0x02 「桜桃の道」と「狼の谷」

 永遠にも感じたロングホームルームの時間を終え、問題の放課後。

 僕と砂橋さんはオリエンテーションが終わるのを体育館の近くで待ち構えていた。今頃、中では蒼が頑張って話していることだろう。

「鷲流くん」

「ん、どうしたの砂橋さん」

 なんだか神妙な顔をして、僕が持つチラシの上に自分の分を乗せる砂橋さん。

 何だろう、と思いながら言葉の続きを待っていると、一目散に駆けだした。

「キミにこれは託した、じゃっ!」

「あっこら、おいっ!」

 ぽてぽて、という感じで走っていく砂橋さん。多分追いかければ一瞬で捕まえられるような気はするけど、チラシを配らないといけないから追いかけることも出来ず。

 何より……駆けだす直前に見えたその目は、昨日も部室で見たように伏せられていた。

「……ったく」

 追いかけるのを諦めてため息をついた瞬間、体育館のドアが重たそうな音を立てて開く。

 たとえ追いかけたとしても、すぐに新入生が出てくるから追跡を切り上げざるを得ない。最高のタイミングで脱走したようだ。

「はあ、やるしかないか」

 こうなってしまったら諦めも肝心だ。大きな声を出しながら、勧誘を始めることにした。

「こんにちはー、電子計算機技術部でーす! 一緒にコンピュータを作りませんかー!」

 チラシを貰ってくれても、足を止めてくれる人はほぼいない。

 でも、ここで諦めたら本当に部活が無くなってしまう。入部後すぐに部活が消えてしまうのはさすがに申し訳ない。

 必死に声を出し続けて、チラシが半分くらい捌けたころ。

「あれ? もしかしてお兄……弘治、先輩、ですか?」

「ん?」

 ふと、声を掛けられた。

 聞きなじみがある、でも久しぶりに聞くようなその声。

 振り向くと、びっくりしたような、それでいてどこか安心したような表情をした女の子の姿が目に入った。

「お久しぶりです、弘治お……センパイっ」

「……道香、ちゃん?」

「はいっ!」

「おおおおっ、久しぶり! 帰ってきてたんだ」

「はいっ、ようやく帰ってこれました」

 笑顔でこちらにやってきたこの子は桜桃道香おうとう みちか。親父の友人の娘さんで、小学校の時にしょっちゅう遊んでいた仲だ。昔はお兄ちゃんお兄ちゃんと呼んでくれて、僕も妹のように可愛がっていた。

 だが、道香ちゃんのお父さんの転勤に付いていく形でアメリカに留学に行っていた。だから、こうやって会うのは五年半以上ぶりになるだろうか?

 小学校から高校への五年半はとても大きかったようで、面影が残っていたから判ったものの顔も体も見違えるほど成長を遂げていた。判った自分を褒めたいくらいだ。

 さすがに昔のようにお兄ちゃんと呼ぶのは恥ずかしいんだろう、僕のことは先輩呼びだし、僕もとっさにちゃん付けになってしまった。

「いや、やっぱ大きくなったな」

「センパイも、背が伸びましたね」

「お互い成長期だしね。背が伸びててかわいくなって、一瞬誰だかわかんなかったよ」

「かわいい、なんてそんな……」

恥ずかしそうに目をそらす道香。でも、その目はすぐにどんよりと澱む。

「カロリー爆弾と戦いの日々でしたから……うう、極彩色のお菓子の幻覚が……」

「それで太らないのがさすが道香ちゃんだな。留学はどうだった?」

「はいっ、とっても勉強になりました!」

 話が変わると、花が咲いたような笑顔に戻る。表情がコロコロ変わる子じゃなかったんだけどな、アメリカで進化を遂げたんだろうか。

 とはいえ、その笑顔は何だか変わらない。そんな道香ちゃんに癒されていたのだけれど。

「その、センパイは……わたしが居ない間、どう、でしたか?」

 この質問を投げてきたときだけは、少しだけ寂しそうな、そして辛そうな、でも、切実な……そんないろんな感情が入り混じった表情をしていて。

「んー、まあ色々あったけど、元気にやってたよ」

 どこまでのことを話すか迷った結果、嘘でこそないけど、どこまでも曖昧な返事を返した。

「そう、ですか……。でも、また一緒に学校に行けるんですねっ」

 その返事に満足してくれたのかは判らない。でも、結果として道香ちゃんは再び笑顔の花を咲かせてくれた。

「ああ、そうだな。またよろしくね、道香ちゃん」

「こちらこそ、よろしくお願いしますっ。ところでセンパイは何してたんですか?」

「ああ、新入生へのビラ配りをな」

「へー、なんの部活なんですか?」

「ん、まあこれなんだけどな」

 昨年から日付しか変わっていないというチラシを渡す。そのチラシを見た道香ちゃんは、驚いたような表情を浮かべた。

 次の瞬間、全身にぶつかったような衝撃。それと、柔らかい感覚。

「道香、ちゃん……?」

 道香ちゃんが抱き着いてきた、という事実を認識するまでに、数瞬を要した。

 そのまま脳がフリーズを続けていると、道香ちゃんは笑顔を向けてくる。それは、さっき見せてくれたものよりも明るい、まるでひまわりのような笑顔だった。

「わたしも、センパイのお役に立てるかもしれませんっ」

「えっ?」

 その言葉で、フリーズしていた頭が再起動した。道香ちゃんのお父さんは親父の知り合いで、アメリカに出張していた。それならば、もしかして。

「もしかして、コンピュータを?」

「はいっ、ポートランドに居ましたから」

「ポートランド?」

 都市の名前を聞いても、場所がぱっと出てこない。そもそもアメリカの都市の名前なんて、メジャーな場所しか知らなかった。

「西海岸のシアトルからちょっと南の街です。正確に言うとポートランドの近くにあるヒルズボロ、ってとこなんですけど、半導体の大きな会社が大きな開発拠点を置いていて……そこのエンジニアの方からコンピュータのことを教えてもらったんです」

「ちなみに分野は?」

「半導体と電子工学の基本と、特に先生が熱と電力についてのエンジニアだったのでそこが得意ですっ」

「でかした道香ちゃん、役に立てる、なんてもんじゃないぞ! 一緒に来てっ」

「わ、わわっ……はいっ!」

 思い出されたのは、昨日の砂橋さんの言葉。うちの部活で足りない分野を綺麗に補える、スーパー助っ人になってくれるかもしれないぞ。

 そのまま道香ちゃんの手を引いて部室へと走る。残りのポスターを配り切るよりも、こっちの方が何百倍も価値があるに違いない。

 部室の前へ辿り着き、玄関に自分の学生証をかざすと無事鍵が開いた。蒼が既に登録しておいてくれたようだ、さすが仕事が早い。

「わあっ、話には聞いていましたが立派な部室ですねっ」

「だよな、僕もびっくりした」

 そのままA会議室へ向かうと、蒼が難しい顔をしながらノートパソコンと向き合っていた。入ってきたドアの音に気付いたのか顔を上げると、きょとんとした顔でこちらを見てくる。

