第二章 二夜~ 呼び名~

絵師は傾城君に引き摺られるようにして、町中に戻ってきた。

川原ではやんちゃな傾城君も町中に入った途端に大人しくなり、絵師の後ろに隠れるようにして歩いている。

「あれ?さっきまでの威勢はどうしたんです?」

傾城君は絵師を睨むと小声で言った。

「うるせぇな。オレは有名人なんだよ。見つかるとめんどくせぇんだ。」

「じゃ、なんで笠とか顔を隠せるものを持って来なかったんです?」

傾城君は顔をあげて、そうか、という顔つきをした。

「お前、頭いいな。」

「…いや…あんたが抜けてるだけじゃないか…?取り敢えず、私の手拭いを使ってください。洗ったばかりの使ってないやつですから。」

傾城君はムッとした顔をしたが、手拭いを受け取った。

束ねて垂らしていた長い髪を頭上にまとめ、隠すように頬被りをした。

大店のある市中は、傾城君が落ち着かないと、嫌がった。

仕方なく、二人は絵師の住む江戸の外れ、大川沿いの新開地へ向かった。

干拓によりできた新開地は最近になり一気に住人が増えた地域だ。

頻発した火事で焼け出された者、住処が火避地になって追い出された者、他所からの食いはぐれて流れてきた者たちが集まってきている。

ここの住人は当然ながら皆、金がない。

おかげで長屋の店賃も安いし、飯を食うにも安い店が多く、暮らしに金がかからない。

稼ぎが少なく冴えない独り者の絵師もここならなんとか暮らして行けるのだ。

芝居など見る余裕もない慎ましい者の町なら、傾城君も囲まれたりはしないだろう。

傾城君は初めて来たらしく、子供のようにあたりをきょろきょろ見回しながら歩いている。

最初は好奇の目で傾城君を見た者もその美貌に目が留まる。道端の看板娘も露店の店番も傾城君をこっそり二度見三度見している。

絵師は傾城君をつつき、小さな声で注意を促した。

傾城君は、不機嫌そうに絵師を見てから周りを伺い、意味を理解した。

髪を隠した手拭を目元まで引っ張って深くかぶり、きょろきょろするのをやめた。

「ところで、絵師の兄さん。いつまでもそう呼ぶのも面倒なんだが。なんて呼べばいいんだ?」

絵師は少し考え込んだ。

「私は駆け出しなんで、画号なんて持っちゃいないしなぁ。今度、兄上様に付けてもらうか。」

「で、どうすんだよ。」

短気な傾城君は絵師を横目でにらんだ。

「あ、そういえば一度もちゃんと名乗ってなかったですね。親にもらった八広(やひろ)って名前があります。」

「八広、ね。じゃ、八広って呼んでいいか?」

傾城君はさらりと言った。

「ええ。で、傾城君はどう呼べばいいんですか?街中でその名は呼べないときたし。

 烏太夫と呼ばれるのも嫌でしょ…?」

「たりめぇだろ。…と言われてもなぁ。困った。」

「じゃ、しばらく困っててください。」

八広はにやりと笑って軽く意趣返しした。傾城君は不機嫌を顔に張り付けている。

「ちっ。お前、そんな奴だったか?」

「こういう奴ですよ。…そういや、あんたはあの時の妓楼の主人から「あお」って」

「それは駄目だ!」

真剣な声で即座に否定した。

「え?」

「駄目なものは駄目なんだ。よし、わかった。じゃ、オレの呼び名はお前が考えろ。」

傾城君は得意のダダをこねた。

「はぁ。あんた親とかにもらった名前はないのかい?」

「…んなもん、忘れた。そもそも親の顔なんて知らねーし。」

八広はちょっと鼻白んだ。巷には親の顔を知らずに育った孤児があふれている。

傾城君もそういう孤児かもしれない、そう思った八広はしんみりしてしまった。

