第2話 「さようなら」

「じゃあな」

 ホテルに来たときと同じように、衣服の乱れもなくスーツを着用したアキは、素っ気なく別れの言葉を告げる。

 そのわりには唇に小鳥の鳴き声のような音と共にキスをし、大きな手で頭を撫で、伸びた髪をすくう。

 声は冷たいのに手と唇は一致していない男は、振り向きもせずにさっさと駅へ歩いていった。

 触れられた髪の毛は神経はないのに、じりじりと熱を発している気がした。

 一人暮らしのアパートに帰ると、すぐに布団に倒れ込む。

 身体の一部が腫れていて、ひりひりとした痛みがあり、寝るに眠れない。

 よく慣らしたせいか臀部の痛みはほぼなく、それよりも唇だ。

 キスすらしたことがないと告げたはずなのに、キス魔の男は軽く二桁は超える数値を叩き出した。気持ちいいを通り越して、恐怖。ホラー。

 手鏡で覗いてみると、唇が真っ赤に腫れていた。

 棚に置きっぱなしになっている傷薬を塗り、できるだけ唇を動かさずに目を閉じる。

 脳裏に浮かぶのは、栄える身体にそそり立つ赤黒い肉棒。淫猥で情熱的な顔つきは、ホテルに入る前とあまりに異なる。

 唇の痛み以上に、厄介なものが邪魔をしてなかなか寝つけなかった。


 どんなに眠かろうが時間も講義も待ってはくれず、染谷大地は身体に鞭を打って講義室へやってきた。

「どうしたの? 風邪引いた?」

「うん……まあ」

 冬という季節のおかげで、マスクにマフラー姿でもそれほど違和感は感なく、寒さのせいにしてごまかしがきく。

 朝までは気づかなかったが、喉に散りばめられた赤い情熱の証に、鏡をかち割るほど叩いてしまった。記憶の片隅に飛んでいたが、首に顔をうめられていた。間違いなく、そのときにつけられたものだ。

 よく言えば情熱的。悪く言えば、壊れたブレーキ。後先考えず歯止めがきかない行為の数々に、怒りさえ滲んでくる。

 携帯端末の画面が光り、こっそりと中を覗く。

 SNSのDMに、メッセージが届いていた。

──今日、会える?

 相手は怒りの根本からだ。

 文章は送らず、唇の絵文字を大量に送りつけてやった。

──そんなに良かった?

 スマホがみしっと音が鳴る。そろそろ変え時かもしれない。

──渡すものがある。

──なんですか?