「あら、早かったじゃない。って、どうしたのその子……まさか、誘拐?」

「違うわっ、誘拐してまで連れてくるかっ」

「もしかしてのもしかして、入部したいって子?」

「その通りだよっ、とりあえず入りな道香ちゃん」

「はい、失礼しますっ」

「ん? 道香ちゃん? どこかで聞いた名前のような……あっ、もしかして今日の入学式で入学生代表のスピーチをしてた?」

「はいっ、僭越ながら……」

「でかしたわシュウ、大手柄よっ! ちょっと待ってね、あのバカにお茶持ってこさせるから。道香ちゃん、座って待っててちょうだい」

 そう言って蒼はスマホを取り出して何かを始めた。その間に、今蒼がぽろっと漏らした気になる情報を確認してみよう。

「え、入学生代表ってことは、主席、ってやつ?」

「らしい、です。自分では、そんなに会心の出来じゃなかったんですけど」

 椅子にちょこん、と座った道香ちゃんに話を聞くと、おずおずと教えてくれた。このあたりの性格は変わっていないようで、少し安心。

 でも、主席かあ。少なくともここ一年で見たことのない点数が彼女の答案には踊っていたんだろうなあ。

 そんなことを考えている間にやりたいことは終わったのか、蒼はスマホを置くと改めて道香ちゃんに向き合った。

「道香ちゃん、初めまして。電子計算機技術部、通称コン部の部長、早瀬蒼です」

「は、はいっ! 計算機工学科一年の桜桃道香ですっ、よろしくお願いします!」

 その名前を改めて僕の口から聞いたからだろうか。蒼は数秒考えてから、そうだ! と声を上げた。

「シュウ、あんたが小さい頃言ってたミチカちゃん、っていうのはもしかしてこの子? なんか知り合いっぽいけど」

「そうか、そういえば名前だけは話したことあったよな。そうそう、親父の元仕事仲間の娘さんなんだよ道香ちゃんは」

 蒼や悠の近所付き合いの幼馴染とは違って、道香ちゃんは親父関係で知り合った幼馴染だ。アメリカに行く前の道香ちゃんの家は隣の市にあり、母さんの代わりに道香ちゃんのお母さんに放課後の面倒を見てもらったりもしていた。

 だから、話はお互いにしていたかもしれないけど、直接蒼と道香ちゃんが会うことは無かったはず。これが初対面だ。

「じゃあ逆に、わたしに話してたアオイって人が早瀬先輩ってことですか」

「あら、私のことも話してたのね」

「ええ、それはもう色々と……」

「シュウ、余計なこと言ってないわよね?」

「えーっと、なにぶん昔の話だし、あんまり覚えてないなあ、あはは」

 本当は色々言った記憶がおぼろげに残っているけれど、お互いの名誉のために無かったことにしよう。うん。まさか覚えてないよな?

 内緒にしてくれ、とアイコンタクトで頼もうと道香ちゃんの方を向くと、その本人は目を伏せていて、それから何か考えているようにぽつりと呟いた。

「そっか、あのアオイちゃんが……」

 待つこと数秒、道香ちゃんは蒼と目を合わせた。数秒の間を経て、二人とも笑顔になる。

「ふふっ。よろしくね、道香ちゃん」

「こちらこそ宜しくお願いします、早瀬先輩……いえ、蒼先輩、とお呼びしてもいいでしょうか?」

「ええ、構わないわ」

 目線で交わされた会話の内容は判らない。けど、きっと二人で通じ合うところがあったんだろうな。

 こうして二人が話しているのを見ると、小さい頃は物理的な距離で分かたれていた世界が一つになったような感じがしてむず痒い。

 それと同時に、あの時からはかなりの時間が過ぎたんだ、という実感が少しだけ湧いた。

「シュウ?」

「センパイ?」

 そんなことを考えていたからだろうか。ふと気が付くと、二人がこちらを少し心配そうに見ている。だから、あえて適当に返事を返した。

「っと、ごめんぼーっとしてた」

「もう、ちゃんとしてよね」

それで、会議室内の空気は元に戻る。蒼は一回わざとらしく咳ばらいをすると、道香ちゃんに改めてまっすぐ向き直った。

「さて、道香ちゃんには是非ウチの部活に来てほしいんだけど……特別な事情があるから、話しておくわね?」

 それから蒼は、部活の今の状況をありのままに伝えた。

 部員がほぼ全員居なくなってしまっていること、もし道香ちゃんが入ってくれてもあと一人集めないといけないこと。それが果たせない場合、部が無くなってしまうこと。

「なるほど、わかりました」

 全部を聞き終えた道香ちゃんは、目を伏せて神妙に頷いた。

「私としては、是非入って欲しいわ。でも強制することは――」

 蒼は、珍しく弱気に言葉を続ける。それを遮るように、道香ちゃんは両手にこぶしを作って立ち上がった。

「是非っ、是非わたしにも手伝わせてくださいっ! アメリカンドリームですっ!」

 それから、蒼の両手を握りしめる。僕たちは逆に、その溢れるパワーにすっかりと置いて行かれてしまい。

「えっ?」

「ん?」

 二人で間抜けな声を上げてしまった。

 そんな僕たちを気にすることもなく、道香は蒼の手を解放するともう一度こぶしを握る。

「無くなりそうな部で、廃部を阻止するために戦う! 燃えるじゃないですかっ!」

「ねえシュウ、この子ってこういう感じなの……?」

「いや、そうじゃなかったと思うんだけどなあ……」

 五年前はこんなに暑苦しい子だっただろうか。いや、そんな記憶は無いぞ。もうちょっとこう、お淑やかで大人しい感じだったような?

「ま、まあいいわ。とにかく、力になってくれるって言うならこちらから断るなんてあり得ないもの。よろしくね、道香ちゃん」

「はいっ!」

「ちなみにJCRAのPE資格なんて、持って――」

「持ってますっ、お父さんにどうせ日本に帰ることになるんだから持っておけって言われて取りました」

「分野はどこか、教えてもらってもいいかしら?」

「電源設計、熱設計、基板・高速信号設計で部門認定を持ってます。あとはおまけ程度ですがプロセッサ周りの論理設計をいくつか」

「でかしたっ!」

 今度は逆に、蒼が道香ちゃんの手を握りしめる。

「ちょうど今、その分野のPEが居ないのっ! 百人力どころか千人力、万人力だわっ」

「……ねえ鷲流くん、あの二人は何踊ってんの?」

「うおっ、その格好どうしたんだよっ」

 そのまま踊り出しそうな二人を尻目に、いつの間にか砂橋さんがお茶を抱えて後ろに立っていた。

 しかもさっきまでの制服姿じゃなくて、ハイライトの消えた目でメイド服を身にまとっている。コスプレの趣味でもあるのか?

