0x01 「電子計算機技術部」

 ピピピッ、ピピピッ。

 ピピピッ、ピピピッ。

 無機質な電子音が静寂を破る。閉じられた瞼の向こうには光を感じた。

 その程度の不当な圧力に屈するものか。

 音をかき鳴らす騒音源を手探りで止め、再び眠りの世界へと逃亡を試みる。

「……、シュウっ!」

 しかし、その計画は何者かの声によってあっさりと破られた。

 シャーッ、という軽快な音とともに差し込む光が圧倒的に鋭さを増す。

「起きてってば!」

 次の瞬間、僕を守る最後の砦である布団を剥がれる。

 開いた窓からは冷気が流れ込んでおり、震えるような寒さで強制的に目が覚めた。

「うう、さっむ……おはよ、蒼。今日も元気だな」

 目を開けた先でむっつりと腕を組む、布団を剥いだ悪魔の名前は早瀬蒼はやせ あおい

 隣の家に住んでいる腐れ縁な幼馴染で、同じ学校に通う同級生だ。とある事情があるウチに、ほぼ毎朝面倒を見に来てくれている。

「今日も元気だなっ、じゃないでしょうが! 時計見て時計っ!」

 そんな蒼はご機嫌斜めに見える。言われた通りに時計を見ると七時四十五分。何をそんなに急ぐ必要があろうか? 春休みにしては早い起床なんだけど。

「なんだよ、まだ八時前じゃ――」

「今日は始業式! 間に合う汽車に乗れないでしょっ! ったく、あたしがシュウのお母さんに怒られちゃうじゃない」

 本気で呆れられた目を向けられ、ようやく思い出す。

 四月の八日……そういえば今日が始業式だった気もする。だとすれば、いつも通学に使う列車の時間を考えるとかなりまずい。

「げっ」

「下で待ってるから、早く制服着て降りてきて!」

 慌てて制服に袖を通し、部屋の片隅に放り投げてあった鞄を掴み取ると階段を駆け降りる。

 洗面台の冷水で顔だけ洗ってリビングに入ると、蒼がすぐにでも出られるように待機していた。

「鍵っ」

「ありがとよっ」

 トスされた鍵を受け取って、二人で玄関へと急ぐ。ここまでのラップタイムで起きてから五分。今日は上出来だ。

「よっと、じゃあ行くか」

「これなら間に合いそうね。走ればだけど」

 蒼のにやりとした笑顔を横目に玄関の戸に鍵を掛け、列車に間に合うべく駅まで二人で通学路を走る。

 全力で走り続けること約五分、僕たちは発車時刻直前になんとか駅へと辿り着いていた。

「はあ、はあ……なかなか、やるな……」

「なかなかやるなじゃ、ないわよ……バカシュウ……はあ、はあっ……」

「でも……これで、遅刻の……心配は、ないな……」

 ホームに駆けあがるとほぼ同時にやってきた、いつもの列車に揺られて十分弱。

 学校の最寄り駅を出てすぐ、道路を一本渡ればすぐに学校の敷地だ。

 僕たちの通う国立若松科学技術高等学校、通称若松科技高は東京ドーム換算が出来るほどの広い敷地を持つ。だから、学校の敷地と言っても校門にすぐ到着というわけにはいかない。

 同じ制服を着こんだ連中の流れに乗って、蒼と並んで通学路を歩く。

 うららかな春の日の朝日を浴びながら散歩を楽しんでいると、僕の耳に少し緊張したような蒼の声が届いた。

「ねえシュウ。今日の放課後……というか始業式の後暇よね?」

「ああ、特に用事は無いけど」

「ちょっと頼みたいことがあるんだけど、いい?」

 珍しいな、と思って隣を向いてみると、あまり見たことのない陰のある表情。

 その時点で、断るという選択肢はとりあえず頭の中から消えている。

「別にいいよ、んじゃあ昇降口でいいか?」

 なんとなく思い浮かんだ場所を集合場所に指定すると、蒼も頷く。

 ようやく笑顔になった蒼だけど、普段とどこか違うのは長年の付き合いですぐに判った。

「おっけー。普通科も昼前で終わりよね?」

「今日始業式だったことすら忘れてたのに、終了時刻を僕が覚えてると思う?」

 だから、肩をすくめて道化に徹することにする。

 そんな僕を見て、蒼は今度こそ影のない苦笑いを見せた。実際、始業式ならどうせお昼ぐらいには終わるだろ、というくらいの解像度でしか覚えてなかったし。

「胸張って言う事じゃないわ、それ……まあいいわ、じゃあ終わったら昇降口ね」

 普段とは少し違う会話をしている間に、僕たちの前にはようやく校門が見えてくる。

 校門をくぐってから少しづつ花が開きつつある桜の並木道をしばし歩くと、こちらも馬鹿がつくほど大きな本校舎にようやく辿り着いた。

 入り口の掲示板には人だかりができている。蒼と一緒にその人だかりに飛び込むと、張り出された大きな紙に目をやった。

「そっか、シュウの方はクラス分けがあるんだものね」

 その紙は、新学期のクラスを決めるクラス分けの掲示。手早く自分の名前を探す。

「そうそう、別の教室に入って恥ずかしい思いはしたくないし。今年は二組、か」

 二組、と書かれた場所に自分の名前を見つけてしまえば、わざわざ長い時間人ごみの中に居る必要もない。とっとと掲示板の前を後にした。

 一方の蒼は、そんな僕の様子を苦笑いしながら見ている。こいつがクラス分けを気にしなくていいのは、同じ若松科技高でも学科が違うからだ。僕は普通科で、蒼は計算機工学科。さらに細かい専攻を何か言っていた気もするが、そこまで覚えていない。

 人数がそもそも少ない計算機工学科では、クラス分けは固定なんだという。

 時計を見ると始業五分前、そろそろ教室に向かった方がいいな。一年でだいぶ通いなれた校舎に入ると二人で階段を上り、今までとは違う二階で立ち止まる。

「うし、それじゃ放課後な」

「ん、またね」

 蒼と別れると、新しい教室へ。

 そう、今日から二年生だ。名簿をゆっくり見てなかったから、クラスに誰が居るのかはちゃんと把握していない。

 何か新しい出会いがないかと期待に胸を膨らませながら教室に入ると。

「よーうシュウ、昨晩はよくもお上品なプレチ武器でメタメタにしてくれたな」

 聞きなれたアホな声と見慣れたかわいらしい姿、そして適当に着崩された男子制服が目に入り、一気にその期待ははじけ飛んだ。

 大きなため息を付きながら自分の席に荷物を放ると、はじけ飛んだ期待の無念を晴らすべく爽やかな笑顔を向けてやることにする。

「よう、お前のエイムがガバガバなのが悪いんだろ。ちゃんと画面見てプレイしてんのか?」

「うぐ、てめえ言ってはならんことを……! 今晩こそ怒りの一〇〇先で『理解らせて』やるから覚悟しとけよ」

「他の奴もランダムで入るFPSで一〇〇先とか自殺か? 格ゲーだけにしとけよ……ともかく今年も同じクラスみたいだし、よろしくな悠」

「おうよ」

 こいつもご近所付き合いからの腐れ縁、柳洞悠りゅうどう ゆう。うちの道路を挟んだ向かいの家に住む廃人で、ちっこくて一つ間違わなくても女の子に見える小奇麗な見た目をしているのが特徴。

 男に告白された経験が何度もあるといういわくつきの顔立ちを、目の下に出来た酷い隈が今日も台無しにしている。

 生産性のかけらもない発言を投げつけ合っていると、もう一人の変人も雑草すら生えそうにない不毛な会話に釣られてやってきた。

「ん、弘治も同じクラスか。今年もよろしくな」

「んげ、お前もかよ……去年となんの代わり映えもしねえな」

「いいじゃんいいじゃん、気楽でさ」

「それもそうだけどさあ」

「それはそうと、一〇〇先やるなら俺も混ぜろ」

「時間が一.五倍になるんだが? ともあれ、よろしくな宏」

「おうよ、こっちこそ」

 この眼鏡を掛けたひょろい男は杉島宏すぎしま ひろ。計算機工学科に居るわけでもないのにパソコンにやけに詳しい、いわゆるオタクだ。その眼鏡の奥では今日も元気に瞳が濁っている。

 残念なことに悠と僕とはどこか波長が合うところがあり、去年のクラスで出会ってから仲良くしている友人だ。

 今朝遅刻寸前になった主な原因は、このバカどもとの不毛なゲーム勝負に日付が変わってからも数時間興じていたこと。その証拠に、二人とも会話が途切れた瞬間寝落ちしそうな目をしている。

