冷凍庫の片隅で凍てついたジェラート

Jack Torrance

第1話 セックスレスに悩むベティ

何処にでもいるようなちょっとぽっちゃりしていて生え際が少し白くなりかけている中年女性。


ベティ ストライプスもそんな女性の一人だった。


美容室でカットしてもらい生え際の白髪も染めてもらい清楚に着飾り胸をときめかせての見合い。


42の時に結婚相談所で紹介してもらった3つ年上のレオナルドと出会った。


それまでにも数人の男性と見合いをしたが意中の人とは出会えなかった。


だが、レオナルドは今までの男性と違うというようなファーストインプレッションを感じ取った。


体に電流が流れたかのようにビビッときた。


この人だわ。


「初めまして。レオナルド ストライプスと申します」


「は、初めまして。ベティ クレアモントと申します」


「ベティさんとお呼びしてもいいですか?僕の事もファーストネームで呼んでください」


レオナルドは爽やかな笑みを浮かべてさり気なく言った。


ま、まるで清涼飲料水のコマーシャルにでも出てきそう。


「は、はい。レオナルドさんは、どんなお仕事をなさっていらっしゃるんですか?」


「僕はグラフィックデザイナーの仕事をしています。クリエイティヴに創造するのが性に合っているっていうか。ベティさんは、どんなお仕事をなさっていらっしゃるんですか?」


「私は会社で経理の仕事をしています。退屈なお仕事ですわ。ご趣味は何かありまして、レオナルドさん」


「陶芸と油絵を少し嗜んでいますが、これが下手な横好きっていうか…読書も好きですね。バーナード マラマッドとかフィリップ ロスなんかを好んで読んでいますね。ベティさんはご趣味とかおありですか?」


「私は観葉植物を育てたり水彩画を少し描くくらいですかね。レオナルドさんのように沢山の本と触れ合っている訳ではありませんがトルーマン カポーティとかエミリー ディキンソンの詩集なんかを読んだりしますわ」


