璃の光

 私は幼少のみぎりから身体が大層弱かった。

 武家の子として生まれたというのに、刀も碌に握れぬ体たらく。

 といっても、家督は年の離れた兄が継ぐことになっていた。

 私は侍として生きることが出来ぬ代わりに、兄の片腕として助言役を務めていた。


「若様」


 侍女が食事を持ってきたらしい。成人男性の一食分にしては少なめの膳と薬師が毎食服用するように言っている薬の数々。

 それらを部屋の定位置に置くと、侍女は静かに一礼して去って行った。

 私は読みかけの書簡を文机に置き、一先ず食事を始めた。


「……」


 匙と椀が触れ合う音だけが室内に響く。しかし、障子の向こうは蝉の鳴き声で賑やかであった。

 ふと、気が向いて。私は障子を開けた。

 快晴の空から強い日差しが降り注いでいる。外の熱気が室内に侵入してきたが、多少は気にしないことにする。身体を労わるには空気の入れ替えが大切だと、以前主治医も言っていた。


「……そういえば」


 食事を再開した時、不意に子供の頃を思い出した。


「あの子狐は大きくなったのだろうか」


 ***


 ひと昔、時を遡る。

 その年は、いつにも増して暑い夏で、見事に幼い私は身体を壊した。

 床に臥せって、毎日暑さと熱に魘される日々。修行の合間に、兄は口にしやすい水菓子や街で流行りの玩具を持ってきて、遊ぶことすら儘ならない私を慰めてくれたが、私は子供ながら兄の足を引っ張っている自覚があったので、無邪気な笑顔を作って礼を言いながらも、心の中では本当に申し訳なく思っていた。


 そんな日々の中でも、夜だけは癒しの時だった。

 熱気が多少弱まる時刻に、私はこの身が許す限り起き上がって、書物を読んでいた。月明りだけで文字が追えるくらい、月が輝いている晩は特に好きだった。

 私は昔から読書が好きだった。武術で兄を支えられぬのならば、せめて知識で兄を支えていきたいと思っていたのだ。


「……ん?」


 目を落としていた書物に影が差し、私が顔を上げる。


 きゅん。


 視線を滑らせると、肩の上に小さな狐が乗っていた。何故か、重みは全く感じられない。


「な、なんだ?」


 驚いて障子から床まで退くと、子狐は畳の上に、ひらりと着地した。


 きゅん。


「……随分と白い狐だ」


 純白の毛皮の狐だった。瞳は強い輝きを孕んだ瑠璃色で、私を見つめていた。


 きゅん。


 狐は鳴くと、私の枕辺に寄って来た。


「く、来るな!」


 そう言うも、無理に追い払うのは何だか可哀想に思えた。手に乗ってしまいそうな大きさの狐は、私の動揺を気にしていないのか平然と枕の傍で丸くなった。眠ってしまったらしい。


