第4話 向こうの島

行きついた先には、岩だらけの黒い島がありました。時折、寝ぼけたような鳥の鳴き声が聞こえてきます。

シロは険しい坂を跳ねとびながら登っていきました。慣れない登りでしたが、月が次に飛びつく岩の縁に光を伸ばしてくれていました。


そして、たどりついたのは広い草原でした。昼間の光に溶けたのか、雪はほとんどなく、冷たい風がごろついた岩の上をそっとなでていました。


「クワッ!だれだ」

歩きだそうとしたところを、いきなり襲われました。

翼を広げた大きな鳥が、鋭いくちばしでつついてきたのです。

「よそものだ」

「やっつけろ」

声に応じて鳥たちが集まってきます。たちまち、まわりを取り囲まれてしまいました。

「ちょっと、まっておくれよ」

シロは尻込みするばかりだったが、


グウ オォーォン!

突然、地面が震えるような吠え声がとどろきました。


あたり一面、慌てふためく鳥たちの羽音とかん高い鳴き声に包まれました。逃げまどうものが、次々とぶつかってきます。

シロは前も後ろも上も下も、わけがわからなくなっていました。


ふと気がつくと、目の前に鳥が置かれていました。

…それはおまえのだ…

耳もとで、懐かしいような低い声が聞こえました。

えっ?

振り返りましたが姿は見えませんでした。声の主は風下にいたのか臭いさえしませんでした。

シロはさしだされた獲物を、おそるおそる噛んでみました。

食いこんだ牙がとまることはありませんでした。それに、そのうまいこと。魚ばかり飲みこんでいた喉が大きくうねりました。


ウォーーォン!

久しぶりに腹の底から声が出ました。


満腹になって ほっと息をついたところで、足がガタガタと震えだしました。

『さっきのは何者?あの激しさと荒々しさ…』

もとの島で鉢合わせした鹿と同じでした。大自然の中で生き抜いていく力を、そのままからだに宿らせているような野生のケモノ。

『それにあの腹に響く吠え声はどうだ。あいつは肉を引きちぎる鋭い牙をもっているにちがいない。今も、どこかでこちらの様子をうかがっている』

考えると恐ろしくなってきました。

シロはへたりそうになる足に力をいれ、そそくさと坂を下り、海のあいだの道にのりました。来た時よりも、だいぶ細くなっています。

島に帰りつく前に波におおわれ、しまいに足もつかなくなってしまいました。ガボガボと塩水を飲みながら、なんとか泳いで渡りました。



「うわーびしょぬれ。それに海のにおいがする。魚でもとっていたのかい」

小屋に戻ったシロにチュウ公が聞きました。

「そんなことするかい。それよりおいら、すごいやつと出会っちまったんだ」

黙ってはおれず、向こうの島でのできごとを話しました。

「そんなケモノが近くの島にいるなんて。こっちに渡ってきたら動物たちはみんなやられてしまう」

小さなからだのトクトクという胸の音が早まっていました。

シロだってそうです。話したら楽になるだろうと思っていましたがとんでもありません。先ほどのことが、まざまざと思い出され、よけいにドキドキしてきました。


「でもさ、獲物をくれたりして、そのケモノは君を仲間だと思っているみたいだ」

「仲間だって…」

切り出されたチュウ公の言葉に、シロの頭の中のモヤつきがぬぐわれました。

『たしかにそうだ。あの恐ろしげな低い声には、どこかで聞いたような懐かしさもあった』

「それって一匹だけだったの?」

「ああ。はっきりとはわからないがな」

「じゃあ、寂しかったのかもしれないね」

「かもな」

適当に返事をしました。

あのケモノはたしかに親切にしてくれました。でも、寂しがっていたとは思えません。まるで、世界のあらゆる命と共にあるように、力強さにあふれていたのです。

『それにしても何者なんだ。牙の生えた野生のケモノ。わかっているのは、ただそれだけ』

強く打ちつづける胸の音をききながらシロは目をつぶりました。


次の日から、シロは夜ごとに向こうの島に渡るようになりました。とはいっても、いつも腹が減っていたわけではありません。

「こわくないの、ぼくだったら二度といかないけど」

「そりゃ、身震いするほどに怖いさ。けどな、あいつの息づかいをきいていると、生きてる感じがするっていうか、たまらないんだ」

首をかしげるチュウ公にシロは答えました。


初めて会った時もそうでしたが、ケモノは決して姿を見せませんでした。どうやっているのか、臭いさえも消しています。

ただ、命の塊のような激しい息づかいと、風のように走る足音がきこえるだけ。そしてシロが本当に腹をすかしている時だけ、獲物をつかまえてきてくれたのです。


それから数回、どっさりと雪が降ったあと、ようやくぬくぬくとした風が吹きはじめました。山の木々には、花のつぼみもちらほらと見られるようになり、海辺には、カニや貝も姿を現し、手近なところで腹をいっぱいにできるようになりました。それでもシロは島に渡りつづけました。 


海の道は、日によって現れる時間がかわり、広い時も狭い時もありました。中ほどまでいったところで荒波におおわれ、おぼれかけた時もありました。

幾度となく通ううちに気がつきました。波のざわめきが少しばかり遠ざかった時に、そろそろと小屋を出ていけばちょうどよかったのです。


… … …


草の香りがむせるように漂うようになったある晩のこと、島に渡ったシロの後ろ足に、突然、ロープが絡みつきました。

引きちぎろうと暴れていると、どこからかプスッと軽い音がして、腰にちくりと痛みを感じました。すぐにもからだが痺れてきて、シロはびっしりと貝がこびりついた岩の上に倒れました。