「ってかお前ら、もう学校にいたのか。てっきり同じのに乗ってるかと思った」

 むしろ悠と宏は寝坊した挙句遅刻してくるところまで読んでいたんだけど、残念ながら二人とも登校を果たしている。奇跡だろうか。

 懐疑の視線を向けると、悠は生気のない目で自慢げに笑う。

「ふ、甘いぜシュウ。徹夜したらな、起きる必要がないから一本早いのに乗れるんだよ」

「なるほど、馬鹿なんだな?」

 ただの徹夜だった。どうりで普段以上に目の下のクマが酷いわけだ。

「オレもだぜ、途中から悠と一緒に来たんだ」

 コイツも同じときた。普段からこいつらはボケてる奴らだけど、どうやら今日は寝ボケてもいるようで手に負えん。

 もし思考を読む機械があったとしても、きっと今のこいつらからは「眠い」以外の思考を読み取ることはできないだろう。

「お前もかよ、もうツッコミきれんわ」

 悠がさらに悠が口を開こうとした瞬間、始業を告げるチャイムが鳴り響く。ツッコミ地獄からの解放を告げる祝福の鐘だ。

「げっ、始業か」

「ほれ、席に戻っとけ。学期初めから怒られたくなかったらな」

「はーあ、しゃーないな」

「席につけー、ホームルーム始めるぞー」

 さらに担任の先生も入ってきて、強制的に朝の会話は打ち切りとなった。

 まるでブラックホールに吸い込まれたかの如く時間の流れが遅かった始業式とホームルームが、ようやく鳴ってくれた八回目のチャイムで終わりを告げた。

 隣で死体と化している悠を尻目に、席を立って軽い鞄を取る。鞄が軽いのは、もちろん机の中に全ての教科書を格納しているからだ。

「弘治ー、一緒に帰ろうぜ」

「悪い宏、今日はちょっと用事があってな」

 ふらふらとやってきた宏に声をかけられる。こいつもホームルーム中に十分な睡眠を取ったようで、朝よりよっぽど目に光が戻ってるな。

 だが残念、今日は先約があるのだ。

 その先約である蒼との待ち合わせに向かうかと席を立ったところで、今度は別のクラスメイトに声を掛けられた。

「おーい鷲流くん、お客が来てるよ」

「やっほー、早く終わったから来ちゃった」

 声の方を見ると、入口の扉のところで蒼が小さく手を振っている。早くホームルームが終わったのか、どうやら迎えに来てくれたらしい。

 それ自体はありがたいことなんだけど。

 曲がりなりにも女の子が迎えに来ているという状況、早速クラスメイト男子どもの視線が突き刺さって痛い。主にクラスでの将来を案じる僕の心が。

「ほう……」

 宏が意味ありげに感嘆のため息を付いたのも誤解に一役買っている。お前は敵なのか?

「おーっとシュウ、お前にも春が来たみてえだな? 早くデートに行って来いよ」

 さらに、いつの間にかリスポーンした悠が的確に爆弾を投げ込んできた。こいつは間違いなく敵だ。縛り上げて吊るして置くしかないのだろうか?

 僕と蒼の間に、そんなことなどあるわけがない。困ってる時に助けてくれた、お世話になったお隣さんというだけだ。

「この馬鹿をどうやって拷問したら一番キツいか、やはり水責めか……?」

「なんだよ、いきなりハードなプレイをご所望? ちょっと俺そこまでは目覚められてないって言うか……」

 だけど、火種を消そうとした言葉を曲解されたせいで、教室の空気は目まぐるしく変動し始めてしまった。

 ん? 待て? そういう方向に話が進もうとしてないか?

「ったく、弘治が手を出したのは悠だけじゃなかったのか」

 宏の致命的な一言で教室の空気は固定された。

 残念ながら悠が男であることは既に今日のホームルームで開示済み。制服も男なんだけどな。

「おい、アイツ正気か……?」

「待て、いや、柳洞ならアリかもしれん」

「お前マジかよ……」

「だって考えても見ろ……あの見てくれで、男なんだぜ?」

「落ち着け、男であることはメリットじゃないぞ」

 クラスの男どもの視線はあっという間に逸らされると同時に、一部からは倒錯した会話が漏れ聞こえてくる。

 更には一部の女子が嬉しくない熱視線を送っていたのは見なかったことにしておこう。

「手を出すって、お前、んなわけ無いだろ!」

 必死にかき消そうとしてもこちらに飛んでくる視線は痛く、時既に遅し。爛れて凍り付いた空気を感じてか、宏は笑顔で肩を叩いて言った。

「ドンマイ」

「ドンマイじゃねえ! どうしてくれんだこの空気!」

 早速、今年も平穏な学生生活は破壊されたと言っても過言では無い。

「お前ら、頼むからバカは休み休み言ってくれ……ったく、じゃあな」

「おうよ、また今夜」

「待ってるぜ」

 無理やり会話を打ち切って席を立つと、流石に悠も宏も深追いはしてこなかった。

 こういう絶妙なラインで手を引いてくれるところが、こいつらと友達を続けられている理由なのかもしれない。……いや、言うほど手を引いてたか? そもそも火を放ってきたのは奴らじゃないか?

「待たせて悪かったな蒼、行こうぜ」

 ともかく、二人の悪友のお陰で完全にバグってしまった教室の空気を必死に無視して、蒼と合流して教室を出た。早速、明日の朝教室に入るのが怖いなぁ!

「うん。ところでシュウ……あんた、いくらかわいいからって悠は男の子――」

「違うわっ!」

 最後まで言い切る前に否定。蒼はにやにや笑っているし、単にイジっているだけだろう。

 掘り返されてもただただ面倒なだけだし、話をずらすべく今日の要件を聞いてみることにした。

「それはそうと、今日の用事ってのはなんだ?」

「ちょっと、ね。……今は、そのままついてきてくれると嬉しいわ」

 今日の用事を口にした瞬間、その表情はあっという間に曇る。夏の夕方の天気のような速さで変わった蒼の表情に、疑問符と……小さな予感を覚えながら、広い校内をゆっくり歩く。

 蒼は校門へと続く大きい道を途中で曲がると、少なくとも普通科の学生はあまり来ない、見慣れない場所へと進んでいった。

 そう、普通科の学生は見慣れない場所、だ。

 嫌な予感を覚えはするけど、それが当たらないように祈りながら、歩みを進める。

 数分歩いたのち、蒼は研究所のような大きな建物の前で足を止めた。

 祈りは、通じなかった。

「電子計算機技術部、部室――」

 その看板には、出来るだけ見たくなかった文字列が並んでいる。

 頼む。そこから先は言わないでくれ。

 でも、無情にも彼女の口から紡がれた言葉も、考えていた最悪のシナリオと一致した。

「そ、私の部活。ねえシュウ、私と一緒に、部活しない?」

「……どうしたんだ? 蒼の部活には入らない、って言ったよな?」

 思考が止まる。ちょっと悲痛な声になってしまったけど、なんとか喉から絞り出した。

 なんだかやけに喉が乾く。詳しくは知らないけど、ここは「そういう」場所だ。

 僕の事情を知ってなおここへと誘った蒼は、申し訳なさそうな表情を浮かべて俯く。

「私の方にもね、事情があって……聞いて、くれる?」

 いつも元気な蒼が小さくなっている姿を見ると、無下に断ることも出来なくて。

 苦虫を噛み潰すように奥歯に力を入れて、小さく首を縦に振る。

「ありがと。外だとちょっとしにくい話だから、とりあえず入ってちょうだい」

 普段の何分の一かわからないくらい元気のない蒼に付いていくように、卒業まで入ることが無いと思っていた建物へと足を踏み入れた。

 その先は、まるで死んでしまっているかのように真っ暗。灯りはほぼ灯っておらず、人が使っている気配もあまり感じられない。

 短い廊下の突き当りにはもう一枚のドアがある。だけどその奥に進むことはなく、蒼は玄関に入ってすぐの会議室Aと書かれた部屋に入った。

 見た目は普通の会議室だったけれど、よくよく見るとその机は薄く埃を被っている。しばらく使われていないようだ。

「適当に座ってて。飲み物持ってくるけど、お茶でいいかしら?」

「ん、いいよ」

「りょーかい」

 ぱたん、という軽いドアの音と共に部屋を出ていく蒼。その元気の無さは、この部屋に入ってからさらに酷くなった気がする。

 だけど、深く考えを巡らす間もなく蒼は戻ってきてしまった。その手に抱えられていた紙パックのお茶を置くと、向かいの椅子に腰を下ろす。

「はい、お茶。……さて、ようこそ電子計算機技術部の部室へ」

 明らかに空元気だとわかる笑顔で、芝居がかってまで明るく話そうとする蒼。

 その姿があまりにも痛々しくて見ていられなくなって。頭痛がしそうな感情の動きを抑えながら、逆に切り込むことにした。

「何かあったのか?」

「うん、ちょっとね」

「ちょっとね、じゃ何もわからない。僕を勧誘したいんだろ? それなら、隠し事なく話してほしい」

 もうここまできて、変に気を遣わせたくはない。

 抱えている古傷は、蒼も間違いなく知っている。

 それでもここに連れてきたということは、それを差し引いても何とかしなきゃいけない事情があったということなのだろうから。

「そっか……ごめんね、気をつかわなきゃいけないのは私の方なのに」

「ここまで来た時点で、少なくとも話は聞くつもりだったからな」

「わかった。まずね、この電子計算機技術部は、このままだと部活動の要件を満たせず廃部になるわ」

 紡がれたのは、驚きの言葉だった。だって――

「嘘だろ? 電子計算機技術部って、電工研と双肩を成す大所帯だったじゃないか」

 そう、適当に学校に通っていた僕だって知っている。

 彼女が所属する電子計算機技術部はうちの学校の二大看板の一つと言っても過言ではない、大きな部活だったはずだ。

 それが、廃部?