「……なんなんだ」


 その日から、毎晩その狐が現れた。

 話しかけても鳴くだけ。しかし、何か悪戯をするという訳でもない。

 だから、気付いたころには頭や肩、膝の上に狐を乗せて書物を読むようになっていた。


「お前、親はいないのか? 夜にいなくなっていては、心配しないか?」


 きゅん、きゅん。


「親はいないのか」


 きゅん。


「お前、ただの狐じゃないだろう。妖の類だな」


 きゅん。


「……弱ってる私を食らいに来たのか」


 きゅん。


「なら、早く食ってしまえよ。私が死んでも、さして周りは困らない」


 きゅん、きゅん。


「食わないのか」


 きゅん。


「なんでだ」


 きゅん。


「私に情が湧いたのか? お人好しな狐だな」


 この会話が成立しているのかもわからない。

 けれど、病弱なせいで友も作ったことがなく、この子狐が私にとって人生初の友と言えた。

 くだらない戯れだが、私は読書をしながら狐との会話擬きを楽しむようになっていた。無数の虫の声を耳にしながら、傍らには狐がいる。

 だが、そんな日々は唐突に終わった。

 夏の終わり、子狐はぱったり姿を見せなくなり、それきりになったのだ。


 ***


 食事を終えると、私は急に眩暈に襲われた。頭が割れるように痛み、苦痛のあまり床に倒れ込んで唸っていると、膳を下げに来た侍女が泡を食って主治医を手配しに行った。


「……ぁ」


 何者かの視線を感じて障子に目をやると、九本の尾のような影が見えた。

 すると、障子が音もなく開き、浅葱色の浴衣を纏った女が現れた。足元まで伸びる白い髪に、強い光を湛えた瑠璃の瞳。腰の辺りからは、九つの純白の尾が伸びている。

 私は直感した。この女は、あの時の子狐であると。


「約束を、果たしに参った」

「やく、そく……?」

「十年前の約定。私は嘘はつかぬ」


 そう言うと、苦痛に苛まれる私の上に女が覆い被さった。


 ***


「子供、其方は良い気を持っているな」


「暫し、私にその気を分けよ。病人であるというのに、何故か其方の霊気は心地良い。安心せよ、殺しはせぬ」


「そう怯えるな。取って食いはせぬ」


「親など、とうに死んだ」


「其方、このままでは十年もせずに逝くぞ。良いのか?」


「私を拒まず、傍に置いている。いつか、礼をせねばな」


「そうだ。お前が若くして死するとき、一度だけ救うというのはどうだ?」


「対価としては上等であろう。あと、私が気に入っているのであれば、嫁にもすればよい」


「私はこのなりだが、とうに年頃だ。人の理に紛れて生きる狐は多い。何より、私は力が強いとはいえ、人と妖狐の混血。人として嫁に行くこともできる。お前の霊気のおかげで、この狐の力を封じることも容易かろう」


「では、お前を死期から救う時、私を娶るがよい。少々驚くかもしれんが、安心せよ。きっと、私を見たら全てを悟る」


 ***


 鈴虫やこおろぎの鳴き声のする晩。先程までは燃え上がっていた熱は、まだ気怠く身体の奥に燻っている。

 私は腕の中にある嫋やかな肢体を緩く引き寄せた。


「……子供の頃のあれは会話になっていなかったのだな」

「そうだ。今思えば面白いものよ」


 私を救った狐は人の女となり、今では床を共にしている。本当に、人生とは何が起こるかわからない。

 女の少し乱れた髪を梳いてやると、女は苦笑して瞼を閉じた。


「其方の兄君は、柔軟な思考の持ち主よの」


 発作で倒れた弟の身を案じて部屋にすっ飛んできた兄は、突如現れた不審な女を追い払うのではなく、彼女の話に耳を傾け、弟の命の恩人であることを知ると、何でも望みを叶えるとまで言ってのけた。

 そして、彼女が妖狐の血を引いていると知った上で、兄は私達の婚姻を認めてくれた。

 今は一族が保有している小さな屋敷に移り、二人で暮らしている。仕事は以前と変わらず、兄上の側近だ。女を娶ってから不思議と私の体調は改善し、毎日徒歩で本邸に通う程の体力が付いた。


「何より、私を何とも思っておらんかった其方が本当にこの身を娶るとは」

「……あの子狐とは、また会いたいと思っていた」


 確かに、再会した当初は彼女に対して色恋の情は持ち合わせていなかった。

 だが、あの子狐の瞳は、子供の頃からずっと忘れられなかったのだ。また見えることが出来たというのに、手放すのは惜しいと思ってしまった。

 娶るのは時期尚早だったかと私も思ったが、狐の魔性であろうか。気づけば、夢中になっている自分がいた。


「……独りの頃に戻りたいか?」


 今では妖の血を完全に封印して人となった女は、当時の自身の思考が妖のそれで、酷い無理を言ってしまったと時折悔いる様を見せる。

 私は、女の髪に顔を埋めながら首を振った。妖狐の証である白い髪も美しかったが、今ではもう人間の姿である黒髪が当たり前に感じる。


「頼むから、また急に居なくなってくれるなよ」


 私の返答に、女は私の腕の中で微笑んだ。

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