「言っとくけど、アタシの趣味じゃないかんね。あーもう恥ずかしい……」

「じゃあ?」

 その考えを読まれたか、速攻で否定する砂橋さん。ならば、と蒼を指さすと、静かな肯定の頷きが返ってくる。なるほど、いい趣味をしてるな。

 そんな蒼も、かわいらしい砂橋さんの姿に気付いた。

「あ、良いところに来たわねメイドさん」

「せめて名前で呼んでっ」

「お茶は?」

「はい……」

 蒼は笑顔だけど、あの自由な砂橋さんがその圧に負けた! ……蒼は砂橋さんに一体何をしたんだろう。

 そんな蒼は、はあ、とため息をついてからお茶を手に取った。

「まったく……道香ちゃんもどうぞ、シュウも」

「ありがとうございますっ」

「あ、勘違いしないでよね。結凪のその服は私の趣味じゃなくて、そのバカがシュウを置いて敵前逃亡した罰だから」

 聞けば納得の罪状だった。笑顔で頷く。

「そういうことか、なら納得だ。一週間くらいそのままでいいんじゃないか?」

「うおぉいっ、さっきは悪かったってば!」

「刑期は決めかねてたけど、じゃあ今週は部室にいる間はメイド服で過ごしなさい。嫌なら勧誘に出ること。いいわね?」

「ぐ、ぬぬぅ……」

 露骨に嫌そうな顔をする砂橋さん。自分に落ち度があることもあって強くは断れないんだろう、そこに蒼が追い打ちを掛ける。

「返事は?」

「承知いたしましたお嬢様」

 訂正、完全に躾けられていた。僕がチラシを配っていた一時間弱の間に一体何があったんだろう、相当怒られたに違いない。

「は、はわぁ……」

「ん、どうした道香ちゃん?」

 変な声が聞こえたから振り返ってみると、そこには恍惚とした目をした道香ちゃんが居た。あれ、どんどん前のイメージから離れていくなぁ。こんな表情見たことなかったぞ。

「メイドさんかわいい、です……撫でていいですか?」

「ゴーだ」

「うおあああああああ、やめろおおっ! あ、いやっ、アタシは猫とかそういう感じの動物じゃなっ、いや、ぎゃああああああああっ!」

 メイド姿の砂橋さんを猛烈に撫でまわし、写真を撮り始める道香ちゃん。その様子を、僕と蒼はお茶を飲みながら眺めることにした。

「諸行無常ね」

「ああ、自業自得だな」

 それから大体十分ほど。

 道香ちゃんはコスプレした砂橋さんで散々遊びつくし、最終的に土下座をしていた。綺麗なフォルムだ。

「すみませんでしたっ、先輩とは知らず……」

「なんかそれも微妙に気になる言い方だけど……まあいいや。アタシは電子計算機技術部副部長の砂橋結凪、物理設計のPEだよ。呼ぶときは名前の方でいいからね、よろしく」

「はい、桜桃道香ですっ。よろしくお願いします、結凪先輩」

「ちょうどいいわ、じゃあ今日の戦果報告をしちゃいましょうか。メイドさんも座っていいわ」

「ハイ」

 改めて今の部員が全員揃ったからだろう。蒼は砂橋さんを座らせると、僕たち三人を見回して言った。

「これで部員が四人になったわ。チップとそれを動かすボードの設計周りは大体これで揃ったから、後は高望みをするなら製造系の技術がある部員が欲しい」

「新入生は正直かなり電工研に吸われてる感じだったな。今日のオリエンテーションはどうだったんだ?」

 それはどうやら勘所だったらしい。現地を知っている蒼と道香ちゃんが目をそらした。

「電工研の独壇場、でしたね」

「ええ、認めたくはないけど」

「そんなにか」

「人海戦術で押し切ったようなものね、チップの動作デモをしてたわ。多分夏の大会向けよ」

「え、もう? 早くない?」

「でも、あの部が出る大会なんてそれ以外に無いじゃない」

「まあ、それもそうだけどさ」

「やっぱり、そんな派手な展示と比べてしまうと……」

「あー、わかったわかった」

 残念ながら広報戦略では敗北を喫したらしい。人海戦術は今のコン部に望むべくもないから仕方ないよなあ。

「蒼先輩も格好良かったですよっ……製造系であれば、同じクラスに何人か居たような? 声を掛けてみましょうか?」

「本当? もしよければなんだけど、今週中のどこかで勧誘してもらえない?」

「もちろんですっ」

「そうだ、WINE交換しましょ。皆でグループ作っちゃうわ」

「はい、賛成ですっ」

「ほらメイドさんも、携帯くらいは持ってるでしょ? 道香ちゃんと交換しておいて」

「ハイ」

 全員でスマホを出すと、コードを読み取ってWINEの連絡先を交換していく。砂橋さんはその間も心を守るためかロボットになっていた。正直面白い。

「ほら、シュウも。……グループ作成っ、っと。みんな入ったかしら?」

「ん、バッチリだ」

 グループのタイトルに、新・コン部の文字が踊る。この賑やかな空間に居ることがなんだか楽しい、と感じると同時、つい一昨日までの自分を思い返してその差に驚いた。



 それからは、道香ちゃんが入部届とNDAにサインをしてから、日が沈むまで情報交換という名のお喋りに興じて解散となる。道香ちゃんを拾ったのがラストチャンス、もう新入生は帰ったかお望みの部活に行ってしまっただろう。

 もちろん、その間も砂橋さんはずっとメイド服のままで死んだ目をしていた。ちょっとは反省して欲しい。

 全員で部室を出て、太陽が沈み切った通学路をお隣さんの蒼と帰る途中。

 部活の話を色々していたけれど、それがいったん途切れると沈黙が流れた。

 にぎわう表通りから一本入った裏道は人通りも少なくて、二人の会話がなくなると聞こえてくるのは車の音くらい。その静けさが逆に心地よい気がしてしまう、そんな夜。

「ねえシュウ、今日はうちでご飯食べてかない?」

 ぽつり、と。蒼からそんな提案が投げかけられた。もちろん、断る理由なんてない。

「いいのか?」

「うん、シュウがよければ」

「もちろん、僕は全然いいよ」

 そう答えた時に蒼が見せた、普段のちょっと勝気な笑顔とはまた違う……柔らかい笑顔。気を遣わせちゃってるなあ、と少しだけ申し訳なく思う。

 閑静な通学路を二人でゆっくり歩いて辿り着いたのは、お隣さんの蒼の家。昔の名家だったらしく、ウチと比べるのも申し訳ないくらいの大きなお隣さんだ。門をくぐってから建物までには広大な庭が広がっている。