「うん、まあそうなんだけど……とりあえず、基本的なことから説明するわね」

「頼む」

「まずね、『電子計算機技術部』、通称『コン部』について。シュウ、電子計算機、って言うと何を思い浮かべる?」

「そりゃ、電卓だろ」

 電子の、計算機。どこにでもある電卓を連想させる言葉なのは間違いない。

 それを聞いて、無理やり……という感じでにこりと笑う蒼。

「それも正解よ、電卓って電子式卓上計算機の略だし。でも、『電子計算機』って言葉の概念はもっと広いわ。今はこれ、半導体を使った計算装置を作っている部活なの」

 そう言うと、蒼は小さなプラスチックの立方体を棚から取り出した。中には、緑の薄い板の上に少し厚い金属の板が乗ったようなものが封じられている。

「これが、今私たちの作っている電子計算機。『CPU』、パソコンの頭脳、とかって一般的に言われる部品ね」

 そう、そこに封じられていたのはCPU、コンピューターの中央処理装置というもの。中学の技術の教科書で見た気はするが、近くで改めて見るのは初めてだった。

「これも電子計算機なのか、確かに電気を使って計算するけど……」

 電子計算機なんて堅苦しい言い方をすると、どうしても電卓みたいなものが浮かんできてしまう。でも確かにパソコンだって電卓としても使えるし、広義の計算機か。

 そんな考えを察してか、少し寂しそうにしながら蒼は笑った。

「でしょ? 機械的に動く部品を持たず、電気を使って計算するもの。これが電子計算機の定義で、いわゆるコンピューターの中の『チップ』って言えば、話題に上がる大半は何らかの電子計算機の機能を持つわ」

 それから、蒼は俯いたままゆっくりと話し出す。

「まずは私たちがなんでこんなことをやってるか、ってところから話すわね。シュウは『ジャクラ』って聞いたことある?」

「ああ、ニュースでは何回か。でも詳しくは知らない」

「普通はそうよね……ジャクラは正式には『日本計算機研究開発機構』っていう名前で、その電子計算機全般の研究と開発を国策として行う組織なの。Japan Computer Reserch and develop Agencyの頭文字を拾って、じぇーしーあーるえー、ジャクラ」

「国の機関なのか」

「その通り、国策でコンピューターの開発と研究を行う組織よ。ほら、宇宙開発でJAXAって聞いたことあるでしょ?」

「そりゃさすがにな。宇宙開発をやってる組織だろ?」

「そうよ、それのコンピューター版だと思ってもらえれば間違いないわ」

蒼らしいきちっと整った字で、ホワイトボードにJCRA、と書かれる。

そういう組織があることはなんとなく知っていたけど、具体的なことは知らなかったな。

「今はパソコンもスマホもほぼ全部外国で作った半導体が使われているんだけど、昔は日本で作った半導体を使ったものが一世を風靡した時代があったの」

「へえ、そんな時代があったのか」

「日本で作っている半導体の『集積回路』、ICのことを産業のコメなんて呼んで、日本の会社が主導した『NEMCーPC98』とか『MSE』が一世を風靡したの。でも、一時期を境に海外のチップに負けて市場から追い出されちゃった」

「そんな歴史があったんだ、知らなかった」

 今はこの国のコンピュータ産業、特にモノづくりに関して下火だということは、ニュースとかで扱われていたからなんとなく知っていた。テレビやネットニュースをぼーっと見ていれば、嫌でも耳に入ってくる話。

 でも、僕たちが生まれる前にはそんなに輝かしい時代を経ていたことは初耳だった。

「で、このままではいけない、ということで国と主要な国内半導体メーカーが立ち上がって作ったのがJCRA、ってわけ。その使命は半導体技術の継承と技術開発、そしてそれを基にした半導体メーカーの支援」

「世界を相手に戦うための技術開発、か。でも、それがこの部活とどう関係あるんだ?」

「甘いわ、この部活だけじゃないの。学校の名前、科学技術高等学校ってあるでしょ? 科学技術、ってのは隠れ蓑で、実際はJCRAがかなりの割合でお金を出して建ててるのよ。同じような学校が全国に両手で数えるくらいあるわ」

「そんなに力を入れてるのか。コンピューターの研究をする組織なんだろ、JCRAは?」

「新しい技術を生み出したり、作ったりするには若いうちから触れて、作るのが重要だ! っていうのが建前よ」

「建前、ってことは、本音もあるんだな?」

「そうよ。電子計算機、CPUに関して勉強していくと、実際に電子計算機の基本になる『半導体』を作らないとわからないことが一杯あるの」

 小さく頷いて見せると、蒼は今まで見たことないくらいに渋い顔で続けた。

「だけど、その半導体を作るにはもの凄いお金が掛かるわ。だから、JCRAが場所から作って部活という体で勉強を出来るように支援したい、ってのが本音。半導体を作るのに必要な機械、最新技術のもの一つを新品で買うと幾らするか知ってる?」

「さあ、一億とか?」

「残念、例えば最新の『EUV』、極端紫外線を使った露光装置、って機械は、新品で買うと一台で二百億円って言われてる。そんなものを学校で買えるわけないでしょ?」

「い、一台で二百億か……」

 とんでもない額に目がくらむ。いまいちピンときていないのを察してか、んー、と少し考えるような表情を浮かべてから蒼は例を出してくれた。

「二百億って言うと、そうね……チェーンの牛丼屋さんで牛丼を五千万杯以上食べられるわね」

 もはやその例えの数が多すぎて意味不明だ。牛丼を五千万杯食べれる金額というと想像がつかないけど、逆に言えばそれくらい莫大な金額ということ。例えては貰ったけど、小市民の僕にはやっぱり想像もつかない。

「しかもその機械だけで半導体の『チップ』を作れる訳じゃないわ。そんな高い機械を使わなくても、必要な機械を全部揃えたら数千億円から数兆円規模よ。そんなものを新品で全部揃えて実際の半導体を作るのはあまりにも現実的じゃないでしょう?」

「ああ、間違いない」

「だからこそ、JCRAが支援してるのよ。もちろん新品なんて揃えるのは不可能だから、型落ちで廃棄になるものを大手半導体メーカーから安く買い取って使ってる。さっき言った、日本の半導体メーカーは凋落しちゃった、って言ったでしょ?」

 うん、と頷いて見せる。ここはさっき聞いた話だ。

「だけど、半導体を作る機械に関してはそうじゃない。さっき言った露光装置もその一つだけど、半導体を作る製造装置とか、材料とかの分野ではまだまだ日本メーカーが第一線で戦ってるのよ」

「へえ、そうなのか」

 だけど、蒼が語ったのはさらに初耳の情報。日本の半導体絡みの産業は全部まとめて下火だと勝手に思い込んでいたけれど、過去の栄光に縋らず頑張っているところも多いらしい。

「そのメーカーへの間接的な支援と……言い方はあんまり良くないけど囲い込みも兼ねて、中古で買ったものを整備して格安で卸してるのよ。だからここの部室には半導体製造装置やクリーンルームもある」

「なるほどなあ……でも、そんな金が掛かることを学生がやる必要はあるのか?」

 ここまで聞いた内容を思うと、どうしてもそう思ってしまう。そんなお金が掛かることを、わざわざ学校でやる必要はあるんだろうか。

 そんな質問に、蒼はため息をつきながら答えてくれた。

「さっき言った建前ももちろん本当、ローマは一日にして成らず、って言う通りよ。特に電子計算機なんて中の設計はもちろん、材料や加工まで幅広く専門的な知識を必要とするの。だから実際に作るための道具が一式揃ってることは間違いなく重要よ。でももう一つ、大きなJCRAの本音がある」

「それは何だ?」

「私たちは、JCRAを含めて「失敗するため」って言ってる」

「失敗するため?」

「そう。企業は、それこそ数兆円近いお金を使って半導体の開発をするの。そんな中で失敗すると、確かに大きい会社は生き残れるかもしれないけど、普通の会社なら一発で潰れかねないわ。だから、学生のうちに失敗してもらって、そこから技術を学んで欲しい。それが理由」

 その理由は、なんとなく理解できた。

 大人の世界では、特に莫大なお金が絡む半導体に絡むことで失敗から学ぶことは難しい。だから、学生の間に失敗しながらでもいいから最新の技術にに追いつけるような人を育てたい。そんな思いがあるんだろう。

「つまり、その使命の通り『半導体技術の継承と技術開発』ってわけか」

「そ。もちろん大きな企業が使う最新技術から見たら車輪の再発明かもしれない、でも、車輪の再発明をしないとなかなか解らない細かい技術も沢山ある。だから、学生のうちに一杯失敗して、そこから勉強してほしいってこと」

「その失敗する場所がここ、って訳か。でも、ウチには電工研もあるよな?」

 多分この話にも絡んでくるだろう名前を出す。微細電子工学研究会、通称電工研という同じような事をしている部活がこの学校にはある。

 その名前を出すと、蒼の表情がさらに曇った。まずかったか?

