9. 例の、『怪現象』だよな?


 例のボブカット女子が再三振り上げた右手から、一筋の刃が放たれる。だだっ広い美術室の天井付近、すっぽ抜けた彫刻刀が綺麗な孤を描いていた。誰かが「あっ!」と大きな声をあげていた気がするが、その時の私の五感は、視覚以外がまともに働いちゃいなかった。スローモーション映像のように宙を舞う彫刻刀が、上昇し、水平飛行し、下降し――

 まっすぐと、『私たち』目掛けて飛んでくる。


 遠く彼方で打ち上げられた小型のナイフロケットは、気づけばグングンとその全身を膨張させていた。……違うか、大きくなってるんじゃない、近づいているから、大きく見えるんだ。――誰もが知っている物理法則すら、把握するのが後手に回って、ハッ――、とようやく自我を取り戻した私は、とある事実を知って背中がゾッとする。

 彫刻刀は、『私たち』に向かって、まっすぐ飛んでいる。

 ……もっと正確に言うと、私の隣に座る、一人の小柄な少女に向かって。


 このままだと、彫刻刀の刃先が、『ヤエの顔面』に突き刺さる。

 誰かが「きゃーっ!」と悲鳴をあげている気がするが、私はそれが、現実で鳴っている音なのかどうかの判断がつかない。それくらい、すべてはあっという間だったんだ。

 隣のヤエは動く気配を見せない。……たぶん、その『危難』が『一瞬』すぎて、自分の身にこれから何が起ころうとしているのか把握できていないんだと思う。隣に目を向ける余地すら与えられない私は、彼女が今どんな顔をしているのかもわからない。


 ――ちなみに私は、女の子の肌が傷つけられて快感を覚えるような変態性は持ち合わせていない。ましてや、親友に迫った危機を黙ってみているほど薄情でもない。

 ただ残念ながら、私は常人かけ離れた反射神経の持ち主ではないし、飛んでいる虫をはしで挟む芸当も披露できない。……ではどうするのか?


 答えは簡単。役に立たない『五感』を捨てさり、彼女の無事をただ、念じるのだ。


 小型のナイフロケットが打ち上げられて、十秒ほど経っただろうか。ざわざわと、喧騒が私の耳に流れて――、私は、私の意識がリアルに還ってきたのだと知る。

 私は隣に座る親友にようやく目を向けることができた。いつもの小生意気なジト目はどこへやら、猫のような瞳を限界まで丸めた彼女の顔は、恐怖と驚愕が貼り付けられたまま硬直していた。和人形のように白い肌は、一切傷つくことなく。

 ボブカット女子の投げ放った彫刻刀は、ヤエの鼻先数センチメートルの位置で、しばらくの間、『空中でピタリと停止していた』。


 やがてカランッ――、と、固い音が衝突する音が響いて、さきほどまで空中遊泳を勤しんでいた小型のナイフロケットが、机の上に力なく不時着する。


「――し、柴崎さんっ! ゴメン! ホントゴメン! だ、大丈夫!?」


 かしましく慌てた声が、私の耳に無節操にぶち込まれた。涙目になりながら私たちに近づいてきたボブカット女子の表情は、ヤエ以上に青ざめている。声をかけられたヤエはというと蚊の鳴くような声で、「ええ、まぁ、無事、ですけど、えっ?」と、彼女は未だに自分の状況が理解できていないようだ。がやがやと、興奮に塗れた喧騒が私たちの周囲に広がる。ヤエの元に集まってきたクラスメート達が矢継ぎ早に口を開き、テキストの濁流が空間を支配した。


 「柴崎、大丈夫か!」「ったく、アンタ、何やってんのよ! ドジもいい加減にしなさいよっ!」「う、うえ~ん、ホント~に、ごめんなさい……」「でも、無事でよかったな~」「……いや、っていうかさ。彫刻刀、しばらく空中に浮いてなかったか?」「――俺も見た! 柴崎の顔に当たる直前で、止まったんだよ!」「……だよな、これって――」


 誰が言ったか知らないが、誰かが言ったその台詞。

 有象無象の喧騒のさ中、その『言葉』だけがくっきりと、妙にハッキリと、物体としての輪郭が形どられたように、響く。


「――例の、『怪現象』だよな? ……このクラスになってから、コレで三回目……」


 誰が言ったか知らないが、その誰かに向かって誰かが軽口を返す。「うわ~、うちのクラス、いよいよ何かに憑りつかれてるんじゃねーの。幽霊とか、そういうの――」

 彼らの乾いた声が、私の右耳に入って、そのまま左耳に抜けて。



 私には一つ、確かめたいコトがあった。

 ひっそりと席から立ち上がった私は、興奮に塗れた騒ぎの間を抜けるように、美術室の隅に目を向ける。ほとんどの生徒たちがヤエの周囲に集まっている中、やはり彼だけは、その場から一歩も動いていなかった。席を立とうともしていなかった。ただし――


 彼は……、月代くんは、顔だけをこちらに向けていた、以前『怪現象』が起こった時と、同じように。


 私と彼の視線が交差する。

 ……私が彼を見たから、目が合ったんじゃない、

 私が目を向ける前から、月代くんは私を見ていたんだ。


 事件の被害者であるヤエではなく、彼女の隣に座る、私を。

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