 ようやく辿り着いた和風のお屋敷の扉を開けると、外より少し暖かな空気が僕たちを包んだ。

「ただいまー」

「おじゃまします」

 挨拶をして戸を閉めて。こっちに引っ越してきてから、そして母さんが居なくなってからも度々お世話になっているから、正直勝手知ったるところはある。

 広い玄関で靴を脱いでいると、廊下の奥からとことこと女の子がやってくる。蒼より少し薄い色の髪を短く整えているその子は、玄関までやってくるとたおやかな笑顔を見せた。

「おかえりなさい、姉さん、兄さん」

「翠ちゃん。こんばんは」

 僕のことを兄さんと呼ぶこの子は、蒼の妹の翠ちゃん。二つ下で、今は中学三年生だ。

「いらっしゃい弘治くん、蒼も、もうご飯出来てるから手を洗ってすぐ居間においで。お父さんは帰ってくるの遅くなるみたいだから、食べちゃいましょう」

 それから、蒼のお母さんである金江さんの声も響いてくる。

 その景色は、叶わぬ夢をうっすらと想起させる。それでいて、そんなそこに自分がいることが不思議でもあった。

 だからお邪魔する度に、寂しくて、暖かくて、幸せな相反する気持ちを抱いてしまう。

 胸に立ち上ったほの暗い気持ちは、賑やかな姉妹の声にゆらいで消えた。

「翠、お出迎えなんて珍しいじゃない」

「母さんがそろそろできるよって言ってたの。だからそろそろ、姉さんと兄さんも帰ってくるかなって」

 確かに、翠ちゃんもお出迎えまでしてくれるのは珍しい。ちょうどタイミングがあっただけなんだろうけど、それだけでいいことがあったと思えてしまう。

「そっか、お出迎えありがとな。僕も手を洗ってすぐ行くから、先に居間に行ってていいよ」

「はーいっ」

 満足したのか、居間へと元気よくぱたぱたと駆けていく翠ちゃん。蒼よりは引っ込み思案なところがあるけど、どこか似ている姉妹だ。

「ほら、シュウもぼーっとしてないで。早く行きましょ、折角のご飯が冷めちゃうわ」

「そうだな、金江さんの食事が冷めちゃうのは勿体ない」

 手を洗ってから居間へ向かう。

 大きなダイニングテーブルには、温かな夕食と、それを囲む皆の笑顔がある。

「いただきまーす」

 声を揃えていただきますをして、温かいご飯を口にしたところでふと感じた。

 今朝一歩を踏み出してみる勇気を持つことが出来たのは、蒼と、その家族と過ごした暖かな時間があるからなんだと。

「どうしたのよ、何か考え事でもあるの?」

 蒼が覗き込んでくる。僕は、素直に思っていたことを口にした。

「いや、今日は誘ってくれてありがとな」

 きょとん、とする蒼。そんな姿を見て、金江さんはふふふ、と笑う。

「弘治くんならいつでも来てくれて良いのよ? それに蒼だって、昨日の夜は大変だったんだから。この世の終わりみたいな顔をして、『わたし、シュウのことを傷』――」

「わ、わーわーわーっ! やめてよお母さん!」

 顔を真っ赤にしながら手を振り回す様子が微笑ましくて、僕も翠ちゃんも笑顔になった。

 でも金江さんの言葉を振り返ると、蒼はそこまで考え込んでしまっていたんだな。ちょっと申し訳ない。だけど、あの時間は多分……必要だった。座り込んだままの場所から立ち上がるためには。

 だから申し訳ないじゃなくて、ありがとう、と思い直すことにした。

 そんな暖かな夕食を頂いた後。

「シュウ、もうちょっとゆっくりしていけばいいのに」

「いやいいんだ、これ以上親子水入らずの時間を邪魔してしまうのは申し訳ないからさ」

 僕はすぐに玄関に向かっていた。

 温かな、家族と過ごす時間はもう十分受け取った。これ以上居ると、もう一人には戻れなくなってしまいそうだったから。

「そんなことないのに……」

「あと、蒼。ありがとな」

「えっ?」

 さっき思ったことを、言葉にして伝える。蒼に引け目を感じてほしくはなかった。

「コン部に誘ってくれてありがとう。こんな機会でもなかったら、改めて向き合おうなんて気持ちにはならなかったよ」

 それを聞いた蒼はまた、どこか優しい笑顔で微笑む。

「……ううん、いいの。そう言ってくれて、こっちこそありがとう」

「んじゃ、おやすみ。また明日」

「うん、また明日。ちゃんと起きてよね?」

「努力する」

 穏やかな笑顔のまま手を振る蒼に見送られながら、早瀬の家を後にした。



 次の日、今日から二年生以上は通常授業で、一年生は丸一日のオリエンテーションらしい。午前中の授業を概ね聞き流した後の昼休み。

 悠と宏、いつもの馬鹿二人と馬鹿話に勤しみながら昼食のパンを食べていると、ポケットの中のスマホが震えた。

 取り出してみると、画面にはWINEの通知。

「ん、どうしたんだシュウ?」

「あー、駄目だったか」

 メッセージは道香ちゃんからだった。

 昨日言っていた製造部門の子に話をしてみたけど、もう電工研に入ってしまった後だったらしい。うーん、部員獲得はならず、か。

「そっか、そういうことなら仕方ないな、っと」

 送信。ポケットにケータイを戻すと、にやにやと笑う悪友どもの姿が目に入った。

 しまった、明らかに好奇の目で見られている。間違いなく面倒くさいことになると、脳内のセンサーが警報を上げていた。

「何の話だ?」

「何って、部活だよ部活」

 さもなんてことなさげに返すけど、当然それくらいで許してくれる連中じゃない。

「あれ、お前部活入ってたっけ? オレらは帰宅部のフレンズだったよな? な?」

「ああ、昨日から入ったんだよ。あとその聞き方はオタクがやっても惨めなだけだからやめろ」

 宏の控えめに言って最悪な絡みを一刀両断する一方、悠は少し感慨深げに言った。

「へえ、あのシュウが部活ねえ。何部に入ったんだ?」

「電子計算機技術部」

「コン部か。お前もモノ好きだな、電工研を選ばないとは」

「ははーん? さては蒼に締め落とされたな」

 にやりと笑う悠。それを聞かれたら蒼に締め落とされるのはお前だろう。

 とはいえ正直に全部を話すのも面倒になりそうだから、説明はまとめて放棄することにした。悪いな、蒼。いや、悪いのは全部悠だな。

「まあ、そんなもんだ」

「そっか、ようやくお前も部活に入ろうって気持ちになったか」

 てっきり、さらにイジってくると思っていた。

 でもその読みとは真逆に、悠は本当に安心したような、ほっとした表情を見せた。もちろん、こいつは僕が今までその部活を避けていたことを知っている。

 なんなら、部活に入る気が起きなかった理由まで全部。

 ……心境の変化は、嫌でも伝わってるんだろうなあ。

 その気恥ずかしさと宏のおもちゃを見つけた子供のような視線から逃げるべく席を立つ。ついでに購買で何か買ってくるか。

「そういう気分のときもあるってことだよ。食い足りないから購買行くけど、お前らも行くか?」

「ん、じゃあコーヒー牛乳買ってきてよ。金はもちろん払うからさ」

「あ、オレには何か適当に菓子パン一個買ってきて。甘い奴な」

「パシリかよ……ったく、しゃーないな」

 一緒に行くか? と聞いただけなのに、いつの間にか二人の使い走りを受けてしまった。仕方ない、たまには人の役に立つとするか。

「んじゃ、行ってくるわ」

「悪いな、よろしく」

「いってらー」

 教室を出ると、広い校舎を歩いていく。購買は一階、ちょうど対角線の方にあるから地味に遠くて、悠も宏も行きたがらない気持ちもわかる。

 廊下を概ね端から端まで歩き、購買にたどり着くと早速適当に食料を見繕う。宏の分も併せて適当に菓子パンを選んでから、悠と自分の分でコーヒー牛乳を二パック買った。腕時計を見ると、そんなに時間があるわけでもない。ちょっと急いだほうがよさそうだ。