 でもどうやら地雷を起爆させたわけではなかったようで、その表情のまま説明を続けてくれた。

「あー、そうね……電工研、『微細電子工学研究会』もウチとやってることはほぼ同じで、同じように半導体を作ってる部活よ。一番大きい開発チームはウチと同じ、プロセッサー……CPUを作るとこだから、完全に同業他社ね」

「やっぱそうなんだな」

「さっきも言った通り、ここはJCRA直営の学校よ。そこに二つの同じような部活を作らせた、どうしてかわかる?」

 二つの同じような存在がある理由。それは――

「競い合うため、か?」

 すぐに思いつく理由は、これしかない。

 二つの組織が近くで競い合うことで、お互いに技術の向上を図る、とかそういう感じ。端的に言えばライバルを確保するためだ。

「そう、競い合ってお互いに大きな成果を出すため。正解よ」

 正解という割には、蒼の表情は優れない。つまりは、ここが原因なのだろう。

「だけど、コン部は去年大きな失敗をしちゃって……三年生の先輩はそのまま卒業しちゃったし、他の先輩たちや同じ学年の子たちは軒並みやめちゃった」

 どんどん悲しげに、声が小さくなっていく蒼。

 その姿が見ていられなくて、小さく呟いた。

「それで、この状態ってわけか……」

 改めて耳をすましても、機械の音はほとんど聞こえて来なくて静かなものだ。こんなところで何かを作っているとは、はっきり言ってとても思えない。

「立ち上げに時間が凄い必要なクリーンルームと機械だけはなんとか電源を落とさないようにしてもらってるけど、ただそれだけ。稼働はゼロよ。だって、ここにはもう二人しか残っていないんだもの」

「なるほど、なあ……」

「だから、部活として存続できないのであればもうライバルとしての価値もない、んだって」

 確かに、片方がそんな状況なら吸収させてしまった方が効率的、なのかもしれない。ライバルだって、同じような学校が沢山ある今なら外部に求められるだろうし。

「春休み中とかも頑張ってみたけど、もうあと期限まで一週間とちょっとしかないの。だから……」

 状況は痛いほど理解した。

 でも、僕も簡単に「じゃあ、手伝うよ」とは言うことのできない理由がある。

 胸が締め付けられるように苦しいのは、蒼の表情だけが理由じゃない。

 いくら蒼の頼みでも、それだけはやめておけと大声で叫び続けている自分が心の奥底に居たからだ。

「……ちょっと、待ってくれないか。考えさせてほしい」

 だから、この答えが最大の譲歩。

 そんな情けない答えを聞いても、蒼はさっきの、でもやっぱり少しだけ元気のない笑顔を浮かべて言ってくれた。

「わかった、ここまで話を聞いてくれただけでも嬉しい。ありがとう、シュウ」

「とりあえず今日は帰って、ゆっくり考えてみるよ」

「うん、わかった。本当に、本当に……ありがとう」

 弱々しく頷く蒼に、こうなってしまった理由を思い出していた。

 どうして蒼がいるこの部活に最初から入らなかったのか。

 それは親父が半導体の技術者、エンジニアだったから。

 そして、その親父はいつも会社にいるか出張に出ていたというぼんやりとした記憶。

 ――それは、母さんが居なくなった時だって。

 そのせいでコンピューターに対する感情が黒く澱んでいて、自分の中でうまく整理できていないからだった。

「電子計算機技術部、か……」

 部室に残っていくという蒼と別れ、一人で家へと帰る間。

 頭上に広がる青い空を眺めながら、ぼんやりと考えを巡らせる。

 未だに、どうしたいのかがはっきり判らない。いや、考えようともしていなかったのだ、そのことに気が付かないくらいに。

 蒼と部活が出来るなら、それは間違いなく楽しいだろう。

 でも、親父が帰ってこなくなった原因だと思ってしまうと、やっぱり胸の中に深く突き刺さった小骨は取れない。

 そんな状態で何かに臨んでも上手くいかないだろう。

「はあ……」

 思わず大きなため息が口からこぼれた。

「母さんが居たら、何ていうかな」

 もし母さんが居たら、やってみなさいと言うんだろうか。その答えは、もう一生得られることはない。

 そう、我が家は母さんを早くに病気で亡くしていた。これが、蒼が毎朝気を遣って我が家を見に来てくれている理由。

「親父、か」

 ぼんやりと思い出されるのは、まだまだ小さかったころにこの家を出て、単身アメリカに渡っていった時の姿。

 最後に会ったのは、最後の最後、出棺の直前ギリギリでやってきた母さんの告別式。

 終わった後すぐにアメリカに舞い戻ってからの数年は、毎月の仕送りだけが親父の生存を告げている。

 そんな記憶は、いつからかもやが掛かったように鮮明に思い出すことさえ出来ない。

「何やってんだろうな、僕も親父も」

 もう一度、大きな大きなため息が口から出た。

 結局この夜はぐるぐると思考だけが回り続けて、なんだかゲームをやる気にもなれず。

 悠と宏には断りのWINEだけ送って、そのまま眠りに落ちることにした。



「ねえ、どうしてお父さんは帰ってこないの?」

 白い病室、白い肌、冷たくなっていくその手。

 それは、悲しい記憶の一幕だった。

「それはね、お父さんはこの世界を照らす太陽のような……大事なものを、作っているからよ」

「こんな時なのにお見舞いにも来てくれないなら、太陽なんかじゃないっ! もう何年もお父さんと会ってないのにっ! お母さんは、寂しくないのっ!?」

「寂しくなんてないわ。だって、お父さんの技術が……いつか、みんなを繋ぐから」

 この時だけは、母さんが言っていることが理解できなくて。

「いつかじゃないもん、今必要なんだよっ!」

「ふふ、いつか、弘治にもわかる日がくるわ……」

「お母さん、お母さん!?」

「弘治、お父さんを……」

 ――跳ね起きた。

「はあっ、はあっ、はあっ……」

 動悸を抑えるように深呼吸しながら時計を見ると、まだ五時すぎ。普段通り学校に向かうならまだ二時間は寝ていられる時間だ。

「夢、か……」

 ひどく久しぶりに見た記憶のワンシーンは、苦しかった。かすんでぼやけたものではなく、ここまではっきりと思い出したのはいつぶりだろう。

 上半身は冷や汗でぐっしょりと濡れている。目じりにはいつの間にか涙が溜まっていた。

「昨日、あんなことがあったからかな……」

 間違いなく、昨日、半導体なんて両親のルーツに触れてしまったからだ。

 だけど、不思議と。

 苦い過去を見たのにも関わらず、昨晩まで渦巻いていた黒い感情は、その色を少しだけ薄くしていた。

 母さんが言っていた「わかる日」、というのは、あの部活で手に入るのだろうか?