ベティとレオナルドは意気投合した。


デートを重ね互いを知り合いこの人となら添い遂げられるという確信を深めていった。


レオナルドは交際中に決してベティの体を求めようとはしなかった。


結婚前夜のバチェラーパーティーにもレオナルドは興じる事はなかった。


5月の麗らかな日曜の昼下がり。


二人は郊外にある由緒正しき小ぢんまりした厳かな教会で挙式した。


両親、親族、友人達に見守られながら。


そして、その日の晩。


ハネムーンスイートでベティとレオナルドは結ばれた…


あの永遠に続くと信じていたハネムーンスイートの日から10年。


結婚10年を迎え52歳を迎えたベティ。


ベティは敬虔なカトリック教徒の両親という家庭に生まれ慎ましく奥ゆかしい女性だった。


厳格な両親に育てられ聖書の教えを守り人に手厚く誰からも愛される清廉潔白を絵に描いたような女性だった。


災害時にはボランティアの炊き出しなどにも積極的に参加してリーダーシップを発揮して地域の行事などでもパワフルな活躍をお披露目していた。


レオナルドもクリエイティヴな感性を発揮してベティの手助けを買って出る良き夫だった。


そして、彼は自分の両親にもベティの両親にも献身的な態度で接し人にもやさしく人格者としても申し分の無い人物であった。


傍目(はため)から見ても二人は理想のパートナーだった。


晩婚だったので子宝には恵まれなかったが二人はそのぽっかりと空いた隙間を埋め合わせるように個々の時間を有意義に過ごしていた。


そんなベティにもレオナルドに対してフラストレーションを感じる事があった。


それは、彼が夜に自分を求めてくれないというセックスレスの悩みだった。


結婚当初は二人とも感情が高ぶりレオナルドはベティをほぼ毎晩のように欲していた。


それは、盛りが付いた雄猿のようであった。


結婚まで金欲を貫いていたレオナルドは激しくベティを求めた。


ベティも然り。


敬虔なベティも男性遍歴も少なく自慰行為という事ですら抵抗を聊か感じていたので、その行為に手を染める事は無かった。


そんな二人だったのでセックスもノーマル。


マンネリ化して行く夜の営み。


SM、大人の玩具、その他各種プレイ。


自尊心、羞恥心、神への畏怖。


そのような感情が嗜好としてのセックスという考えを躊躇させた。


なので二人はセックスを愛の営みとして尊重し快楽の追求という思考には至らなかった。


そういった事情も踏まえて徐々に夜の営み、それ即ち愛の確認作業は減り遂に3年前から二人はセックスレスになってしまった。


ベティは思う。


私にもう魅力が無く無ったって事を彼は暗黙に示唆しているって事じゃないの。


確かに乳房は垂れてウエスト周りも0,5インチ?いや1インチかしら?太くなったわ。


ヒップにも張りが無くなったってのも自覚している。


だからって同じダブルのベッドに寝ている私に指一本触れないなんて。


失礼な話じゃないの。


かといって自分で自分を慰めるという行為は神への冒涜になっちゃうし。


そんな破廉恥な事は私には無理。


ましてや、不貞を働くなんてとんでもない。


彼は善人であり彼を裏切る行為なんてベティには想像もつかない事だった。


それは、幼い頃から厳格に仕付けられた両親の教育の賜物であった。


現在のベティの道徳心を形成していたと言ってもいいだろう。


ベティは悶々とした日々を送っていた。


その悶々とした鬱憤。


ベティは有り余ったエネルギーを解放すべくボランティアや地域の行事に積極的に参加していた。


自身の存在価値を高める事で淫らな思想に走らないように防護壁を張り巡らしていたと言ってもいいのかも知れない。


しかし、ふとした瞬間にあのレオナルドと深く結ばれた愛の追憶が脳裏を過る。


ベティは日本の女性用ランジェリーブランドのワコールのカタログを見ていた。


この老舗ブランドのブラジャーとパンティは生地の肌触り、縫製や作りもしっかりしていてベティは自分でランジェリーを買うようになってからはワコールのブラジャーとパンティしか身に付けていなかった。


しかし、ベティの奥ゆかしい人間性から男性を悩殺するような派手なお色気全開なランジェリーは買わずに、いつも地味な白やベージュのランジェリーばかり身に付けていた。


ベティは思った。


ランジェリーを官能的で彼を挑発するような悩殺必至な派手な物にしたら彼は私に触れてくれるかしら?


そして、やさしく愛撫してくれるかしら?


これくらいの性的嗜好の探求くらいだったら神もお許しになって下さるわよね。


アダムとイヴみたいに何も無花果(いちじく)の葉で隠す訳じゃないものね。


一体、どんなブランドでどんな色合のランジェリーが人気があるのかしら?