 廊下を小走りで抜け、二階へ上る階段の階段室へと差し掛かったとき。

「おわっ」

「きゃっ……」

 ばしゃり、と何かがこぼれる音。ちょうど陰から出てきた人とぶつかってしまった。

 見ると、ぶつかってしまったのは小柄な女の子。さすがに砂橋さんよりは大きいけど、蒼よりは幾分か小さい。道香ちゃんといい勝負だろうか。

 教室の場所から考えると計算機工学科の人だろう。

 その人が手に持っていたのであろうコーヒー牛乳のパックは床に倒れ、茶色い液体が床に広がってしまっていた。

「わ、悪い。ケガはないか?」

「大丈夫」

「そっか、良かった。ここは片付けとくよ、本当にごめん……あと、これはお詫びの品」

 そう言って、彼女にまだ開けてないコーヒー牛乳をひとパック渡した。完全に自分の不注意だから、せめてもの罪滅ぼしだ。同じものを二つ買ってたのが功を奏するなんてな。

「……いいの?」

「ああ、遠慮しないで持ってってくれ。えーっと、モップはここだったよな」

 さすがに廊下をこのままにしておくわけにはいかない。ちょうど踊り場の階段室にある掃除用具入れからモップを取り出すと、こぼれた茶色い液体を拭いていく。

 あの女の子はどうしたかな、と思い周りを見ると、その子も同じようにモップを持ってきていた。

「気にしなくていいのに」

「ううん、私も不注意だったから。おあいこ」

 そう言う彼女が何を考えているかは、その目から読み取ることは出来なかった。思えば、蒼も道香も砂橋さんもあっという間に表情に出るから……ちょっと不思議な感覚だ。

 とはいえ、手伝ってもらえるなら断る理由はない。

「そっか。じゃあ、そっち頼んでもいいか?」

「うん」

 もくもくと二人で手早く茶色い液体をモップに吸わせ、軽く雑巾で拭いて床は綺麗になった。やっぱり一人でやるよりも、二人でやった方が片付けは早い。バケツでモップを洗い、掃除用具入れに戻して終了だ。

「手伝ってくれてありがとうな」

「気にしないで」

 んじゃ、と軽く会釈をして別れる。申し訳ないことをしてしまったし、気を付けながら教室へと急いだ。



 迎えた放課後。

「おかえりなさいませご主人様」

「いつからここはメイド喫茶になったんだ……?」

 部室に向かうと砂橋さんがメイド服を身にまとった状態で、ハイライトの消えた笑顔と共にお出迎えしてくれた。

 確かに見た目はかわいいけど、死んだ目でやるものでは決してない。ありがたみを感じるというよりは、どちらかというとホラーだ。

「あ、鷲流くんか。じゃあいいや、ったく疲れるよこれ」

 そして僕だとわかった瞬間、すべてが適当になる砂橋さん。もう少し頑張れよというツッコミはもはや無粋だろう。

「それは昨日逃亡した罰だって、蒼が言ってたじゃん」

「いやそうだけどさ……まだ蒼も来てないしいいでしょ。ってか蒼、メイドなんだからって本当に掃除させるんだよ!? 酷いと思わない?」

「確かに埃被ってたからね、新入生も居ることだし綺麗にしとかないと」

「そりゃそうだけど、この服に着替えると確かに制服も汚れないんだけどさ、はぁーっ……」

「シュウ、もう来てたのね」

 玄関でそんな雑談をしていると、蒼も部室にやってきた。砂橋さんはその姿を認識した瞬間、さっきまでの砕けた雰囲気はどこへやら、綺麗なお辞儀をする。もちろん目は市場の魚のように濁り切っているが。