「親父みたいにはならない、って思ったんだけどな……」

 昨日の蒼の表情。いつも元気な蒼のあんな表情を見ていると、いくらただのお隣さんとはいえやっぱりどうにか力になってあげたい気持ちはある。

 そして――

「親父がどうしてああなったか、分かるのかな?」

 これが、一番大きな理由。

 小さく呟いてみても、答えてくれる人はもう居ない。

 窓から差し込んでくる朝日は、昨日よりも少しだけ、僕を優しく照らしているように感じた。

 少し心の変化があったとはいえ、今日学校があるという事実は変わらない。ちょっとでも支度を進めておこう。

 まずはシャツを濡らした嫌な汗を流すため、シャワーを浴びることにした。

「はあ……さっぱりした」

 シャワーを浴びたら、水と一緒に沈んだ気持ちもちょっと流れた気がする。この後どうせ制服を着るし、パンツ一枚だけでも穿いてれば大丈夫だろう。

 そう思ってパンツ一丁で風呂場のドアを開け。

「あ、やっぱり起きてたん、だあっ!?」

 そこには、階段をちょうど降りてきている蒼がいた。

「おはよう蒼、悪いな。起こしに部屋に来てくれた後だったか」

 シャワーを浴びてる間に起こしに来てくれたんだろうな。

 あわてて目をそらす蒼に声を掛けて、すれ違うように自分の部屋へと階段を上る。

「はあ……上くらい着なさいよ」

「悪い悪い」

「起きてるなら、朝ごはん作っちゃうわね。着替えたらリビングに来て」

「わかった」

 適当に制服に着替え、軽い鞄を持ってリビングに戻る。湯気の立つ朝食の先には、蒼がどこか気まずそうに座っていた。

 机の上にはトーストにベーコンエッグ、コンソメスープにサラダ。どうやら今日は洋食の気分だったらしい。

「お、今日は洋食風か。ありがとな」

「う、うん……いただきます」

「いただきます」

 昨日よりかなり早いから、時間にはたっぷり余裕がある。

 だけど、爽やかなはずの朝食の場には、昨日のような阿吽の呼吸、どころか会話さえ無く。

 ただただ、お互いに居心地の悪い無言が漂っていた。

 さすがに朝からこの空気は嫌だ。その空気を打破するべく声を掛けてみる。

「別にそんな気にするもんでも無いだろ、裸なんて見せちまって悪かったな」

「ぶふっ……はあ、今更そんなこと気にするわけないじゃない」

 コーヒーを危うく吹き出しかけてから、呆れた顔を向けてくれる蒼。どうやら少なからず効果はあったみたいだ。

「でもパンツは穿いてただろ?」

「だから、そういうわけじゃないって……はぁ、本当に馬鹿らしくなってきたわ。ご馳走様」

「ごちそうさま、洗うのはやっとくからいいよ。シンクに置いといて」

「わかった、ありがと」

 ここまで来れば普段通りだ。心の中で胸を撫で下ろす。

 朝食が片付いたら、二人分の食器を洗って拭くと食器棚に戻していく。

 食器を片付けるがちゃがちゃという音の中、ソファーに座って沈んだ表情を浮かべていた蒼がぽつりと言った。

「昨日はごめんなさい。シュウの気持ちも考えないで連れていっちゃって」

 さっきまで気まずそうにしていた大きな原因は、それなんだろう。

 確かに、理由も無いなら少しくらいは気分を害していたかもしれない。だけど、今回は蒼にもちゃんとした理由があった。

 そんな蒼に対して、強く何かを言うつもりはない。

「それだけ必死だった、ってことだろ? 気にしないでくれよ」

「ん、ありがと」

 そんな他愛のない言葉で誤魔化す。綺麗になった食器を棚に戻し終わると、蒼の座るソファーへと向かった。

 リビングに佇んでいる、母さんも元気で親父も日本にいた……ここに引っ越してくる前から使っていた、L字型の三人用のソファー。

 あの時から、ずっとそこに座り続けているのは。

 立ち上がって、自分の足で歩き出せていないのは……もう僕だけなのかもしれない。

「それに、別に入らないなんて言ってないぞ?」

 ふと口から漏れた言葉は、偽らざる本心だった。

 僕にも、何かできるんだろうか。

 いや、何も出来なくてもいい。この袋小路から一歩、踏み出すきっかけになれば。

「えっ?」

 ぽかん、とした表情で素っ頓狂な声を上げる蒼。

 それがなんだかおかしくて、誤魔化すように笑った。

「この通り素人だぞ。いいのか?」

「……うん、もちろんっ。わからないなら、私が教えるわ」

「じゃあ、お試しってことで。まだ吹っ切れた訳じゃないけど……名前くらいなら貸すよ」

 今までの事を考えると、どうしても素直には言えない。まだ完全に吹っ切れた訳じゃない、というのも本当だ。

 それでも、それを聞いた蒼は、目に涙を浮かべながら僕の手を取った。

「ありがと、ありがとっ……もちろん、こちらこそ、よろしくぅっ……」

「泣くなよ、まったく……」

「ち、違うのっ、部活がちょっとでも残るかもしれないって思ったからでっ……」

 こんなことになるとは思っていなかったのは本当。

 でも、この機会を逃したら一生親父のことはわからない気がしたから。

 いまこそ、過去と訣別するためにも。勇気を出して踏み出してみるべきなんだろう。



 改めて学校へ向かう準備を整えてから、僕たちは二人で家を出る。

 ゆっくり歩いていっても、普段より一本早い列車にさえ余裕がある時間だ。

「今日はそれなりにいい時間だし、悠を起こしに行くか」

「まだ起きてるんじゃない? 寝てないだけで」

「それもそうだな」

 ぴんぽーん、と向かいの家のベルを鳴らす。一階が電気屋になっている悠の家だ。

 暫く待つと、ガチャリとインターホンが繋がる音。

「はーい、あら蒼ちゃんに弘治くん。ごめんねえ、まだ悠は起きてないみたいで」

 聞こえてきたのは悠のお母さんの声だった。残念ながら予想は外れ、奴はまだ夢の中らしい。今日こそ遅刻か?

「わかりました、では先に行ってると伝えてください」

「はいはい、ありがとうねえ。行ってらっしゃい」

「行ってきますっ」

 家の前を離れて、いつもの歩きなれた通学路を歩き出す。

 朝日が暖かく照らす通学路を、二人で並んで歩く穏やかな時間だ。

「で、部活は何をするんだ?」

「そうね、まずは部員集めよ。部活動として認められるのに最低五人は必要だから、それだけは集めないと」

 なんとなく疑問に思っていたことをぶつけてみると、返ってきた答えはとても分かりやすいものだった。

「まずは部員集め、か。心当たりはあるのか?」

「あったらシュウに頼まないわ。新入生が入ってくれれば一番いいんだけど……」

「難しいかぁ」

「正直わからない。でも、やるだけやらないと」

「だよなあ。チラシとかは?」

「あるわ。去年のものの日付を変えただけだけど」

「よっぽどじゃない限り十分だろ。計算機工学科は今年何人入るんだっけ?」

「全部の専攻を合わせて六十人強よ。毎年大体同じくらいだから」

 計算機工学科はそれしかいないのか。それなら確かにクラス替えも必要ないな。

「じゃあ、何人かでも入ってくれたら最高だな」

「今日はお昼から入学式で、その後にオリエンテーションがあるの。その中で部活紹介もあるから、頑張って告知するしか無いわね」

「だな。とりあえず学校に着いたら準備するか」

「そうね、副部長にも紹介しておかなきゃだし」

「そういや今の部員は二人って言ってたもんな」

 確かに、そんなことを昨日蒼は言っていた。すっかり抜け落ちていたけど、もう一人部員が居るんだったな。

「副部長ってことは、今は蒼が部長なのか?」

「そうよ。私が部長で、結凪が副部長」

「もう一人は結凪、って言うのか」

「そう、砂橋結凪すなはし ゆいな。んーとねえ……ま、面白い人よ」

 蒼がコメントに困った挙句、出てきたのはそんな言葉だった。人を形容するときに面白い人、っていうのはどうなんだろう。

「お前より?」

「私を面白い人って言うんなら、多分あの子を見たらひっくり返るわ」

「そんなにか……」

 そんな人が副部長って、大丈夫なのか? 若干の不安を抱きながら、普段より一本早い列車に乗りこんで学校に向かう。

「これに乗るとね、ある程度朝の部活もできるしいい感じなの」

「そういや部活がある時は、起こすだけ起こしてこれくらいの時間に出てってたもんな」

「そういうことよ」

 予定通り早い時間に学校に着くと、まずは部室に顔を出すことにした。

 部室のドアを開けると、昨日と同じように静かで埃っぽく、暗い空間が広がっている。

「ここの鍵は昨日見てたからわかると思うけど、学生証で開けることが出来るの。シュウにはまず入部書類書いてもらうわね、そしたらすぐ学生証を登録しちゃうから」

 そういって電気をつける蒼を追い、昨日も来た部室入ってすぐの会議室に入る。

 昨日と同じように座って待っていると、蒼は早速二枚の書類を持ってきた。

「これが入部届と、あとはこれが『秘密保持契約書』。両方読んで、オッケーなら学籍番号を書いてサインしてもらえる?」

「機密保持契約書?」

 なんだか大仰な名前だ。思わず気後れしてしまいそうになる。

「そ、ウチでは長いから英語のNon Disclosure Agreementの略、NDAって呼んでるわ。簡単に言うと、大会とか論文とか、そういう部としての合意が無い状態で、開発した全てのものを部外に漏らしてはいけません、という契約よ」