ベティはレオナルドの指が自分の体をやさしく弄る夢想をした。


ベティは調べた。


そして、数ある高級ランジェリーブランドの中からスペインのブラクリを選んだ。


『セックス アンド ザ シティ』や雑誌のプレイボーイでも取り上げられたランジェリー。


ちょっとお高いけどこれで彼が私に触れてくれるのならとベティの妄想は膨らんだ。


ローズレッドの薔薇の刺繍が入ったブラジャーとパンティ。


ライトバイオレットのフリルの付いたプラジャーとパンティ。


二種類のランジェリーでバストアップの効果もある物を購入した。


パンティはちょっと刺激的なTバック。


1週間後。


待ちに待ったランジェリーが届いた。


一度ランジェリーを手洗いして箪笥に仕舞った。


これで準備は万端だわ。


そして、ベティは策略を実行に移した。


22時半にレオナルドがベッドに入った。


すぐさまベティは浴室に向かいシャワーを浴びて入念に身体を洗った。


そして、ローズレッドの薔薇の刺繍が入ったブラジャーとTバックのパンティを着用し首元と手首にジルスチュアートを馴染ませる。


大人のムスクの香りが彼をその気にさせてくれる筈。


そして寝室の彼の元へ向かった。


ランジェリー以外は一糸纏わぬ姿で。


「あ な た」


ベティは恥じらいながら言った。


頬がサーモンピンクに紅潮している。


レオナルドが眠たそうに眼を瞬(しばたた)かせながらベティに目をやる。


「私、今夜は愛して欲しいの」


ベティが口籠もりながら言った。


すると、レオナルドはベティを傷つけるつもりは毛頭無かったが面倒臭そうに言い放った。


「ごめんよ。疲れてるんだ。君、冷凍庫の片隅でコチコチになっている5年前に買ったトレンティのジェラートが眠っているの知っているかい?あれ、食べたいと思うかい?それじゃ、おやすみ」


そう言ってレオナルドはベティに背を向けて右手の掌を開いた状態で軽く頭上の上に掲げるとプっーーーと放屁した。


この背信行為には、いつもは温厚なベティの逆鱗に触れた。


首元に浮き上がる太く青い動脈。


な、な、何よ、この態度。


失礼しちゃうわね。


今に見ていなさい。


私が天罰を下してあげるから。


5日後の夕食。


ベティは奮発して特上のTボーン ステーキにガーリックスライスをふんだんに載せてメインディッシュにした。


それとガーリックライスとシーザーサラダ、ベーコンと玉葱のコンソメスープを付け合わせた。


「あなたー、お夕食の支度が出来たわよー」


飛び切り愛想よく書斎のレオナルドを呼んだ。


キッチンに入って来て食卓に並ぶ豪勢な夕食に目を輝かせるレオナルド。


食事の前に神に祈りを捧げる二人。


「主よ、今日も我らに生きる恵をお与え頂き感謝致します。アーメン」


黙祷し胸の前で十字を切り首にかけているロザリオにキスするベティ。


神への祈りを済ませナイフとフォークでTボーンを切り分け口に運ぶレオナルド。


「今夜は豪勢だね。このTボーンは美味しいよ」


舌鼓を撃つレオナルド。


「今夜は奮発したのよ。お仕事も忙しそうだから精を付けてもらわなくっちゃね、あ な た」


レオナルドに満面の笑みでウインクするベティ。


赤ワインも程々に嗜み最近のベティのボランティアの話しなどを聞いてあげるレオナルド。

夕食を済ませレオナルドはリヴィングでベースボールを見ていた。


ベティは夕食の片付けをしながらDVDに録画しているドラマを片手間で見ていた。


「フワッーーー」


リヴィングでレオナルドの大きな欠伸が聞こえた。


「僕はそろそろ寝るよ。おやすみ」


「おやすみなさい。あ な た」


意味深に就寝の挨拶を返すベティ。


22時半。


そそくさとベッドに入るレオナルド。


決行の時。


寝静まった敵兵を襲撃するグリーンベレーの如き素早い動作で浴室に向かうベティ。


身体を入念に洗い清めフリルの付いたライトバイオレットのブラジャーとTバックのパンティを装着する。


ジルスチュアートの香りを身に纏い夜間戦闘態勢完了。


上官からの叱咤激励の言葉が脳内を駆け巡る。


「搾り取れるだけ搾り取れ!皆殺しだ!」


白地にレモン色の格子縞のリノリウムの廊下を爪先歩きでそろそろと歩く。


背後から首をアーミーナイフで掻っ捌くグリーンベレーのように足音一つ立てずに寝室に向かうベティ。


ドアノブにそっと手を掛け静かに開く。


「あ な た」


首まで掛かっているブランケットを少しはぐって頭を起こしベティに目をやるレオナルド。


怯む事なく、この日はマリリン モンローのように髪を掻き上げる悩殺ポーズの仕草で挑発しながら大胆に誘惑するベティ。


目をぱちくりさせ戸惑うレオナルド。


5日前の夜の営みへのお誘いの事を思い出し即座に事の成り行きを察知するレオナルド。


「ごめんよ。今日も疲れているんだ。そのランジェリーよく似合ってるね。それじゃ、おやすみ」


レオナルドはまたベティに背を向けた。


冷たくあしらわれるベティ。


皆で楽しいクルーズに出て高波でヨットが揺れて海に転落。


ライフジャケットを身に着けていて一命は取り留めたが無人島に漂着しリアル ロビンソン クルーソーになった気分。


何時、救助に来てくれるのかしら?


