第一章 四夜 ~絵師~

この殿様の宴は夜半まで続き、夜も更けてから、殿様は供も連れずふらふらと帰っていったようだった。

帰る様をはっきり見たわけではないから帰っていったという確証はない。

階上から重い何かを降ろすような音と衣擦れの音がした、というだけだ。

ただ、絵師にも解るのはあの殿様はどうみても異様で、まるで怪異話の死鬼。ずっと愉悦の表情を浮かべたまま、太夫の言いなりに頷くだけ…。

ああ、そうか、と絵師は気づいた。

あの異様な殿様が太夫を妖しく見せていたのだ。

そういえば、宴の最中、自分に向けた太夫の笑顔はいつもの、あの可愛らしい太夫ではなかったか。

太夫は何も変わって…いや、殿様に向かってはやはり違っていた。

獲物を魅了し絡めて捉える、怪異話の妖女郎蜘蛛の手管を見た。

あれが、遊郭の太夫の貫禄というものなのだろうか。

そして、あの殿様がそれでも幸せそうにしていたことが、さらに異様さを増していたんだ、と。


最初、殿様は単に烏太夫が妖の魅力に絡め捕られているだけだと思った。

が、実は自ら望んで捕らわれているんじゃないか。

そこまで思い付いた絵師は、掴めなかった胸の支えが少し取れた気がした。

そうか…。

あの殿様は烏太夫に誰かを重ねている、いや、その誰かそのものと思っている。

愛しくも自らが不幸にしてしまったお人か。それとも、どんなに求めてももう届かない誰かか。どちらにしろ、きっと深く後悔をし、苛まれ続けてきたことなのだろう。

ここで現実とは真逆の幸せな時間を垣間見てしまったなら…それが夢でも幻でも、それにすがり、捕らわれていたいと願ったんじゃないか。

そのとき、何故か最初の夜に自分が語った明烏の話が頭をよぎった。

明烏を求めた殿様は色ボケのように言われているが、真実は違うのかもしれない。

殿様の耳には明烏の出自は入っていたはずで、我が身の危険も判っていただろう。

それでも、床入にやって来た。

ただ色漁りをしている好色な男が立場や命の危険を省みない行動をするだろうか。

少なくとも、自分ならしない。

全てを投げ捨てる覚悟なんて出来やしない。

そこまで考えて、はっとした。

もしかして、あの殿様は…。

そして、烏太夫は…。

背筋に冷たい汗が滑り落ちていった。


居ても立ってもいられず、烏太夫に話を聞きたくなった絵師は階段を駆け上がった。

夜更けに無粋とは思ったが、太夫の部屋前で声をかけようとして、思い止まった。

太夫の部屋から密やかに話す声が聞こえてきたのだ。

「…もう一度聞く。本当にそれでいいんだな。」

「ええ…。」

「…世間の流行り廃りが呪になるとは。面倒なものだよ。…とはいえ…な…」

「ええ、侮れません。それも人が操っているのですから、立派な呪になってしまいます。」

「…違いない。 」

一人は女主人の声だ。話し相手の声は烏太夫だが、いつものおっとりした口調ではなく、男のようなものになっている。

「… 待て…」

太夫は口をつぐみ、鋭い衣擦れの音を引きながら、絵師の眼前の障子戸を思い切り開いた。

「誰だ!」

絵師の眼前には、仁王立ちになった烏太夫…ではなく。

鋭い目付きで睨んできた顔は太夫によく似てはいるが…。

遊郭特有の緋色の襦袢を着ていても浮かび上がる身体の線は明らかに男のもの…。

「うわぁ~~~!!」

絵師は驚き後退った。運が悪いことに絵師が居たのは階段を上がり切った踊り場。そのまま階段を滑り落ちた。

大きな音をたて、絵師は廊下に倒れ込んで止まった。

「…あ~、参ったな…。」

