第一章 三夜~烏太夫~

絵師は結局、いつものごとく「居続け」となった。

とはいえ、相変わらず遊女と遊べるほど甲斐性はなく、店の遊女たちと話をしながら絵を描くばかり。

美人絵を思う存分描けるのはうれしいが、やはり複雑な気分だ。

居続けの三夜目となった今夜は烏太夫にとって特別な座敷がある。

そのお座敷に来るのは烏太夫の絵姿を所望する客だが、そのお座敷は絵師にとっても特別になる。

というのも、客の眼前でお座敷の烏太夫の絵姿を描き、その腕を披露するのだ。

絵師にとっては、絵師の技量をしめし、仕事を増やせるかもしれないいい機会ではある。だが、しくじったときは最悪だ。緊張のあまり指先が動かない事もありうる。

絵師は緊張しながらも何枚を遊女たちを描き、手指を慣らした。

主人はそんな絵師を見て満足そうに頷いた。

「準備に余念がないようですね。いやいや、感心感心。その意気で今宵は頼みましたよ。」

「はぁ・・・。」

主人の揶揄いに絵師は力なくそう返事した。

烏太夫の部屋へも挨拶に伺うと、いつもは朗らかな太夫も少々緊張した面持ちで念入りに支度をしていた。

「太夫、今夜はお座敷にて絵姿を描かせて頂きます。どうぞ、よろしくお願いいたします。」

烏太夫は絵師を見て笑顔を向けた。

「はい。こちらこそ。艶やかな顔とはどんな顔すればよいのやら、私もわからないのですけど・・・。また姐さんに可愛い、などと言われないよう気張りますから。絵師殿もよろしくお願いいたします。」

「ええ。太夫にまでそういわれてしまうと、かえって緊張しますよ。困ったもんです。」

烏太夫と絵師は顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。

「では、宵に改めてお伺いいたします。」

「はい。」

絵師は太夫の部屋を退出し、再び手慣らしを始めた。


今宵のお座敷の客はある藩のお殿様だという。

主人や店の女たちからに聞きこんだ話では、このお殿様は烏太夫に随分と入れ上げており、既に「馴染み」になっているというのに、殿様自身が床入をしないと言っているのだという。

なんでも、烏太夫を本気で天女だと思い込んでおり、天女と床入などとんでもない、などと言っているのだとか。

しかも、この殿様はお忍びで烏太夫に会いに来ており、吉原のようにお殿様のお呼びに合わせ花魁道中をして茶屋に出向くこともない。

この店中の太夫の部屋で太夫と二人きりで小さな宴を開き、ただ、太夫を見ているのだそうだ。

変った殿様もいるものだと絵師は心から思った。

この店一番の太夫と遊ぶ金がありながら、添い寝もしないとは。

どんな殿様なんだかじっくりみてやろう。

そう思ったら、絵師の緊張はあっという間に去っていってしまった。


宵になり、店には仕出しが届き始め、花街らしい活気が静かに満ちて街全体が包まれ始めた頃。

件の殿様が店に上がってきたとの知らせがきた。

烏太夫はまさに天女のような微笑みを浮かべてこの殿様を迎えた。

「殿様、ようこそお上がり下さいました。この烏太夫、心よりお待ちしておりました。」

静かだが、甘い声で太夫が殿様の耳元でささやく。殿様は何かに憑かれたかのようにぼうっとした愉悦の表情を浮かべ、一つ頷いた。

太夫は殿様の手を引き、分厚い座布団を敷いた膳に殿様を導いた。

殿様はまるで黒子に操られた文楽人形のようなぎこちない動きで膳の前に座った。

太夫が殿様の隣に静かに座ると、殿様はそっと膳の上の盃を手に取った。

太夫は見惚れるような微笑を口元に浮かべたまま、無言でそっと盃に酒を注いだ。

殿様は震える手で盃を口に運んだ。

太夫の部屋の廊下に控え、紙の厚さほどの隙間から部屋内をのぞきながら、ひそかに絵姿を描いていた絵師は驚いていた。

昨夜までの太夫の若い娘らしい愛らしさは消え、全身から妖艶としか言いようのない、妖しげな気を振り撒いている。

顔の造作は変らないはずなのに、まるで別人のように雰囲気が違う。

これがあの烏太夫・・・?。

今、目の前にいる烏太夫は妖の成り代わりで、殿様はその妖に魅入られた獲物のようだと、絵師は思った。

もし、今の太夫しか知らない者なら、あの可愛らしい太夫は別人といわれても仕方あるまい。

身体が強張り、嫌な緊張が増す…。

階段の下に誰かがきた気配を感じ、廊下から見下ろすと、暗くて見えないが誰かが上がってくる。

絵師は大慌てでいままで描いていた紙を懐にしまいこんだ。

上がってきたのは案の定、店の主人だった。仕事の支度をして控えているように見える絵師を横目で見てから、太夫の部屋に声をかけた。

「太夫、よろしいか?」

「ええ、姐さん。かまいません。」

太夫に付いた禿がそっと障子を開けた。

その禿も一昨日会ったのとは違い、二人とも町中で売られている白い肌に大きな目の禿人形にしか見えない。人形たちの瞳は何者も映さぬ漆黒の闇を覗いているような錯覚に陥る。