「なるほど、きっちりしてるんだな」

「何しろ競合が同じ所に居るからね」

「電工研、か」

「そ。ちなみに破ると内容証明郵便を送る事態にもなりかねないから、気を付けてね」

「お、おう」

「入部届の方は学校の書式よ、部活名は電子計算機技術部ね」

「はいよ、っと」

 蒼が電子計算機技術部、とホワイトボードに書いている間、貰った書類に一通り目を通す。機密保持契約書、NDAにも蒼が要約してくれたもの以上のことは書いていなかった。もちろん細かい定義とかで文量はあるが、内容は大したことないと思う。

「おはよー、あれ、お客さん?」

 ペンケースからボールペンを取り出してサインしていると、ふいに入り口の方から別の、軽やかな……女の子の声が聞こえてきた。

 そう、女子というよりも女の子の声。

「おはよう結凪。そう、なんと新入部員よ」

「へー。ほー?」

 入り口に目をやると、そこに居たのは声で受けた印象の通り小さな女の子。

 小学生ですと言われてもびっくりしないサイズだが、ウチの制服を着こんでいるからこの学校の生徒みたいだ。長い髪は腰まで届いていて、あまり丁寧に整えられているという印象は受けない。

 そんな彼女は興味深げにこっちをまじまじと見てから、蒼に言い放った。

「なーるほどね、そういうことですか」

「な、何よ」

「いえいえ、蒼さんも隅には置けませんなあ、って思っただけですわ」

「はぁ……違うわよ、あんたが思ってるようなのじゃないわ」

 呆れたようにため息をつく蒼をにやにやと笑い飛ばしながら、彼女はそのまま会議室へと入ってくる。近くに来ると、その小ささが改めてはっきりとわかるな。まるで小動物みたいだ、なんて言ったら怒られるか。

「アタシは計算機工学科二年の砂橋結凪。ここの副部長で、物理設計のPEやってるんだ。君は?」

 だが、自己紹介の後半で紡がれた単語ははっきり言って解読不可能だった。なんて?

「普通科二年の鷲流弘治です。よろしくお願いします」

 無難な挨拶を返したつもりだったんだけど、どうやら彼女のお気には召さなかったらしい。彼女は手をひらひらさせると、面倒くさそうに言った。

「かーっ、その「します」、ってのやめやめ。タメなんだし普通にしてよ、アタシのことはまあ砂橋とか、適当に呼んで。よろしくね、鷲流くん」

「わかった。よろしく、砂橋さん」

 右手を出してきたから、それに答えて握手。小さな手は、本当に小さな女の子みたいに温かかった。これも声に出したら怒られそうだから言わないけど。

 それに、どうやら堅苦しいのはお気に召さないらしい。気を使わなくて良いのであれば、こっちもそうさせてもらおう。

「うん、よろしい。ってことは蒼」

「そ、本格的に動くわよ。新入部員を何としてでも勝ち取って、今年も活動するんだから」

「いい心意気じゃん、任せた任せたっ。てことで、アタシは『EDAツール』と――」

「まあまあ待ちなさい結凪。これから一週間はそれどころじゃないわ、あんたも手伝うの」

 出て行こうとする砂橋さんの肩をがっしりと捕まえる蒼。砂橋さんは何というか、色々と自由な感じの人のようだ。

「え、アタシなんて使い物にならないって」

「使い物にならないとしても、ゼロじゃないだけマシよ」

「えーっと、書き終わったんだけど」

「ありがと、置いておいて頂戴。ってこら逃げようとしないの、まったく」

「ぐえっ、やっぱりやんないと駄目?」

「駄目よ、あんたもここからは追い出されたくないでしょう?」

「それはそうだけど……しゃーないなあ」

 パイプ椅子を開いてどっかりと座る砂橋さん。なんとなく蒼が言っていた「面白い人」というのが分かった気がするし、少なくとも悪い人では無さそうだ。

「こうやってアタシまで駆り出すってことは何か計画があるんだよね?」

「もっちろん、三分で考えた完璧な計画があるわ」

「一気に不安になることを胸張って言わないでくれ」

「チラシを撒いて、部活動説明会で話をして、放課後に勧誘する。完璧でしょう?」

「わーお、すっごいシンプルかつ初歩的。まあ、それぐらいしか今のアタシたちに出来ることもないか」

「そ。何事もまずは基礎からよ」

「それもそだね」

 僕も頷く。まずは何かしら動き始めないと、どうにもならないだろう。

 蒼は満足げにひとつのクリアファイルを渡してきた。中には一枚の紙が入っている。

 引っ張り出して見ると、それは部員募集のチラシだった。さっき言ってた奴だな。

「ってことでシュウ、これコピーしておいてくれるかしら? 百枚もあれば十分だと思うわ」

「任された」

「ついでに結凪、この部室の設備紹介しておいてちょうだい。新入生歓迎会の練習をもうちょっとやっておきたくて」

「あいあいさー。ってことで、行こうか鷲流くん」

「おう、よろしく」

 るんるん、と擬音が聞こえてきそうなほど楽し気な砂橋さん。その背中を追って、僕も部室を後にする。

 こうして、コピーがてら広い部室の案内が始まった。

 会議室を出てすぐの所、まるで廊下をせき止めているかのような扉。砂橋さんは玄関と同じように学生証を機械にかざし、ドアを開ける。

 その先には長く、一回り大きい廊下が広がっていた。

「この扉は何のためにあるんだ? 玄関みたいだけど」

「一応機密保持のためだよ。部外の人を会議室に招いた時に、色々見られたくないものがあったりするからね。曲がりなりにも技術の塊だし」

「そういうことか。NDAの書類にサインしたくらいだしな」

「せーかい。まずここからかな、このオレンジの窓の向こう側。ここは『クリーンルーム』になってて、半導体の製造装置があるよ。『ファブ』って呼ばれてる部屋で、うちの心臓部だね」

 廊下の中ほどには、オレンジ色に着色された大きな窓がある。

 その奥には、まるで体育館のようにだだっ広い空間に大量の機械が並んでいる壮観な景色が広がっていた。

 ただ、そこから音は聞こえてこないし動いているものもない。昨日言っていた通り、完全に止まってしまっているようだ。

 天井には何かのレールが張り巡らされており、そのレールの何か所には死んだように機械が止まっていた。

「今は動いてないけど、揃ってるモノは悪くないよ。『ArF』の『露光装置』に『イオン注入装置』、化学処理系の設備ももちろん、テスタも『ダイシングマシン』みたいな『後工程』用の機械ももちろんある。それに隣の部屋には『マウンタ』と『リフロー炉』なんかもあるからボードも作れちゃうんだ」

 その後に紡がれた言葉は、はっきり言って日本語とは思えない。こういうときはとっとと白旗を上げて聞いてしまうに限る。

「えーっと、日本語で話してもらっていいか?」

 そんな言葉を聞いて、砂橋さんはいたずらっぽく笑った。

「なんだー、基礎の基礎だぞー? 簡単に言うと……そだなあ、いわゆるパソコンの中に入ってて計算をするチップなら、ここだけで製造工程を全部終わらせることが出来るだけの機械があるよ」

「その作るための機械の名前が一杯ある、ってことだな」

「そういうこと。頑張って覚えなよ」

 そう言われると、何だか凄いことのように思えてしまう。いや、事実凄いことなんだろうな。

 そうだ、感心ついでに、最初から不思議に思っていたことを聞いてみよう。

「なんでここの窓はオレンジ色なんだ?」

「そりゃ、露光装置があるからだよ。……って言ってもわかんないか。半導体はね、作る工程の中で写真を撮るの」

「写真?」

 その写真という言葉と、最先端技術の塊という印象の強い半導体のギャップに思わず聞き返してしまった。

「そ。で、フィルムの代わりに使うのが『シリコンウエハー』」

「シリコンウエハー……?」

「そこからかぁ。えーっと、ちょっと待ってて」

 そう言い残してどこかへと消えていく砂橋さん。なんだかここまで知らないことが申し訳なくなってくるくらいだ。

 戻ってきたとき、彼女の手にはプラスチックのケースが握られていた。その中には、虹色にきらきらと光る円盤が収まっている。直径は大体二十センチくらいはあるだろうか。

 その板をよく見ると、一定間隔で色とりどりに光を反射するものがずらりと印刷されているように見えた。

「これがシリコンウエハー。簡単に言うと、金属シリコン……ケイ素の巨大な塊をスライスしたものだね。その上にいろんな加工をして半導体を作っていくんだよ」

「これがもう半導体なのか」

「んー、半導体って言葉が何を指すのかによるけど。物質としては、元のケイ素の時点で半導体。計算とかできるように加工したもの、って意味でもそうかな、これはCPUを作り込んだウエハーだよ」

