七章『そして日常へ HOMEOSTASIS』
宇津良氏に手渡された紙片にはやけに達筆な字で、
『明日の午前十時。岩魚研究所にて』
その指示に従って塔香、須田、宇津良氏は研究所跡の公園に来ていた。時間帯のせいか誰もいない。
公園の緑地地帯の中に小さな丘がある。その芝生で包まれた丘の上に『鳥』が立っていた。
「お久しぶりです。『
「久しぶりだな。『宇津良』二等兵」
敬礼し合う『鳶』と宇津良氏。
「……任務を果たして戻られたのですね。二度とお会いできないものかと思っていました」
「ああ、戻る気はなかったのだがな。……岩魚所長は?」
「戦争が終わるとすぐに行方不明に」
「そうか。……所長のことだ。山にでも籠ったのだろう」
沈黙。まるでお互いの空いた時間を埋めているような。
「どうでしたか、次元の狭間は」
「そうだな。いつか映画で見た極地のようだったよ」
どこまでも漂白されたように白い世界。通常世界から持ち込まれた航空機や船が点在して、海獣に似た怪物が徘徊していた。
「七か月以上歪みの修繕に明け暮れた。そして使命を果たして帰ってみれば七十年の時が過ぎていた」
当然、船出をした時は帰れるとは思っていなかったがどこかで淡い期待を抱いていたのだろう。
そして希望は打ち砕かれた。帰って来た故郷にはもはや自分たちの居場所も知っている景色もなかった。
「宇津良、今の私は何だと思う?」
宇津良氏には答えられなかった。
「職員でもない。大尉でもない。日本人でもない。『戸尾』でもない。……ただの『鳶』なんだ」
雲の切れ間から光が差し込み『鳥』を照らした。
「皆でそれを確認したのさ。耐えられんヤツも何人かいたがな……」
鳶が上空を見上げた。雲の合間で何人もの『鳥』たちが旋回している。息をのむ塔香と須田。
丘の頂上で名残惜しそうに鳶は辺りを見回した。
「大尉」
声を震わせながら呼びかける宇津良氏。
「何故、私は連れて行ってくれなかったのですか」
「ウズラは飛ばなくてもいい鳥だからだ」
「ふざけないでください! 皆から離れてただ一人孤独に日常を暮らすことが……!」
『鳥』たちが出発し、研究所が空襲で焼け、戦争が終わり、経済成長、変わりゆく景色、そして人心。
「私が、どんな思いで暮らしてきたことか! お願いします大尉、今度こそ────────」
「『
首を振って宇津良氏を制止する鳶。
「私も、あいつらも、もうこの世界に不要なのだ。だがお前は違う。頼む。我々のためにもお前はこちら側でまっとうな日常を、等身大の日常を過ごしてくれ」
「……大尉」
「二等兵、引き続き命あるまで自宅待機を命ずる」
「……はい」
互いに敬礼。元よりしわくちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして薄っすら涙を浮かべる宇津良氏。
「ではさらばだ」
鳶が翼を広げ、僅かな旋風を残して空の彼方へと旅立っていく。そして周囲を旋回する『鳥』たちと合流して空の果てへと消えていった。
見守る須田と塔香。敬礼のまま直立不動の宇津良氏。
「宇津良さん。帰りましょう」
塔香が口を開く。宇津良氏は小さくうなずいた。
雲は消えていて、あとに残るのは不純物の一切ない夏の青空。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
数日後のこと。塔香が家に帰ると須田がいた。
家の鍵を勝手に開けて入り込み、雑誌を持ち込み、TVをつけて弁当まで食っている。
「なにしに来てんのよお前」
「だってここ涼しいじゃん」
悪びれる様子もない。向かいのソファに座る塔香。
「そういえば宇津良さん。『ありがとう』だって」
「それ、オレらに言ったセリフか?」
「さあね。だけどもう出展無しのレポート書く気はないわよ」
だらりとソファに寝転がる塔香。引き続き須田は弁当をかっ食らう。
これまで通りの彼女たちの日常。
「真田―、これ頼むー」
「あいよー」
駆け寄り段ボール箱を持ち上げる剣次。
何時も通りのバイト。何時も通りの生活。
何も変わらない日常。姉の小言。日々のバイト。
ただ変わったのはあの峠坂。
崖の辺りで結構な地滑りが起きて頂上に向かう道が潰れてしまった。別ルートなどない。
もう、下から眺めるだけの場所になった。
いつの間に、赤い空に一筋の飛行機雲。
変わらない今日の夕暮れ。明日も同じで有ろう夕暮れ。
朱に染まりゆく空と影に隠される街角を眺めながら。
今日もまた家路を歩む。
『おわり』
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