八広はしばらく黙って考えていたが、うん、と頷くと何やら並べ立てた。

「藍、葵、浅葱、紅、萌黄…。」

不貞腐れていた傾城君は、八広の方を見た。

「なんだ、それ?なんかのお経か?」

「いいや、呼び名の候補だ。桜、柳、桔梗、納戸、紺、瑠璃…。」

「あ、色か。なるほど。他には?」

「青藍、紫苑、織部、月白、東雲、琥珀、蘇芳、紫紺。」

「お、なかなかいいな。他には?」

傾城君は楽しそうに先を促す。

「胡桃、桃、蜜柑、小豆、照柿、蝦、葡萄、栗…」

「…八広、お前腹減ったか…?」

傾城君は笑い出した。八広もつられて笑いだした。

「うん。腹減った。何か食ってからにするか?」

傾城君は首を横に振った。

「飯屋で傾城君なんて連呼されるのは御免だ。うーん。青藍、紫苑あたりがいいかな。」

しばらく黙って考え込んでいたが、なにやら思いついて、八広に笑顔を向けた。

「よし、決めた。青藍にしよう。音が粋だ。八広、オレを青藍と呼べ。」

「はいはい。そうしますよ。青藍さん。」

傾城君は新たに背負った青藍という呼び名を気に入ったらしく、機嫌がよくなった。

「なあ、八広、この辺だとどこが旨い?」

「この辺りはどこも大したものは置いてない。けど、そこの角は煮物が旨いし、そっちは魚の旨いのがあったりする。何か食いたいものはあるか?」

「そうだなぁ。そういや味の沁みた真っ黒い煮物はあまり食べてないな。」

青藍は溜息混じりに嘆いた。

「ここのところ大店の宴会に引き出されてばかりでさ。酒の味はいいが、料理はオレにはお上品過ぎるものばかりだったんだ。

その上、大店んとこの阿保坊どものおかげでロクに食べれなかったし。」

「役者も大変なんだな…。」

「まぁな。それで小屋を逃げ出してきたんだ。あそこにいるとまた宴に連れていかれる。」

八広は自分をダシに強引に出てきた青藍の気持ちが解る気がした。

二人は煮物が自慢の居酒屋に入り、奥の小上がりのなかでも特に目立たたない席に陣取った。

青藍は酒を少しとありったけの惣菜を頼んだ。豆腐の煮物に葱間汁、青菜のお浸しなど膳にはたくさんのおかずが並んだ。

二人はまずは腹を満たすことにして、一言もしゃべらず、黙々と口に運び、あっという間に平らげてしまった。

年配の女店主も若い二人の食べっぷりに笑い、少し多めに盛って出してくれた。

青藍は店主に愛想をまいて、礼をいい、店を出た。

八広は、青藍に聞きたいことが山ほどあったはずだったが、結局何一つ話せていないことに気づき、内心がっかりしていた。

これから傾城君らのいる一座に入り、絵を描くことにはなるが、二人きりで話せる機会は少ないだろう、と思っているのだ。

八広が聞きたい話は、他の役者と共に話せるようなものではないし、青藍も嫌がるだろう。

青藍の側も聞かれたくなくて、わざとはぐらかしている気もする。そう思うと八広は言い出せずにいた。

青藍はそれを察していたようだ。

「なぁ、八広。お前んちこの近くなんだよな。お前んちで飲みなおしてもいいか?」

八広は驚いた。青藍は今日はこのまま何も口を開くことなく帰ってしまうと思っていたからだ。

「どうしたんです?明日も舞台があるんじゃ…?」

「なんだよ、嫌なのか?」

「そんなことは…。独り者の私には何の障りもあるわけないでしょう。むしろ、ありがたい。」

「そうならそう言えよ。よし、酒買うぞ。」

青藍はそう言って、酒屋に入り酒の味見をしながら買う酒を選んでいる。

八広は青藍の様子を見て、思わず笑った。青藍が酒を買っている間に近くの煮売屋を覗き、つまみになりそうな物をいくつか買うことにした。