何の機械や部品にも包まれていない半導体なんて初めて見たな。作り込んだ、って言っても板の表面はつるつるしているし、何か加工されたようには見えない。

「その加工は、当然人間の手で出来るものじゃないよ。ナノメートル単位の加工になるからドリルとかそういう次元でもない」

「ナノメートルなのか、いきなり」

「ウチで作ってるのはね。一番細かいところで大体120ナノメートル、髪の毛の四百分の一くらいのサイズかな」

「想像もつかないな」

ナノメートルなんて、多分触ってもわからないよな。目で見るだけじゃつるつるに見えるのも納得だ。普通の顕微鏡もたかだか百倍とかだし、それで見てもわからないんだろうなあ。

「そんな加工が出来る道具として、光を使うってわけ」

「そう、それがわかんない。光で加工ってどういうことだ?」

「ざっくり言っちゃえば、写真みたいに設計図を焼きつけるんだよ。それを元にこのケイ素にいろんな素材を化学的に付けたり外したりして作ってくんだ」

「実際の加工は薬品とかでやるってことか」

「んー、まあ今はその理解で正解。この設計図を焼き付ける技術のことを、専門用語で『フォトリソグラフィー』って呼ぶから覚えておいてね」

「お、おう。りそぐらふぃ……覚えとくよ」

「で、フィルムに感光性の薬剤が塗ってあるのと同じように、このウエハーの表面に光を当てると性質が変わる『レジスト』、って薬品を塗るんだけど、もちろん太陽の光に当てたら一発でアウト」

「本当にフィルムと同じなんだな。でもそれなら、暗室みたいに真っ暗にしないといけないんじゃないの?」

「さすがに暗室だとまともに作業が出来なくなっちゃうからね。この薬品には反応しにくい波長の光、『セーフライト』があって、それがこのオレンジっぽい光ってわけ。中に入っても基本的にはこの色の照明を使ってるから同じ色だよ。本当の半導体工場は光を使う工程のブロックだけこの色なことが多いかな」

「へぇー……ちゃんと理由があるんだな」

「ま、一発でわかるなんて思ってないから大丈夫。そうだ、このウエハー持ってみる?」

「いいのか?」

「うん、これはボツになった不良ウエハーだから気にしないで。あ、でも落っことすと掃除が面倒だから落としたり割ったりするのはやめてね」

「お、脅かさないでくれ」

「ひひっ、そんなに怖がんなくても大丈夫。でもちゃんと両手で持ってね?」

 そう言った砂橋さんは、プラスチックのケースをぱちん、と開くと中の円盤を取り出した。虹色に光っているのと反対側は、金属っぽい暗めの銀色をしてるんだな。

「じゃあ、はい」

「おっ、ととと……ん?」

 渡された円盤を受け取ると、まるで厚紙くらいの厚さしかないことに驚く。

 そしてその重そうな銀色の見た目とは裏腹にとても軽い。フリスビーにしたらよく飛びそうだ、やらないけど。

「軽いんだな、これ」

「見た目は金属っぽいから重そうに見えるけど、めちゃめちゃ軽いんだよ。ケイ素の密度は鉄の三分の一くらいだから、重さとしては想像したのの大体三分の一くらいじゃないかな?」

「なるほどな」

「ただ、見てもらえばわかる通り薄いから脆いんだよね。落っことすと粉々に壊れちゃう」

「ありがとう、マジで割っちゃいそうだし返しておくよ」

 この円盤が、いろんな加工をすることでチップになるってのは驚きだな。それはそうと、下手に扱って割っちゃいそうだから早く返しておくことにする。

「にしし、怖気づいちゃった? 慎重なのはいいことだよ」

受け取った砂橋さんは楽しそうに笑うと、その円盤をプラスチックのケースへと戻した。

「っと、さて、じゃあ製造するところも見たしアタシたちの居城に行こうか。コピーもしないといけないし」

「うん、よろしく」

 建物の二階へ続く長い階段を登る。どうやら普通の建物よりも一フロアが高いか中二階でもあるんだろう、普通の建物よりも一階分の階段が長い。

 登った先の廊下をちょっと歩くと、第一開発室という名前の看板が下がっていた。

 砂橋さんがそのドアを開けると、さっきの製造するところとは逆に、まるでどこかの会社みたいな、机が並んだ空間が広がっていた。

 ほとんどの机の上には何もないけど、二つだけ大きな液晶と本、それに大量の書類が置かれた席がある。ここがきっと蒼と砂橋さんの席なんだろう。

「ここが第一開発室、アタシたちは『オフィスエリア』って呼んでる。いろんな設計とかするのはここかな、普段アタシが居るのもここだね」

「見た感じは普通の会社みたいだな、ドラマに出てきそう」

「まあ、こんなに棚は無いと思うけどね普通の会社は」

その言葉の通り、長い壁沿いには沢山の棚が並んでいる。そこには色々な機械や板みたいなもの、箱や本が並んでいた。砂橋さんの言う通りだな、ドラマとかでよく見る会社はこんなに棚が無いし、あったとしても入ってるのは書類のバインダーとかだ。

「で、奥のドアの先には『ラボ』があるよ。ラボは製造工程で上がってきたボードやチップのテストとかに使う場所」

「ラボ。なんかラボっていう言葉だけでかっこいいな」

「でしょ? なんかこう、かっこいいよね」

 砂橋さんがまるで小さな子供のように楽しそうに頷いた。女子はともかく、男で「ラボ」という響きにロマンを感じない奴はそう多くないと思う。

 そういえば、ついでに一つ聞いておきたいことがあったのを思い出した。

「さっき自己紹介でPEって言ってたけど、ぴーいーって何?」

「『Principal Engineer』の略だよ。日本語にすると主任技術者、とかになるかな?」

「そのエンジニアだと何かいいことがあるのか?」

「PE資格を持ってる部門の責任者になれるんだよ。いまのウチの部でいうと、アタシはさっきも言った通りいわゆるバックエンド……物理設計部門のPEの認定を持ってて、蒼はいわゆるフロントエンド、論理設計部門のPE認定を持ってる」

「責任者になるって、ただ大変なだけじゃないか?」

「うーん、ま、そだね。でも、この資格を持ってる人が責任者として居ないと大会にも出れないから」

「へえ、そんなルールがあるのか」

「結局、何も知らない素人が作った回路が動くわけがないからね。いくら安くしてるからってやっぱり普通の部活の何百倍もお金が掛かる訳だし、自分で作るなら、詳しい技術者を置きなさいっていうのがJCRAの考えな訳」

「至極真っ当だな」

 聞いてみればまっとうな制度な気がする。使われているのは税金な訳だし、そんなにじゃぶじゃぶ使う訳にはいかない。ある程度実現可能な技術と知識を持っている人にだけ許可するのは理にかなっているという訳だ。

「さ、続きはコピー取りながら話そ。授業始まっちゃうし」

「おっと、そうだった」

 砂橋さんの言う通りだな。オフィスのすみっこにあるコピー機に原稿を置いて、百部、と。

 ぽちぽちとボタンを押すだけで、コピー機は自動で同じチラシを吐き出し始めた。

「さて、と。PEの続きだったよね」

「頼む」

「ま、端的に言えば責任者になれるだけの知識があるかを確認するJCRAの内部資格がPE制度、ってわけ。さてと。責任者になれないとはいっても、全部の部門の開発責任者を置くのはなかなか難しいからね。何しろ本当に多くの部門が必要だから」

「そうなのか。いくつぐらいあるんだ?」

「んーと、大枠で七つ。論理設計、物理設計、電源設計、熱設計、基板・高速信号設計、そして製造前工程と製造後工程。その中でさらに細かく別れてて、全部合わせたら三百近くあるかな。包含して大枠ごとの認定、『部門認定』を取ることもできるよ。勉強はめちゃめちゃ大変だけどね」

 並べられた工程とやらは、どれも聞いたことがないものばかりだった。ただ、どれも難しそうなことをしていそうだということだけは伝わってくる。

「そ、そんなにあるんだな……え、じゃあ砂橋さんは物理設計、ってのに関して一番上の部門認定を持ってるってことか?」

「そゆこと。蒼は論理設計部門の部門認定を持ってるよ」

「へぇー……」

さすが、この部に残ってるだけあるなあ。蒼も、そんな資格を持ってたなんて知らなかった。

砂橋さんは、どこか得意げに説明を続ける。

「今ウチの部活に足りないのは電源周りと熱、高速信号かな、あとは製造の二つ」

「なるほど、居ない部分はどうするんだ?」

「そこで使うのが、JCRAから提供される『IP』」

「あいぴー?」

「そ。Intellectural Propertyの略で、日本語に訳すと知的財産のこと。私たちが使う意味としては、あらかじめほかの企業で設計・検証されて、動作が確認されてるパッケージ、って感じかな」

「既製品、ってことか」

「そそ。その既製品には作った会社のIPが絶対に入ってるから、その商品もまとめてIP、って呼んでるんだよ。たとえば電源回路なら電源回路のIPが、熱なら放熱キットのIPが、高速信号なら既製品のボードが使えるんだ」