「おかえりなさいませお嬢様」

「……ホラーね」

「なんだようっ、蒼がやれって言ったんじゃんかようっ!」

 べちーん、と手に持っていた雑巾を床に叩きつける砂橋さん。大変にメイドらしくないしぐさだが、怒っても可愛いらしく見えてしまうのはサイズ感ゆえだろう。

 その抗議を華麗にスルーしながら、蒼は僕に言った。

「結凪と私は部室の掃除をしてるから、シュウはビラ配りに行ってきてくれるかしら?」

「あいよ、了解」

 実際、無学な僕にはそれくらいしか出来ることはないだろう。仕事を果たすべく会議室にあった残りのビラを手に取ると、玄関へと戻る。

「結凪、掃除が嫌ならあんたもシュウと一緒にビラ配りする? その恰好で」

「するかぁっ! 恥ずかしいし教員も飛んでくるわあっ! まだ掃除の方がマシだわっ!」

 玄関を出ようとしたときに後ろから聞こえてきた砂橋さんの魂の叫びを聞き流しながら、今日のビラ配りを再開することにした。

 だが、昨日と比べると圧倒的に効率が悪い。何せ人が居ないのだ。

 よくよく考えてみると、気になる部活がある人はそこに行ってるだろうし、帰宅部はもう帰っているだろう。タイミングがちょっと悪かったらしい。

「ふう、全然捗らんな」

 結局、しばらくうろうろしたところで配れたチラシは一桁前半。決して成果が出ているとは言えない状態だ。

 正直一休みしたいところだが、チラシを持ったまま人の多いところで休むのはあまり良くないか。

「裏にでも行くか」

 ざくざくと草を踏みしめて足を運んだのは本校舎の裏。舗装もされてないし何か設備がある訳でもないから、昼間はともかくとしてこの時間帯は人気もない。

 休憩には良い場所だ。涼しい風を頬に浴びながら適当な場所を見繕おうとしていると。

「……ぅ、……っ」

「ん、誰かいるのか?」

 小さな小さな、風の音に紛れて消えてしまいそうな女子の泣き声が聞こえてきた。

 よくよく見ると、その姿を直接見ることは出来ないが、外に張り出した柱の陰に革靴がちらりと見える。

 ゆっくりと、音を立てないように近づいてみると――そこには、お昼のあの子が体育座りをして、膝に顔を埋めていた。

「よう、奇遇だな。隣、いいか?」

 なるべく明るく声を掛けてみる。

 びくっ、としたその子は恐る恐る顔を上げ、そして僕の顔を見ると少し安心したように頷いた。それを肯定と捉えて、こぶし三つ分くらい離れて座る。

 地面に近くなると、草と大地の香りが漂ってきた。うん、見立て通りここはサボ……休憩に良いところだ。無言で座っているだけでなんだか疲れが癒されるような気がする。

 しばらく休憩していると、彼女はいつのまにかこちらを見つめていた。その目こそ泣き腫らしているけど、やっぱり感情は読めない。

「……その、お昼は、ごめん」

「いや、気にしないでくれって。僕は普通科二年の鷲流、鷲流弘治」

「私は、計算機工学科の二年。狼谷氷湖かみたに ひょうこ

「そっか。よろしくな、狼谷さん」

「うん」

 んー、と伸びをする。狼谷さんはそんな僕の様子を涙跡はそのまま、ぱちぱちと何回か瞬きをしながら眺めて、それから小さく言葉を紡いだ。

「鷲流くんは、なんでここへ?」

「あー、それがな、部活の勧誘しようと思ったんだけど誰も居なくてさ。すぐ戻っても怒られそうだし、サボりだよ」

「サボり、よくない」

「そうだな、バレたらメイド服を着せられて『おかえりなさいませ、ご主人様』って言わなきゃいけないかもしれないな。だからサボってたのは内緒で頼む」

「わかった」

 表情をほんの少しだけ動かして、微かにはにかむ狼谷さん。ようやく感情らしきものを見て取れて、ちょっとほっとした。

 それに、何というか……砂橋さんより背は大きいけど、庇護欲をそそる雰囲気があるな。

 でも、僕の方からどうしたんだ、とさっきまで泣いていた女の子に声を掛ける勇気はない。この心地いい場所で、しばしの休憩時間をそのまま過ごすことを選んだ。

 それから数分、次に声を出したのも狼谷さんだった。

「聞かないの?」

「ん? 何をだ?」

「どうして、私がここに居るのか」

「ああ、いや。知りたくないわけじゃないが、言いたくない事だってあるだろうからさ」

「そう、優しいんだね」

「いーや、ただ勇気がないだけだよ」

 また、狼谷さんが小さく笑った気がする。それから、無言。

 この空間を支配しているのは、風と草の音だけ。

「部活、追い出されちゃった」

「何でだ?」

「方向性の違い」

「それだけでか」

「そう。私の考えているものと、他の人たちが考えている事が違った。ただ、それだけ」

「それだけ、か。ただそれだけ、って訳じゃないんだろ?」

「……色々、言われた。技術の批判だけじゃなくて、色々」

「そりゃ、しんどいな」

「でも、私、何も……っ、技術的な問題点を、指摘しただけで……っ」

 そのまま伏せてしまう狼谷さん。その横顔からは、涙が落ちているのが見えてしまった。

 声を掛けるのも野暮な気がして、静かに彼女が泣き止むのを待つ。

 十分もしないで彼女は泣き止むと、わずかに申し訳なさそうな顔をした。

「ごめん。鷲流くんには、関係ないのに」

「いや、泣いてる女の子をそのまま放っておけるような良い性格してなくてさ。まあ、何か出来るわけでもないんだけど」

「……そんなこと、ない」

「ま、そうやって笑ってればきっと良いことあるよ」

 口をついて、そんな言葉が出た。

 自分でもその言葉を信じることはできない。笑ってるだけで良いことがあるなんて気休めの言葉でしかないのは十二分に知っている。

 でも、狼谷さんはそっか、と呟いてから、また小さく笑ったような気がした。

「ん、そうかも」

「ハンカチ、あるか?」

「ある。ありがとう」

 泣き止んだその顔は、なんだか少しだけすっきりしたように見える。これなら大丈夫かな。

「ならよかった。そろそろ行くよ、本当に部長にメイド服を着せられかねん」

「執事じゃなくて、メイド?」

「ああ、うちの部長は鬼のような奴でな。執事なんて格好で許してくれるとは思えん」

「鷲流くんの、メイド姿」

「うお、想像しないでくれ。考えただけで吐き気がする」

 ゆっくりと立ち上がると、手のひらに掴んでいたチラシが数枚滑り落ちた。あわてて掴もうとするけど、何枚かは地面に落ちてしまう。

「おっ、っと」

「……コン、部?」

 それを拾い上げた狼谷さんが、かすかに不思議そうな表情をしてこちらを見る。僕はただ、苦笑いするしかなかった。

「ああ、今部活が消滅しそうでな。新入部員なりに頑張ってるってわけだ」

「私を、勧誘する?」

「んー、力になって欲しいのは山々だけど。でも、今はしないでおくよ」

「どうして?」

「なんだか弱みにつけこむみたいで、良い気分じゃないからな」

「そう。やっぱり優しいね、鷲流くん」

「やめてくれ、なんだか恥ずかしい」

「一枚、もらってもいい?」

「もちろん」

「でもこれで、鷲流くんのメイド服は遠のく?」

「僕にメイド服を着せようとしないで……じゃ、こんどこそ行くよ。またね」

「うん、ありがとう」

 相変わらず表情の機微に乏しい彼女だけど、小さく笑ってくれた気がする。そんな狼谷さんに手を振って、校舎裏を後にした。

「げっ、結構時間経ってんな」

 時計を見ると十七時半。部室を出てから一時間半以上経っているし、いったん部室へ戻ることにしよう。

 部室に戻り、いつもの会議室に入ると蒼と道香ちゃん、そしてメイドさんが揃っていた。三人とも難しい顔をしてホワイトボードに向き合っている。

「ただいま、砂橋さんのそのメイド姿にも慣れてきたな」

「頼むから慣れないで……これがアタシのアイデンティティになることだけは避けたいの……」

 僕のコメントに死んだ目で返す砂橋さん。続けて蒼も声を掛けてきた。

「おかえりシュウ。どうだった?」

「んー、いまいちだったな。もう部活に興味がある人たちはどこかの部活の体験に行っちゃってたし、帰宅部の連中はもう帰っちゃってた」

「そう、それじゃあ仕方ないわね……ちょっと仕切り直しましょう」

 ホワイトボードには新人勧誘と見慣れない丸っこい字で書かれている。よくよく思い出してみれば道香ちゃんの字はこんな感じで、彼女が書いたのだろうと想像がついた。

どうやら新入部員の確保に向けて話し合っていたようだ。

 むむむ、と眉間にしわを寄せてから、道香ちゃんが口を開いた。

「はい部長っ、やっぱり目立たないと駄目だと思うんです」

「宣伝効果を考えるならそうね。何かいい方法はある?」

「多分一番目立つのは砂橋先輩がその格好でチラシを配る事だと思うんですけど、多分すごい怒られちゃうと思うんですよ」

「アタシはぜっっっっ対に嫌だからね」

 血の気が引いた顔で砂橋さんが拒否している。目立つのはそもそもあまり好きではないようで、その気持ちは分からなくもない。

 その姿を見て、苦笑いしながら道香ちゃんは続けた。

「なので、電工研に対抗して実演販売みたいにするのはどうでしょう? こう、実際に動いているものを見せるんです!」

「デモをするってことね。悪くはないアイデアだけど、一つだけ欠点があるわ」

「何だ? 活動を知ってもらうには良いアイデアだと思うけど」

「今うちには製造技術系のPEが居ないわ。だから、新しくチップを作れない」

「去年の物じゃダメなのか?」

 何の気なしに聞いた言葉。だけど、それを聞いて浮かべた蒼と砂橋さんの辛そうな表情を見て、すぐに失敗だったと悟った。

「……まともに動く去年のチップが無いのよ」

 その返事は、今までの元気な蒼とは真逆の辛そうなもの。

「そ、それならファウンダリを使うのはどうでしょう?」

 その雰囲気を壊すような元気な声で、道香ちゃんが提案をしてくれた。気を使わせてしまって申し訳ない。

「道香ちゃん、ファウンダリって何だ?」

「『ファウンダリ』って言うのは、外部の半導体製造会社さんのことですっ。海外にお願いすれば専業の大手ファウンダリさんが作ってくれますし、日本でもJCRA経由でお願いすると量産ラインの中で作ってもらえるんですよっ」