青藍は上機嫌で徳利を持ち、八広を家につれていくよう促した。

「明日は舞台は休みだからな。んー、久々にゆっくり呑める。」

青藍を家に入れると、八広は長屋の差配人のところに顔を出し、青藍の分の布団を借りに行った。

青藍は寒くもないし、雑魚寝でいい、と言ったがまだ朝晩は冷える。

役者の青藍に風邪を引かせるわけにもいかない。

八広の家は湿気た裏長屋の棟割で、あまり快適とは言えないのだ。

小さな土間と四畳半の小さな棟割りは、独り身の上、家に居ることが少ない八広には十分だった。しかも、家には家財道具もほとんどない。衣類を入れた行李と前の住人がおいて行った箪笥があるくらいだ。

絵師だというので、差配人が気を使い、部屋の上の方に明り取りの窓がある角部屋を割り当てもらった。昼間にわずかでも光が入るのはありがたいが、その分部屋には薄い壁から暑さ寒さが伝わってきてしまう。

絵師として一本立ちしてもっと稼げるようになれば、もう少し広くて、明るくて、暑さ寒さを凌げる割長屋に引っ越そうと思っているが、今はまだまだ無理だ。

八広は買ってきたつまみを膳に乗せて、土間から部屋へ上がってきた。

青藍は座り込み、折りたたんだ布団に凭れた。しばらくそうしてから、湯呑に酒を注ぎ、ちびちび呑み始めた。

「あ~。お前んち、なんか落ち着くな。」

「そうですか?狭いし暗いし何もない。青藍さんの方がよほど広くて綺麗な部屋に住んでるんじゃないんですか?」

「いや、オレは他の連中と違って、一座の所属じゃないんだ。だから一所に定まって演じてるわけじゃない。オレのような女形は興行の演目で向き不向きがあるからな。」

「ふぅん。そうなんですか。」

「あぁ。だからオレには家はない。興行の間は小屋の楽屋で寝起きしてるんだ。」

まだ修行中の大部屋棲みの若手ならともかく、女形の主役級の「傾城君」がそんな暮らしをしているとは思わなかった、と八広は素直に言った。

「まぁ普通そう思うだろうね。オレはかなり例外の部類だと思うよ。普通、一座の中の役者を見て演目も配役も決めることが多いからな。演目にもよるが、外部の役者を呼び寄せる方が稀だろうし。しかも、オレは役者じゃない。」

「え?そうなのか?」

「あぁ。オレは女形には違いないが、遊里で歌舞音曲を披露する芸妓なんだよ。特定の遊郭や芝居一座に所属していないし、呼ばれればどこにでも行って芸を売る。だから役者の芸名を持たないし、最高級の芸妓という意味の「傾城君」と呼ばれてるんだ。」

「へぇ。そういうことか。でも、今は役者、なんでしょう?」

青藍は遠くを見るような目をして、また酒に口をつけた。

「いや、今も芸妓だ。今の座頭は芝居の中で特に舞を重視してるんだ。舞に比べりゃ、演技なんて難しくないって言って憚らなくてな。それでオレを一座に引き入れ続けてる。オレのような男舞と女舞の両方が舞える役者は少ないんだとさ。だからかオレに振られるのはセリフの無い、舞で全てを演じる女役ばかりだよ。」

八広も酒を一口呑み、改めて青藍を見た。

「…思ってたのと随分違ってるな。」

「そうか?」

青藍は八広にちらりと目をやった。

「ところで、八広。オレに話があったんだろ?そろそろ、本題に入ろうぜ。そのために来たんだから。」

「あ…。」

八広は青藍に見透かされていた自覚はあったが、青藍から話を振られるとは思っておらず、驚いた顔をむけたものの、とっさに言葉にならず、黙り込んでしまった。

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