「あー、売り物を遣えば間違いないもんな」

知識を持った人が居ない時は、プロである企業の人たちが作った既製品を使えばいいってことか。それなら確かに間違いなく動くな。

「そゆこと。製造だけはどうしようもなくて、これが無いと校外の半導体メーカーに製造委託しなきゃいけなくなる。もちろんそれぞれにお金は掛かるけど、普通に頼むよりは何百倍も割安だね」

「じゃあ、例えばPEが誰もいない部活でも開発できるってことだ」

「そういうこと、もちろん論理設計や物理設計に関しても、設計が済んだいろんなブロックを買えるよ。だからIPだけの寄せ集めで形にすることだってもちろんできる」

「なるほどなあ」

 誰も責任者になれる人が居なければ、半完成品を組み合わせることで自分たちのチップを作ることが出来る。なかなかよくできてるな。

 よく考えると、確かに部活を始めるときだって誰もPEなんて居ないだろうし、何らかの手段が無いわけがない。

「アタシたちだって、去年までもPEはもちろん居たけどIPはそれなりに活用してた」

「何でだ? 自分たちで作れるんだろ?」

「そうなんだけど……そうだね。鷲流くんが、昼ご飯を作るとしようか」

 自分たちで作れるのに、わざわざお金を出してIPを購入する理由があるんだろうか。そんな疑問をぶつけると、砂橋さんはにやにやしながら例え話を始めた。

「お、おう?」

「じゃあ、パスタを作るとしよう。パスタの麺はわざわざ自分で作る?」

「いや、さすがに面倒くさいかな。スーパーで茹でるだけの乾麺を買ってくるよ」

「時間と材料が無限にあったとしたら?」

「それは確かに、自分で作ろうかなって思う日があってもおかしくないけど」

「そういうことだよ」

「そういうことって、どういうこと?」

 さすがに今の不思議な例えだけで理解することはできなかった。さらなる解説を求めると、続けて説明してくれる。

「自分で作ることもできるけれど、失敗するかもしれないし時間も掛かる。それなら、本当に重要な所以外は外のものを使うっていう選択肢も合理的でしょ?」

「あー、なるほど。確かにな」

「もちろん、パスタソースみたいに差別化するのに重要なものは自分たちで作るんだけどね。人手が多ければいいけど、今みたいに少人数でやるなら尚更使えるものは使わないと」

「手間を掛けるところを選ぶってことか」

 確かに、さっき言っただけの部門があるような魔境なわけだ。人数が少ないなら使えるべき物を使って時短するのも大事な要素なんだな。

 僕が納得していると、さらに砂橋さんはどこか楽しげに続ける。

「そゆこと。それと、もう一つIPを使った方がいい場面があるよ」

「それはどんな時だ?」

 質問を返すと、砂橋さんはにひひ、と笑ってまた不思議な例えを話し始めた。

「そうだなぁ……鷲流くん、君はカフェのオーナー。それもレシピ通りに完全に作れるかどうかすら怪しいのにカフェとして独立してしまった、ヤバい奴」

「チャレンジャー過ぎないか?」

「そう思うでしょ? でも立地は良いからお客さんはぼちぼち来るし、幸いにも隣には美味しいケーキを売ってるお店がある。そんなお客さんたちに、ちゃんと出来るかどうか怪しい自分の作ったケーキを出すか、隣にある美味しいケーキ屋からケーキを買ってきて出すか。どっちを選ぶ?」

「そりゃあもちろん、ケーキ屋のケーキを出す、かな」

 普通に考えて一択だ。自分で作ったのを出したところで、隣のケーキ屋さんに敵わないならお客さんたちにはウケないだろう。

「でしょ? そういうことよ」

「だから、どういうこと?」

 そういうこと、って言われてもいまいち繋がらない。やっぱりなんだかふわっとしたたとえ話だった。

「カフェの客みたいな外部の人、つまり自分が作っていない外部のチップと、美味しいケーキ、つまりはある仕様が決まったルールで通信しないといけない回路。そういう場面では買ってきた物を使った方がいいときもあるってこと」

「ふむふむ」

「理由は二つ。一つ目は、自分で作るよりもメーカーが検証してくれてる回路を使った方が確実に通信できる可能性も上がる」

「まあ、売り物ってことは使えることは保証してくれてるわけだしな」

「二つ目は、何か問題が起きた時に通信回りを疑う必要も少なくなって時間が節約できる。つまりはお金を払う価値は十二分にある、ってわけ」

 その理由を聞いて、ようやくさっきの話が繋がった。確かに、お金を出せばちゃんと動いて手間も減らせるなら、よっぽどの理由が無い限り買ってきたほうがいいな。お金があるなら。

「なるほど……さすが砂橋さん」

「鷲流くんも少し勉強すれば基本的なことはすぐにわかるようになると思うよ、PEを取るとなるとまた別だけどさ」

「また何かわからないことがあったら聞いてもいいか?」

「もちろん。気軽に聞いて」

 腕を組んでにこっと笑う砂橋さん。頼りがいがある同期が二人も居るのはいいことだ。

 その直後、砂橋さんはふっ、と顔を下ろした。その表情は一気に伺えなくなる。

「……アタシには、それしかないからさ」

「それって――」

 何かまずいことを聞いてしまったかな。そう思って声を掛けようとしたのと同時、彼女はばっ、と顔を上げた。そこには、さっきの影はどこにもない。

「ほ、ほらっ、コピー終わったよ。蒼のとこに持ってってあげよ」

「了解」

 それから、何かを誤魔化すようにコピー機からチラシを取り出す砂橋さん。僕もこれ以上深入りするのは憚られて、そのまま僕たちは蒼の居る会議室に戻った。

「お待たせ、ざっくり説明してきたよ」

「おかえり、大分掛かったわね。どうだった? ウチの部室は」

「そうだな……すげえことをやってるんだな、ってのはよくわかった」

「そう、そう思って貰えたなら良かったわ。じゃあその気持ちを無駄にしないように動きましょう、そろそろ予鈴よ」

「おっと、もうそんな時間か」

「とにかく、勝負は放課後一発目、オリエンテーションが終わった後のチラシ配りよ! 昼休みに一回集合してチラシを持って行って、放課後は部活に来る前にそのままチラシ配りに入ることにするわ。何か意見は?」

蒼はやる気に満ちた目で僕たちを一瞥する。当然、それに関して僕も異論はない。

「無いわね、じゃあ解散。チラシを抱えて戻ってくるのは許さないわよ」

「ブラック企業みたいなのやめなって、余計人が入ってこなくなるよ」

「さすがに冗談よ。さ、校舎に行きましょうか」

「だな。遅刻しちまう」

 ちらりと壁掛け時計を見ると始業十分前、教室まで歩いてちょうど良いくらいの時間だ。僕たちは三人で部室を後にすると、本校舎へと向かう。

 横道から大きな通りに戻ったところで、後ろから間の抜けた声が聞こえてきた。

「およ、シュウどうしたんだよ両手に花じゃねえか」

 間の抜けた声に振り向くと、悠が息を切らせて走ってきている。目の下のどす黒いクマは今日も健在だから、どうやら結局昨晩も宏とゲームに興じていたらしい。

 この時間の登校ということは、間に合う最後の列車に飛び乗ってきたんだろう。駅から走ってきたに違いない、走らなくても一応始業には間に合うようになってんだけどな。歩いたら寝そうなのかもしれない。

「よう悠、冗談は顔だけにしとけ。宏は?」

「あいつはまだ寝てんじゃね? 少なくとも駅にすら居なかったぜ、昼までに来たら良い方だろ。蒼もおはよ」

「おはよ、悠。今日も面倒くさいほど元気ね、目が死んでるわよ」

「あったり前だろ、寝てないし」

 案の定また徹夜明けだったようだ。それならこの惨状にも納得だ。

「で、そちらは二人のお子さん?」

「お子さんってお前」

「子供じゃ無いわボケェ!」

「あーはいはい、怒らない怒らない。ママでちゅよ~」

「蒼あんた……は~~もうキレた、無期限のストライキに入ってやる」

「無期限ストライキだって、難しい言葉知ってるんだな。でも子供連れてくるのはまずいんじゃねえか?」

「だから、子供じゃなーいっ!」

 ぱっと見た性別が怪しい悠にさえいじられている砂橋さん。多分悠も眠気でストッパーが外れているに違いない。

 こんな賑やかな朝の風景がこれからの日常になるのかと思うと、それは……ちょっと楽しみ。でも、もっと賑やかになる。いや、しないといけないのだ。

 何より、そんなことを考えている自分がなんだかおかしくて。

「ははっ」

 笑いを漏らすと、砂橋さんの魂の叫びが響いた。

「笑うんじゃねぇーっ!」

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