上官殿。


しかし、ベティは拒まれる事も一応、頭の片隅で想定していた。


なので、この日のベティはこの前の腹いせに仕返しを目論んでいた。


復讐せずは我にあり(新約聖書 ローマ人への手紙 第12章第19節)と神は仰っておられる。


だが、こう言う上等文句だってある。


目には目を、歯には歯を(マタイによる福音書 5章38-42節))と…


同程度の報復ならば神も私に恩赦を与えてくれる筈。


おならにはおならを!!!


何が「冷凍庫の片隅でコチコチになっている5年前に買ったトレンティのジェラートが眠っているの知っているかい?あれ、食べたいと思うかい?」よ


私の賞味期限はまだ終わってないわよ!


窒素、水素、二酸化炭素、メタンで膨張してきた下腹部に痛みが走る。


絶好のタイミングでおならを催してきた。


凪いでいた海にビッグウェーヴが到来し狂喜乱舞するプロサーファーのような気分。


急いでパドルで沖へ向かうプロサーファーのようにベッドの向こうに周りレオナルドの顔面でブッーーーと放屁した。


ガーリックが腸内で分解され悪臭を放った。


「ウッ、ゴホッゴホッ」


むせ返るレオナルド。


普段、奥ゆかしいベティもこの時は思った。


いい気味だわ。


自身の核にサディズム的一面を垣間見た事に驚嘆するベティ。


私は真面目に馬鹿が付くくらい人間とはこうあるべきと頑なに信じて生きて来た。


でも、それって父さんと母さんが求めていた単なる理想像だったのかも知れない。


人間には、こういった一面もあってもいいんだわ。


ベティ ストライプス、52歳。


今、自分探しの旅に出ています。


ピーという発信音が鳴ったら要件を留守番電話に残してください。


自身の中のハイド氏を快く歓迎するベティ。


もう一発おならを催した。


第二波到来。


次のは津波級。


近隣住民の方は直ちに避難してください。


「先程、22時53分。サンフランシスコ湾の西方60マイルでマグニチュード6,8の地震が発生しました。この地震による津波が発生すると思われます。近隣住民の方は一刻も早く高い場所へ避難してください」


緊急速報がストライプ家に告げられた。


自身の中に覚醒した新たな自分に陶酔するベティ。


普段、奥ゆかしい妻が突然の暴挙に出てベッドの上で悪臭と闘いながらたじろぐレオナルド。


ここぞとばかりにベティは思いっきり放屁した。


ぶっーーーーーー!!!!!


ベティの恍惚としていた表情に異変が起きた。


あれ?????


お腹も下して無いのに肛門に冷たい液体のような物体の感触を感じた。


「ウッ、ゴホッゴホッゴホッ」


再度むせ返るレオナルドを残して浴室に走るベティ。


パンティを脱いでTバックの細くなった部分を凝視する。


映えるライトバイオレットのパンティに茶色の染みが出来ていた。


ああ、どうしよう?


彼に見られちゃったかしら?


このランジェリー高かったのに。


この染み取れるかしら?


浴室の床にブラジャーのみで陰部をさらけ出したまま跪くベティ。


ベティは胸の前で小さく十字を切った。


このちょっとしたハプニングの脱糞は神が私にお示しになられた懲罰なんだわ。


一時の気の迷いでハイド氏と化した私を戒める為に神がお怒りになられたんだわ。


神よ、愛する夫へのこの侮蔑とも取れる行為。


こんな私をお赦しください。


ベティは頭(こうべ)を垂れて己の罪を悔い改め懺悔した。


首にかけられたロザリオが浴室のLEDライトに反射して神々しい光を放っていた…

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冷凍庫の片隅で凍てついたジェラート Jack Torrance @John-D

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