──会えば分かる。

 これ以上聞いても答えてくれないだろう。返答をし、まずは講義に集中した。

 追加で駅前で待っているとメールが入り、大地は急いで講義室を出た。

 駅前の落ち着いたカフェでは、客人のほとんどが学生だ。大地もたまに利用する。少ないお小遣いの中でやりくりでき、ボリュームたっぷりのカツサンドを提供してくれる。

 コーヒーをすする男は、足を組んでテーブルの中が狭そうだった。

「お待たせしました」

「おう」

 昨日とコートは同じだが、スーツはネイビー色に変わっている。

 短い挨拶と共に、アキはメニュー表を手渡した。

「好きなの頼んでいい」

「えと……じゃあ、エスプレッソ」

 ふふん、と大地は鼻を鳴らす。

「本当は?」

「……ジンジャーエール」

「と?」

「カツサンド」

「と?」

「……コーヒーゼリー」

 いいのか、本当にいいのかと視線を送るが、アキは店員を呼び、三品と追加のホットコーヒーを注文する。

「苦いコーヒーは、僕も頑張れば飲めます」

「何と戦ってんだよ。いいから黙って砂糖たっぷりのコーヒーゼリーでも食っとけ」

「僕だって大人になりたいんだ」

「昨日なっただろうが……いてっ」

 メニュー表を投げつけた代わりに、大地の頭にも黒い手帳が降ってくる。

「え? あれ?」

「忘れもんだ」

「どうして持ってるんですか?」

「ホテルから電話がかかってきたんだよ。脱衣場に落ちてたらしい」

「ありがとうございます。わざわざすみません」

「お前さ……、」

 アキが何が言いかけたとき、ちょうどカツサンドがやってきた。

 揚げたてのカツをパンで挟み、キャベツの千切りが溢れている。ソースがパンに染み、熱々の湯気が立っていた。

「食べます?」

「いい。全部食え」

 ひとりでは食べきれない量だが、育ち盛り食べ盛りにはちょうどいい。

 一口噛むと、ソースが口の中に広がっていく。水にさらしていたのか、キャベツはシャキシャキだ。厚みのある牛肉は柔らかく、肉汁が溢れてくる。

 唇の調子がよけれは、もっと美味しく食べられただろう。

「腫れてるな」

「誰のせいだと思ってるんですか」

「今日もしようと思ったのに、それじゃあ無理だな」

 しれっと言う彼に、大地は開いた口が塞がらない。

 キャベツがカゴにぽろぽろと零れ、一度カツサンドを置いた。

「アキさんって、どこに住んでるんですか?」

「日本のどこか」

「仕事は?」

「大変な仕事」

 まともに答えてくれる気はないらしい。

「じゃあ、彼氏はいます?」

 これには一度カップを置き、前髪を乱暴に持ち上げた。

「メールで話しただろ? 俺は特定の男は作らない」

「それだけイケメンなら、たくさんの人が寄ってきそうなのに」

「寄ってこないから、SNSを利用したんだ」

 アキとはSNSで知り合った。

 ゲイのコミュニティーに入り、気の合いそうな人を探していた。何人かとやりとりをした後、一番気遣い屋で会話が続いた彼と仲良くなりたくて、会う決心をしたのだ。

 最終的には恋人探しだが、まずは性癖を包み隠さず話せる友人がほしかった。学生だと明かすと、たいていは性を漂わせて性器を送ってほしいだの暴挙に走る男が多い。けれど、アキだけは違った。唯一変わらずに接してくれたのはいい。だが彼が求めているのは『セックスフレンド』。それでも友達になれるかもしれないと信じていた。

 初めて会い、いきなり身体の関係を結んだのに、不思議と後悔がない。想いも関係にも名前はつけられない。

「他にもいるの? セフレ」

「聞きたい?」

「……聞きたくない」

「くだらない話より、まずはゼリーも食え。生クリームがでろでろになってるぞ」

「でろでろが美味しいの!」

 ここのコーヒーゼリーは絶品だ。破格の値段だが、お金のない学生には追加で注文するのは厳しい。デザートとカツサンドを食べるなんて、贅沢すぎて初めての経験だ。

 大地が全部食べ終わると、アキは席を立った。

 当たり前のように伝票を持ち、支払う。

 外に出ると、つれない態度で「それじゃ」。

 頭に触れ、何度かぽんぽんと叩くと、今日は駅と反対方向に消えていった。

 首筋と頭部が熱くなるが、雪が熱を抑えてくれる。

 大地は頭をかきむしり、駅へ向かった。


 机に向かっていると、母親から電話がかかってきた。

「もしもし?」

『今年帰ってくるの?』

 電話越しに、どんちゃん騒ぎが聞こえる。

「またお酒飲んでるの?」

『だって、今日アンタの誕生日でしょ?』

「僕の誕生日は関係ないでしょうが」

 十二月二十五日は大地の誕生日だ。スーパーで購入したケーキでお祝いだ。

「帰れるようなら五月の連休に合わせるよ。それより飲みすぎないで」

『はいはい。誕生日プレゼントは荷物で送っておくから。あと、同窓会の話が来てるんだけど、どうする?』

「同窓会? いつの?」

『高校のときの』

「行かない」

『ケイちゃんだけど、東京の大学にいるんだって。北海道に戻ってきて、みんなで集まろうかって相談してるみたいで……』

「行かない」

 たたみかけるように声を荒げた。

「そもそも、僕誘われてないでしょ?」

『ケイちゃんのお母さんから電話がかかってきたよ』

「何考えてんだか……」

『過去の話は過去の話だよ。いつまでも引きずってないで……』

『それは当事者じゃないから言える言葉だから』

「それはそうかもしんないけどさ、」

 いつもなら軽快に飛び出す言葉も、今日は何を言ったらいいのか分からなかった。

 あまりよくない空気が流れ、大地は勉強を言い訳に電話を切った。

 数年ぶりに聞いた『早川啓介』という名に集中力が途切れ、ノートを閉じる。

 過去の記憶がフラッシュバックを起こし、ついにはベッドに横たわった。

「東京の大学なんて聞いてないよ……」

 北海道から、人々から逃れたくて本州に来た。逃げたのだ。逃亡者であろうが、後ろ指を差されたって良かった。

 気分を変えたくて、SNSを開いた。たまりにたまった通知を一つ一つ見ていき、ふと止まる。

──明日会いたいな。

 ハートマークつきのメッセージは、自称三十歳の会社員・Tからだ。

 ゲイの友人から増えたが、学生という一種の枠組みに寄ってくる男がいるのも事実。友人とは言い難い、すぐに切れてしまいそうな関係。

──学校ないでしょ?

──ないですけど、レポートがあります。

──教えてあげようか?

──いえいえ、大丈夫です。

──勉強なら得意だよ。

 なかなかに食い下がる人だ。

 タップする指が宙をさまよい、一文字打っては消し、また打っては消去する。

 続けて通知が届き、相手はアキだった。

──この前は楽しかったね。また会おう。

 DMではないので、全世界の人にさらけ出している。しかもこのタイミングで、頭を抱えた。

──他の男性とは会ってるの?

 続けてDMが届く。今度はTからだ。アキからのメッセージを見たのだろう。顔が引きつる。

──たまたま暇だったんです。本当にそれだけです。

 そう返すと、Tからは返事が来なくなった。

 アキには、そうですね、と一言だけ添えて返事をしたが、Tからも届かなくなった。

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