部屋から出てきた男は頭をかきながら階上に設えた手摺越しに下を覗き込んだ。

遅れて、主人の着物をきっちりと着こんだ女が階段を降りてきた。

「翠(あお)、絵師殿は大丈夫かしら。」

アオ、と呼び掛けられた若い男は階段の最上段にどっかりと座り込んで、不機嫌な声を出した。

「あぁ、命には別状無さそうだ。

ん~、見たところ「絵師の命」の腕も手先も大丈夫だし、暫く身体が痛む位で済むだろう。

…こいつ、見掛けによらず頑丈だな。」

主人は階下の廊下に大の字になっていた絵師の頭をそっと己の膝の上に乗せた。絵師が見上げた女の顔は可愛らしい、あの烏太夫の顔だった。女の太腿の柔らかさと伝わる温かさに、絵師は安心して、意識を失った。

それを見た翠は呆れたようにため息をついた。

「…まったくいい気なもんだ。

ま、潮時ではあったし、もういいだろう。」

「はい。仕掛は終わりましたしね。」

「…そうだな、明烏…。」

絵師を膝に乗せた明烏はにっこり笑った。


その頃、絵師の兄弟子である武家は慌てていた。

自分が呼び寄せたはずの絵師が行方不明になったのだ。

江戸詰めから郷里に戻っていたこの兄弟子たる武家は、風流仲間から紹介された茶屋の女主人の頼まれごとを引き受け、絵師を郷里元に呼んだ。

絵師が江戸を発つと連絡を寄こした日から約半月。絵師が絵を描きながらのんびり来たとしてもそろそろ到着している頃合いだ。

絵師の紹介を依頼してきた件の茶屋からも絵師が着いたとの連絡はなく、再度問合せをかけている。

絵師と思われる人物の消息はもう7日程前に手前の宿場に泊まったことを最後に途絶えている。最近は山賊も出ていないし、道端に行き倒れの死体があったとの知らせもない。

かの絵師は地に潜ったか、空に消えたか。


そんな中、隣藩の藩主が危篤、との知らせを受けた。

かつて、江戸家老として自藩の江戸藩邸に詰めていたこの武家はこの藩主と面識、どころではなく、親しく友宜を結ぶ仲だった。

江戸にいた当時、江戸家老は風流人として武家の間で知られており、風流の仲間も多くいた。この藩主も風流仲間の一人であり、歌に俳諧、絵合わせなどを楽しむ仲だった。藩主になったばかりでまだ年若かったが、郷里が近いこともあり、藩主はこの江戸家老を慕っていた。ある年の参勤交代で江戸にいた折、この藩主は吉原のある遊女に入れ上げた。お忍びで遊女を訪ねる折々に江戸家老に遊女への贈り物の用立てを頼んできたりしていた。

ところが、いざ、床入れの頃になり、恐ろしい事実がもたらされた。この遊女は藩主となる前、父君が藩主であった時に起こった自藩内の事件の関係者だった。その事件は刃傷沙汰で、藩の有力な家臣が断絶させられていたが、この家臣の親戚筋にあたる、離散させられた家の娘であることが判ったのだ。

それでもは藩主はこの遊女を諦めきれず、家老らを押切って吉原へ向かい、床入の段を強行した。

この遊女は案の定、殿様を敵として床で襲い、仕損じるという事件を起こしてしまった。

赤穂の一件から敵討がもてはやされていた折であり、武士の敵討はなさねばならぬもの、と世間が騒ぎ立てた時期であった。

吉原でも評判の美人、しかも太夫に昇格したばかりの遊女が起こした敵討ちというだけで世間の目は向く。しかも寝首を狙った敵が出自の藩主とあっては世間で尾びれ背びれがつくであろうし、まったくもって始末が悪い。

さらに、その敵討の元となった事件は家老が仕組み、藩主が代替わりすることで隠し通した冤罪であった。世間に噂として広まれば、世間を騒がせたとして藩のお取り潰しもあり得る。

