第2話 温もりの思い出

[いろんなことがあるさ。肝心なのは、温もりを分け合いながら一緒にメシを食っていけるってことだ]

初めて会った時、源ジイはそう言っていました。今思えば当たり前のことですが、それを聞いた時、シロはガツンと頭を殴られたような気がしました。

『この人間こそは、仲間と呼べるひとかもしれない』

そんな人間がいるなど思ってもいませんでした。


もちろん、源ジイに会う前までも、人間に優しくされたことはたくさんありました。

よだれタラタラの肉の塊をもらったり、ほこりまみれの毛並みにブラシをあててもらったり、時にはとんちんかんな服?を着せてもらったりしました。

シロは、勝手に人間を仲間だと思いこんでいました。

相手が寂しそうにうなだれていれば、そばに寄り添っていましたし、怪我をすれば傷口をなめてあげました。よそものに攻撃されている時には牙をむき出して守ってあげました。

けれど、それは大きな勘違いだったのです。


以前、一緒にいた人間の子どもと機嫌よく散歩をしていた時のこと。シロの怒りを爆発させる不埒ふらちなやつらが現れました。エサや縄張りをめぐって、ぶつかってくるならまだわかります。

でも彼らのすることに、納得できる理由などありませんでした。遠巻きに子どもを囲み、汚い言葉といっしょに石を投げつけてきたのです。

シロは自分より年下の仲間を守ろうと、鎖をひいて自由になりました。地面を蹴り、牙をむき出して飛びかかりました。

怒りは度を超えていましたが、冷静さは少し残っていました。それで警告程度に噛みついて逃がしてあげました。

[ありがとう、シロ]

戻ったシロに、子どもはしゃくりあげながら抱きついてきました。その感謝の言葉に嘘はありませんでした。


けれど、シロは捨てられたのです。

どんなことがあっても、人間に牙を突き立ててはならなかったのです。シロは仲間ではありませんでした。人間の思いに従わなければ捨てられる、生きているヌイグルミみたいなものでしかなかったのです。

翌日、シロは町はずれにある灰色の建物に連れていかれました。そこはまるで、犬たちのゴミ捨て場のようでした。あちこちの小部屋から情けない鳴き声が響いていました。そのうちのひとつに、有無を言わさず押し込まれました。

一緒にいた連中で、小さくて毛並みのよいものは、すぐに引き取り手が現れ、出口に連れていかれました。その反対に、病気もちだったり、シロのように大きめのものは、見向きもされませんでした。

そして先に入れられた順に、奧の部屋に連れていかれ、二度と戻ってくることはありませんでした。

あそこから漂ってきたツーンとする臭いの影響は、今でも少し残っています。そのせいで、鼻で世の中を探る力は幾分か弱ってしまいました。

そしてまさにシロがその部屋に連れていかれる途中、[ちっと、まってくれ]と、しゃがれ声が投げられたのです。


[いい、面がまえをしとる]

振り返ったシロに、しわだらけの笑顔がむけらました。

その時、自分がどんな顔をしていたかなど覚えてはいません。車と船にゆられ、その日の夕方には、この島に連れてこられ、鎖と首輪を外されたのです。



源ジイはたった一人、島で魚をとって暮らしていました。なぜ一人だったかはわかりません。でも、シロを連れて来たということは、どこかで心細さや寂しさがあったのかもしれません。とはいえ、ほとんど放っておかれたのですが…


最初、シロは鎖で繋がれていない生活に戸惑いました。走り出しても、まるで見えない鎖があるかのように、ぐっと止まってしまいました。

『このまま突っ走ったら、あとでひどいことになるのでは…』

繋がれていないことを納得しても、源ジイの顔色をうかがいました。でも、源ジイはまったく気にかけず、

[どうせなら、守らなきゃならない鎖に繋がれてみな]

どこかよそをむいて、わけのわからないことを言っていました。


砂浜にグワリと足がしずむ変な感じに慣れたころ、からだに刻まれていた鎖の重みは消えていました。

シロは思いのままに島の海ぞいを歩きました。高い口笛の音が聞こえたら、お決まりの岩場にいって魚の入ったバケツを運びました。

[その重さは、メシのあとのおまえさんの腹のふくれぐあいと一緒だぜ]

源ジイはよくそんな嘘をつきました。バケツが軽ければ、その分、自分の食いぶちを減らし、シロの腹をふくらましてくれていたのです。


海が静かにいでいる時には、釣り人が小屋を訪れました。

[一人きりの島ぐらし、寂しくないですか]

[人が恋しくなる時もあるでしょう]

ちょくちょく聞かれていましたが、源ジイの答えはいつも同じでした。

[わしは一人じゃない]

ぶすりと言っては、シロの背に優しい手を伸ばしていました。

夕べだってそうでした。

寝袋にもぐりこんだ源ジイは、となりに寝そべるシロにそっと手を伸ばし、毛並みにそってなでてくれていました。けれど、朝起きたらその手は冷たくなっていました。朝の決まりごと、無線機からの呼びかけにも起きませんでした。

一緒に暮らしはじめて三回目の初雪を見る前の晩に、源ジイの魂は、別の世界に旅だったのです。


本当のところ、シロは、あの細いからだにずっと寄り添っていたかったのです。

『でも源ジイは、死の扉をくぐろうとしていたおいらに声をかけ、この島に連れてきてくれた。だから、ここに残ることこそが、源ジイへのとむらいなのだ』

そんな気持ちがして、源ジイのからだを運びに人間たちがやってきた時、そっと小屋を抜け出したのです。


「あのひとは死んでしまった。けど、においは思い出と一緒に残っている。仲間がいなくなるというのは、よくわからないことだ」

いつの間にか、窓を照らす灰色の明るみは、暗いにじみに変わっていました。夜の静けさに、低いつぶやきが溶けこみました。


「食べたものが、おなかの中で消えてしまうのとは違うのさ」

「えらそうに」

ぼそりと言ったシロは、サラサラと降りしきる雪の音を聞きながら目をつぶりました。


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