「ああ、砂橋さんが昨日言ってた製造委託する先の会社のことか」

「ん、その認識で正解」

 だけど、それも厳しいようだ。蒼は渋い表情で呟く。

「それも難しいわね、外部のファウンダリにお願いするなら、それに合わせたデザインにしてマスクデータも作り直さないといけないわ。結凪、今から不眠不休でWilametteのデザインルールを……ここだと会津武蔵通の会津工場が近いかしら、そこのルールに直すのにどれだけ掛かる?」

「あ、物理設計をやり直さなきゃなんですね。確かに、ルールは違うかあ」

「んーと、ちょっと待ってね……ひい、ふう、みぃ……学校に泊まりこんで丸一日、現実的に考えて三日は欲しいかな」

「あそこの製造のリードタイムは四日、しかも後工程ができないからプラス最短でも一週間以上。だからこの期間中に新しいチップを起こすのは間に合わないわね、それに予算も苦しい」

 だけど、その呟いた内容に完全に置いて行かれる。情けないが、通訳が必要だ。

「ちょっと、ちょっと待ってくれ、僕でもわかる日本語で話してくれ」

「簡単に言うと、お願いする工場と自分たちの持っている半導体製造室だと設計図の書き方から一番小さい加工できる精度まで、全部違うんだよ。だからお願いする工場に合わせて設計図を書き直す必要があるってわけ」

「それに、チップを作る工程全部を近くにある工場でやってる訳じゃないから、さらに時間が掛かるのよ。だから、今週中って制限の中で新しいチップを作るのは現実的じゃないわ。もちろん予算の制約もあるし」

「じゃあ、やっぱり難しいんだな」

「そうね……入ったばっかりなのに申し訳ないんだけど、道香ちゃん、チラシ配りお願いできる? 多分シュウが配るより目を引くはずよ」

「えええっ、メイド服を着るんですかあっ」

 知らぬ間に道香ちゃんが毒されていた。少なくともこの部はメイド服が正装ではないはず、メイドさんと化している主任技術者様が居るのは事実だが。

「着ないわよっ! そのままでいいの!」

「そ、それなら任せてくださいっ! わたし、頑張りますっ」

「決まりね。道香ちゃんの鍵はもう登録しておいたから、明日はお昼にチラシを持って行って放課後すぐに配り始めてもらえるかしら?」

「わかりましたっ」

「あと、来た人の気が変わらないうちにサインを貰えるように入部届とNDA書類はこの会議室に置いておくわ。そこの棚に移しちゃうから、みんなも書類が無いって慌てないように。以上、じゃあ今日は解散にしましょう。早く部員を集めて、早く開発を始めるわよっ」

「「「おーっ!」」」



 その翌日、放課後。最後の授業が延びて、ちょっと遅くなってしまったが部室に行く途中。

 ちなみに悠と宏は昨晩も遅くまでゲームをしていたらしく、授業中に寝まくっていたお陰で進級そうそう職員室に呼び出されていた。

 いつもの姿ではあるし、去年までならその仲間に入っていたかもしれないな、なんて思いながら校内を軽く走って移動する。

「センパーイっ」

「ん、道香ちゃん。どうした?」

 玄関から出ると、ちょうど道香ちゃんと出くわした。しかもきらきらした目の。

 その様子はまるで大型犬のようで、見えないしっぽがぶんぶんと振られている幻視さえ見えそうだ。

「何かいいことでもあったのか?」

「はいっ、詳しく話を聞かせて欲しい、って人が居たんですっ」

「おおっ、マジか! その人は?」

 確かにビッグニュースだった。道香と一緒に、急いでその人の所に戻ると。

「こんにちは、鷲流くん」

「あれ、狼谷さん」

 そこに居たのは狼谷さんだった。昨日と表情は変わらないが、顔色はさらに良くなっているように見える。ちょっとでも元気になったんならよかった。

「狼谷さんが、詳しく話を聞きたいって?」

「はい、そうなんですっ!」

「そうだよな、狼谷さん計算機工学科だもんな」

 小さく、こくり、と頷く狼谷さん。どの分野が専門かはわからないけど、力には間違いなくなってくれるはずだ。

「よし、じゃあ善は急げだ。道香ちゃんも、部室に戻ろうっ」

「はいっ!」

 三人で涼しい風を切って、部室へと走る。

 音を立てて玄関を開け放つと。

「おかえりなさいませ、ご主人様ぁ~っ♡」

 いつもの小さいメイドさんが、でもいつもとは違う目に光が宿った状態で迎えてくれた。

 その……あえて言うなら、愛くるしい姿に脳内のコンピュータは一瞬にして別人だと推論して。

「すみません、間違えました」

 ばたん、ととりあえずドアを閉めた。

 ドアを閉めてから気付く。間違えたもへったくれもない、この建物は間違いなく僕たちコン部の部室棟だ。

「……メイド、さん?」

 狼谷さんも不思議そうにこちらを見ている。

「おかしいな、いつからここはメイド喫茶になったんだ?」

「も、もう一回開けてみましょうっ」

 道香ちゃんの言葉に頷いて、再び学生証をかざしてドアを開ける。

 そこには、鈍い光を放つ、どこから持ってきたかわからない金属バットを握りしめたメイドさんが立っていた。

「お前を殺して、アタシも死ぬぅーっ!」

「おわあああああ、馬鹿馬鹿、やめろ砂橋さん! それはメイドさんのすることではないし今はお客さんがどぅおわあああああああーっ!」

 振り降ろされる鈍器を間一髪で避ける。でも既に砂橋さんはハイライトの消えた目で二撃目を狙っており。

 避けようとした瞬間、騒ぎを聞きつけてか蒼が会議室のドアを開けた。そのまま瞬時に冷ややかな目線を浴びせてくる。

「何やってんのよ、馬鹿二人して」

「待ってくれ、僕は今回ただの被害者でだな」

 冷たい目線は玄関のドアへと移ると、何かに驚いたような表情で固まった。

「って、その子……」

「とにかく助かったぞ蒼、お客さんも居るし、とりあえず会議室に入ろう」

 蒼は数秒間複雑そうに考えた後、首を縦に振った。

「……そうね。そうしましょう」

 錯乱する砂橋さんをなだめてパイプ椅子に座らせ、あの惨劇未遂の数分後には会議室に五人が揃った。

「それで、話は何かしら? 電工研のPEさん?」

「はえっ?」

 そして、切り出した蒼の一言は思わぬものだった。

 狼谷さんが、電工研のPE?