そのため、内密かつ、素早くことを収める必要が生じていた。

藩主には他藩から嫁いだばかりの正妻がおり、他藩への手前と藩の存続は何物にも変えられぬ最優先事項。

藩主の秘密裏に全てが進められたと聞く。

しかも、下手人として捕まった太夫は半日もしないうちに牢から消えて行方知れずになる、という怪異までも生じてしまった。

この事態に藩主も心労がたたり、 ずっと伏せっていた。特にこの1年程は寝たきりであった。それでも病は安定していたが、ついぞこのひと月で幻覚を見たりと急に病状が悪化し、弱ってきたのだそうだ。

江戸家老としての付き合いだけでなく、風流の友として藩主との面会を半ば強引に隣藩に認めさせ、見舞いに出向くことにしたのだ。


あらゆる事情を知りつつも口を噤んできた江戸家老でなければおそらく認められなかったであろう、見舞いであった。

病が重くなり、寝たきりとなっていたこの1年ほどは文の遣り取りはしたものの、さすがに会っていなかった。

とはいえ、風流の友としてどうしても藩主に一目でも会いたいと無理を強く圧し通し、病室に通させた。

さすがに一人で見舞うことは叶わず、この藩の家老もついてきた。

久しぶりの藩主は別人のように痩せてやつれており、黒々として瞳孔が開いたままの目は焦点も合っていなかった。

虚ろの中、まるで夢の中で幸せをかみしているかのような愉悦の表情を浮かべていた藩主は、不気味としか言い様がなかった。

江戸家老が声をかけても返事はなかったが、烏太夫という呼びかけのみがかすかに聞き取れた。

烏太夫とは、この藩主が入れ上げた遊女「明烏」の太夫としての呼び名であった。

それを聞くと、江戸家老は戦慄した。

藩主は初めての吉原で見た明烏をひとめでいたく気に入り、天女のようだと賞賛していた。

ケチがついた床入も「明烏となら心中は望むところ」と江戸家老には言ってたし、実際、明烏に敵として襲われるという事件に直面しても、明烏に殺されるなら本望だったなどと抜け抜けと言っていた藩主だった。

明烏は捕まってすぐに行方不明になったことになっているが、それは表向きの話で、実際には明烏は自害したか、藩の家老配下の間者に口封じで暗殺されたかで牢についたときには既に亡くなっていたのだろう。太夫が入牢した半時程の間に遺体を隠し、その事実をもみ消したのではないかと江戸家老は推測していた。

その事実を知らされていなかった藩主だったが、最近何らかのきっかけでこの事実を知り、まともに弔ってももらえなかった愛しい女に心底恨まれているに違いないと思ったんだろう。幽霊話から連想した夢をみたりするだけで、もともと患っていた病が悪化したかも知れない。