禿は元居た席に戻って座るとに主人が部屋に入っていった。

「今宵はよくぞお上がりくださいました。店の主人でございます。」

主人はよく通る声でそういうと、深くお辞儀をした。

「前回のお上がりの際にお望みでした、絵姿ですが。今夜はここに絵師を呼んでおります。

それも江戸で有名な美人画の名手を呼び寄せ致しましてございます。

今宵、殿様の眼前にて絵姿を描き、お持ち帰り頂く趣向にございます。いかがでしょう。」

殿様はまたも人形のようにぎこちなく頷いた。

「まぁ、お殿様もお喜びのようですわ。では、早速絵師殿に描いていただきましょう。」

烏太夫は微笑みを張り付けたまま、さも嬉しそうに言った。

主人はその言葉を聞くと、絵師に向かい、手を二回打った。

絵師は開いたままの座敷の障子戸の前に進み、平伏した。絵師の手はなぜか冷たい汗が吹き出し、額には脂汗が浮いていた。

「絵師殿、どうぞ部屋へおはいりくださいませ。」

太夫は絵師に声をかけた。その声は優しい声音には違いないが、その声に含まれる妖しげで艶っぽい響きは昼間まではなかったもの。まったく別人の・・・異質な声のような気がした。

全身が緊張し、冷ややかな汗が背中、胸を伝う。こんな感覚は初めて味わうものだ。

「絵師殿、随分と緊張されておりますのね。これじゃ、指が動かないんじゃありません?」

太夫はそういうと、絵師に向かっていつもの愛らしい笑顔を見せた。

絵師はその顔をみて、少し安心した。ああ、いつもの太夫だ。

絵師は顔を上げ、部屋の中に入り、主人の隣に仕事道具を広げた。

「太夫、大丈夫です。私とて絵を職としております。どんなに緊張しても絵が描けないことはありません。」

絵師は必死にそう言い抜け、改めて頭を下げた。

主人は絵師に紙の束を手渡した。この紙も香を焚きしめてあるようだ。不思議な香りが漂っている。

「この紙は太夫が着物に焚いている香と同じ香を焚きしております。絵姿をお持ち帰りいただいても、太夫がいつでも思い出せるよう、そうさせていただきました。」

主人は殿様にそう伝えると、殿様はまたぎこちない頷きを返しただけだった。

「殿様は姐さんのかけてくださった手間をとてもお喜んでいると仰ってますわ。姐さんありがとうございます。」

この太夫が発する殿様の言葉は聞く者に異様な緊張感を与える。

絵師は緊張した面持ちのまま、筆を取った。

明るい部屋のはずなのに、部屋内はなぜか薄暗く、光を感じない。絵師は必死に妖艶な笑みを浮かべる太夫の姿を紙に写し取った。

絵姿の太夫の唇に紅を入れるとその妖艶さはさらに増した。

絵師は書き上げた絵を隣にいる主人に震える手で手渡した。

主人は頷いて受け取ると太夫に渡した。太夫は殿様にしなだれるようにして絵を見せた。

「殿様、いかがでしょう。妾は良いと思いますけれど。」

殿様は絵姿をちらりと見た・・・ように見えた。

そしてまた、ぎこちなく頷いた。

「気に入っていただけたのですね。良かった。太夫はうれしく思いますわ。」

太夫の声は先ほどよりも妖艶な響きが加わり、異様なほどに耳に響いた。

太夫はふたたび殿様の盃に酒を注いでその麗しい微笑みを向けた。

「絵師殿、ありがとうございました。」

太夫の言葉に主人も重ねて、もう下がってよいですよ、と言った。

絵師は慌てて目の前の道具を片付け、頭を下げると、脱兎のごとく部屋を出た。

なるたけ早く太夫の部屋から離れたくなり、音を立てないように、かつ、急いで階段を降りて店裏にあてがわれた部屋に駆け込んだ。

一休みしていた遊女が何事か、という顔で絵師を見た。絵師はなんでもないですよ、仕事で緊張しただけですから、とはぐらかした。

厠に向かい、汗に湿った手を洗うとようやく少し落ち着いてきた。

今日の昼までとはまったく違う太夫の姿に驚いたのは確かだ。

懐にしまったこれまでに描き溜めた紙を取り出し、見比べてみる。

確かに顔も姿形も造作は同じだが、表情が違うだけだ、と無理矢理結論づけて飲み込もうとした。だが、もやもやした何かがつっかえて胃の腑に落ちてゆかない。

可愛らしい太夫と妖しい太夫。

どちらが本当の太夫なのだろうか。

可愛らしい太夫が本物なら、太夫はなぜあんな別人、いや、そもそも誰かが成り代わっているのかもしれないが…になる必要があるのか。

色々思いだして考えると、違和感があるのは太夫だけじゃない。疑い始めるとあらゆるものに違和感がある気がしてきた。

納得がいかないまま絵師は佇み、血が回らない頭で考え続けていた。

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