 でも、それを聞いた狼谷さんは静かに横に首を振った。

「いや、違う。もう私は電工研のPEじゃない」

「それ、どういうこと?」

 砂橋さんと蒼がきょとん、とする。証拠を見せるように、狼谷さんは鞄から一枚の紙を取り出した。

「退部届、電工研の……しかも代筆、どういうこと?」

「追放された」

 つまりは、昨日追い出された、と言っていたのは微細電子工学研究会、電工研だったということだ。

 蒼はそれを聞いて、信じられないという表情で続ける。

「どうしてっ、狼谷さんって言ったら電工研のプロセス部門の開発主任だったじゃない!」

「そ、そうなのか?」

「そ、電工研の去年の躍進を担った立役者の一人だよ。でも、どうして……」

「原因は、ここ」

「えっ?」

 今度は、全員が固まった。ここ、ということは……コン部が原因?

 とはいえ、僕に思い当たる節はないからここ数日の出来事が原因ではない。ということは、つまり。

「コン部から、プロセスの技術者が大量に流入した」

「何だか読めた気がするわ。詳しく話を聞かせてもらえる? 狼谷さん」

 狼谷さんはこくり、と頷くと、ゆっくりと話し始めた。

「コン部の魔の八月以降、一気にエンジニアが流入してきた」

「あんまり言いたくないんだけど……ある大きな失敗のあと、ここの退部者は多くが電工研に行っちゃったのよ」

 魔の八月、と呼ばれている大失敗がこの部活にあったのはわかった。

 でも蒼と砂橋さんの表情を見ていると今詳しく聞く気にもなれない。とりあえず、全てが終わってからどこかの機会で聞くことにしよう。

「他のチームは、二大チーム制にしてなんとか収まった。でも、シリコンを扱う製造技術部門は製造装置が一ラインしか無いから、そうは行かない。それで、コン部から来たプロセスチームとわたしたちでコンペになった」

 コンペ。つまりは、性能など何かの観点で優れている方を採用するということだ。

 部活としてはやはり優れた方を使いたい訳で、コンペが行われること自体は不思議じゃない、と思う。

「んんー……まあ、仕方ない事だね。優れた方の技術を使うのが部のためだし」

「結果、わたしたちのチームが勝った。でも、何故か納得しなかった」

「……まだ、懲りてないのね」

 蒼が苦虫を噛み潰したような渋い顔になる。その電工研に移籍した製造技術チームもどうやら訳ありらしい。

「それで、ありもしない疑惑を負わされた。製造装置に細工をしているとか、データが虚偽だとか、言いがかりレベルのひどいものを。反論しても、当然応じなかった」

「うわぁー……」

「製造装置に細工をして、プロセスが良くなるなるならそれはそれでいいのでは?」

「おっ、正論だねえ」

「それに、私のチームのエンジニアも向こうにどんどん引き抜かれた。残ったのが私だけになったところで、部長に取り入った元コン部の製造技術開発主任が何かを吹き込んだ、らしい」

「はぁー、何やってんのかしら」

「昨日、部室に行ったらこの紙が私のデスクの上に置いてあった。だから、もう私は電工研のPEじゃない」

 狼谷さんの声に涙が混じる。昨日狼谷さんが校舎の裏で泣いていた理由ははっきりした。

 だからこそ。

 蒼の方を見ると、目が合った。小さく頷くと、向こうも頷く。

「わかった、ありがとう狼谷さん。ごめんなさい、元仲間が迷惑を掛けたわ」

「ん、気にしないでいい。他のチームは上手くやってるから、きっと私が悪かった」

「そんなことないわっ」

「えっ……?」

 蒼が強い声を出す。でも、続く言葉は語気も弱く、目をそらして頬を掻きながらだった。

「いい? 狼谷さん。はっきり言って、向こうの開発チームの作るプロセッサの構造はそんなに凄い訳ではなかったわ。物理設計に関しても結凪の方がよっぽど優秀よ。でも、実際チップで勝負するときには……あの八月にもしウチが上手く行っていたとしても、その理論性能を超えていた。その差を埋めたのは、狼谷さん。あなたのチームが開発したプロセス技術よ」

「……っ」

「だから、もっと自信を持って頂戴。そんな風に言われたら、何だか癪よ」

「あり、がとう?」

「ったく、素直じゃないなぁ蒼は。そんなに狼谷さんのこと買ってるんだったらもっと素直に力になって欲しい、って言えばいいのに」

「う、うるさいわね結凪っ。わかった、何があったかも十分承知したわ。私たちは狼谷さん、あなたがコン部に来てくれることを歓迎する。一緒に、アイツらをぎゃふんと言わせてやりましょう」

「……うん、よろしく」

 立ち上がった蒼と狼谷さんが握手を交わす。その間に、会議室の棚に移された入部届とNDA書類を取り出して、狼谷さんの前に置いた。

「そういえば、電工研のNDAの方は大丈夫なの?」

「ん、問題なかった。退部と同時に破棄、その後の規定もなし」

「電工研も意外と適当ね……」

 そんな事務周りの話をしながらサインを終える狼谷さん。ふと、目が合った。

「よろしくね、狼谷さん」

「よろしく。鷲流くん」

 そしてついに部員は五人、コン部は部としての成立条件を満たすことに成功したことになる。勢いよく入部届を握りしめると、蒼は席を立った。

「よし、とりあえず学事に書類を出してくるわ。ちょっと待ってて貰える?」

「あ、アタシも行く。ついでに予算も確認しておこっか」

「そうね、開発の前に幾ら使えるのかの確認は重要ね。ってわけで、ちょっと待ってて。遅くなりそうならWINEするわ」

「わかりましたっ」

「吉報を待ってるよ」

「任せなさいっ」

 勢いよく駆けだしていく蒼と、とりあえず付いていく感じの砂橋さん。みるみる間に蒼からは離されていくあたり、やっぱり遅いよなあ。

「あっ」

 そんな姿を微笑ましく見送ってる中、道香ちゃんが声を上げた。何かあったんだろうか?

「どうした?」

「砂橋先輩、メイド服のまま行っちゃいましたね……」

 全く違和感が無くなっていたから気付かなかったけど、言われてみればその通りだ。視界の端へと消えていく砂橋さんの格好は見慣れたメイド服のまま。

 それを見て、狼谷さんがぽつりと言葉を発する。

「……コスプレ?」

「ああ、紛うことなきコスプレだな」

 僕は、その四文字を否定するための状況証拠を持ち合わせていなかった。

 数分後、校舎に辿り着く前に気付いた砂橋さんが真っ赤な顔をして帰ってきて、あわてて着替えて出て行ったのは言うまでもない。

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