しかし、そんなことは口の端に乗せることも憚られる。

江戸家老はただ、「おいたわしいことです。」とだけ、言った。

その時、一瞬だが、藩主からかすかに香の匂いがしたのを江戸家老は逃さなかった。

「ご家老、この部屋の近くで香など焚かれることはありますか。」

家老は何のことか判らなかったが、すぐに頭を横に振った。

「病に伏せっておられる方のそばで香を焚くなど、抹香を連想させますし、不謹慎でしょう。

風流人で常識人のあなた様がどうかなさいましたか。」

江戸家老は、藩主から香の匂いがしたように感じる、と答え、改めて藩主を見ると、胸元の襟の合わせがすこし膨らんでいることに気が付いた。

「ご家老、ちょっとよろしいですか。藩主殿のお胸の襟あたり、何か入っているようですが?」

家老は気づかなかったが言われてみると、確かに何かが懐にしまわれている。

さきほど、江戸家老が来る直前に自分の面前で藩主の寝巻を取り返させたばかり。こんな紙を誰も仕込むことなどできないはずだ。

江戸家老は藩の別邸の門からずっと一緒にいて話をしており、怪しい動きはなかった。

二人の家老は顔を見合わせた。

「私が殿様に触れるわけにはまいりません。どうぞ、ご家老さまが改めて下さい。」

家老は頷くと、胸元に手を入れた。

すると、そこには一枚の紙が丁寧に折りたたまれて入っており、その紙からは香の匂いが立ち上がってきた。

さっき感じた香の匂いはまさにこれだった。江戸家老がそう呟くと、二人青ざめ、顔を見合わせた。

決心したかのように、家老が紙を開くと、二人は同時に悲鳴に近い叫び声を上げていた。

紙に描かれていたのは女の絵姿、それも亡くなった太夫、明烏の姿だったのだ。

しかも江戸家老はこの絵の筆筋から誰の手によるか判ってしまった。

とても良く知る筆筋。

そう、これは、自分が江戸から呼び寄せた絵師の手によるものだ!!

しかも黒々としつつもうっすら白く反射する墨は古いものではなく、むしろ、乾いたばかりのみずみずしい墨色だ。紙もまだ墨の湿気を含んでいるかのようだ。

さすがの江戸家老も何が起きているのか理解できず、呆然と立ちすくんだ。

一方家老はその絵図を手に持ったまま、恐ろしい形相をしてその場に座り込んだ。

江戸家老が声をかけても呆然として、要領を得ない。

「絵の明烏が私をにらみ、薄笑いをしている・・・。」

「おい、ご家老!!お気を確かに!しっかりしてください!!」

江戸家老が大声で家老に呼びかけると、家老は遠い場所を見るような目つきで絵姿をみつめていたが、突然紙の端に青い炎がついた。

家老があわてて紙を取り落とすと、青い炎は一気に燃え上がり、絵姿の紙は燃えつきた。

あるはずのない因縁の姿絵。人玉のような青い炎。しかも図絵を描いたのは行方知れずの絵師。

まさに怪異としか言い様がない。

二人はしばらく口を半開きにしたまま動けなかった。

が、先に我に返ったのは江戸家老だった。

すぐに大声で家人を呼び、家老の頬をたたいて正気を呼び戻そうとしたが、江戸家老の眼前ではずっと、家老の目の焦点は合わないままだった。


江戸家老はやっとやってきた別邸の家人に家老と藩主を預け、早々藩主の邸から退出した。

この見舞いは、まるで仕組まれたかのような気がしてならなかった。

かの絵師が、生きていることだけは判った。

しかし、その行方を探そうにもどう探せばいいのやら。そのきっかけすら思い付かない。

江戸家老の頭によぎったのは、絵師をできるだけ早く助け出さねばならない、ということだけだった。

藩主は恐らくもっても2~3日だろう。下手をすれば今夜死去してもおかしくはないと思われた。

きっと絵師は藩主の夢に閉じ込められているに違いない。と、すればだ。

藩主が亡くなれば、絵師の命も危ない・・・そう思うと心臓が締め付けられるような焦りを感じたのだった。

急ぎ自邸に戻ると、手紙が届けられていた。

それは、自分に絵師の紹介を依頼してきた茶屋からのものであったが、茶屋の主人からは自分は絵師の紹介は頼んでいない。別の方と勘違いされていか。狐か狸にだまされていまいか、と書かれていた。

最近あった怪異話を語る夜会遊びの折に昔からある葬送地の話がでたが、そこから妖が来たに違いない。気を付けよ、とも冗談混じりで書いてあった。

江戸家老はそれを読み、なるほど、葬送地か、と思いついた。

葬送地はかつての風習もあり、鳥に関連した名前のついた地名も多い。

考えてみれば、明烏も烏太夫もみな関係するのは烏。

しかも、この葬送地はこの地に近い。

…ならば行ってみる価値はあるやも知れぬ。

まだ日も高く、危険は少ない。

駄目で元々、なるようにしかならないと開き直った江戸家老は重々しい裃を脱ぎ捨て、軽装に着替えた。

一塁の望みをかけ、鳥の名がある葬送地を目指し、早速、徒弟を一人連れ歩き出した。


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