『何が起きているんだ』

混乱しながらも人間の靴の音に気がついて、そちらを見ると、風下の岩のかげから人間が現れました。近づいてきてシロの肩をおさえつけ、[静かにしとりよ]と言いながら重い首輪をつけてきました。

「助けてくれ!」

シロはか細い声で叫びました。ケモノが現れて、人間を追い払ってくれることを願ったのです。でも、あの荒々しい息づかいを聞くことはありませんでした。

『ということは』

シロの頭の中に、むかし見た光景がよみがえりました。

冷たい部屋で暴れていた犬は針を打たれ、二度と戻らない部屋に送られていました。


『自分にもその時が…』

けれど結果はちがいました。

人間は意外にも優しくシロを抱き上げると、波しぶきのとどかない岩の上に寝かせ、そのまま姿を消したのです。幸い、鳥たちのさわぐ草原よりずっと下だったので、つつきまわされることはありませんでした。

朝がきて、やっと痺れがとれました。足に絡みついたロープはほどかれています。重い首輪はそのままでしたが、歩くことに問題はありませんでした。


「なんだったんだよ」

腰に打たれた針のせいか、頭にもんやりと霞がかかったようです。早く帰りたかったのですが、海の道はとうに消えていました。シロはいくあてもなく急坂を登っていきました。


「はあ、ここは」

シロは目を見張りました。

はじめて見る光に満ちた草原は、まさに鳥たちの楽園でした。

いつも見かけていた黒っぽい鳥もいますが、向こうの崖側に下るほどに、大ぶりの白い羽根の鳥たちがたくさんいます。

『最近、草原が混んできていたと思っていたら、こんな様子だったのか』

バサッ!

近くにいた黒い鳥が、警告するように翼を広げました。その足下には草や枝がかさなっています。卵を産む準備をしているようです。

「べつにあんさんの邪魔をしようとしているわけじゃないさ」

鳥たちを怒らせないように、シロはそろそろと歩きはじめました。


たぶん、ケモノかシロがご馳走を食べたあとなのでしょう、時折、よごれた羽根が散らかっている所がありました。

「ありがとうよ」

シロはその羽根の持ち主にいいました。

これまで、食べたものに礼などいったことはありませんでしたが、耳の奥にこびりついているケモノの息づかいが教えていました。

…腹に入ったものは、命を分け与えてくれているのだ…

すぐ近くから、ケモノに見られているような気がしてなりませんでしたが、やはり、その姿は見つけられませんでした。

「わかっているさ。あんさんは昼間ののんびりした世界には現れない。けど、夕べはどうして来てくれなかったんだい」

見えない聞き手に、ぶつくさとぼやき、そうこうしているうちに、草原を一周してしまいました。

下を見れば、島に帰る道が伸びています。道は昼と夜の二回できていたのです。

シロはすばらしい海のながめを楽しみながら、ゆっくりと帰っていきました。


小屋には、チュウ公の姿は見えませんでした。太陽が高いところにある時は、ものかげで眠っているのです。

話し相手もおらず、疲れがどっとおそってきました。一眠りでもするかと、いつもの寝袋の上にからだを伸ばしたシロの耳がピクリと跳ねました。

ハチの羽音のようなブーンという音が聞こえたのです。壁のすきまから入りこむ風が『用心しろ』といっています。


『船だ。昨日の人間がやってきた』

臭いでわかりました。砂浜に船をのりあげ、小屋に近づいています。

妙な首輪をつけ、シロを放っておいた人間…いったい何の用があるというのでしょう。

短く息をすったシロは、からだを硬くして身構えました。


〔おーい、君。そこにいるんだろう〕

明るい声が外に聞こえました。

戸がぎしぎしと揺れています。バリバリと板をはがす音とともに強い風が吹きこんできました。

〔こわがらなくていいんだよ〕

砂の段のできた戸口に立っていたのは若い男でした。その手にもっている機械をシロにむけると、ピーと高い音が鳴りました。男がつけた首輪がシロの居場所を教えていたのです。


〔しかし驚いたね。干潮時間になって、浅瀬を渡ってもどってくるなんて]

言いながら男は、甘い香りのする黒い塊をさしだしました。以前、人間の子どもからもらったことがあります。


『ああ…それは心をとろけさすチョコレート。ずるいよ。そいつは反則だ』

むき出していた牙の間から、ポタポタとよだれが落ちました。

情けないことに、シロの目はチョコレートしか見えなくなりました。それが、空中をふわふわと飛んできて、口の中に入ってきます。

甘いかたまりが舌に絡みつきながらゆっくり溶けていきます。頭の芯もいっしょに溶けていきます。


じっくり味わい、ぺろぺろと口のまわりをなめている時に、はっと気がつきました。

シロはだらしなくごろついて、男に腹をさすってもらっていたのです。重い首輪を外されて、なんともいえずうっとりした気分…。


『何の用でもいいさ。よけいな心配など、どこかにすっとんでいけ…』





(注:人間用のチョコレートは犬種によっては中毒を起こすと言われています)





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