第6話

 先生の目は、星と月と闇を混ぜ合わせ、特に変わったところのない人間の目に落とし込んだようだった。映像で先生の姿を初めて目にしてから、その印象は変わっていない。

 先生の一番古いその映像は、会の発足に際しての宣伝ビデオであり、先生は普通の服装をしていた。オーバーサイズのスポーツ用ジャケットにキャップ。背景は黒いだけだし、テロップもBGMもなく、簡素で短い映像。しかし、先生の言葉からは、静かな熱が伝わってきた。

『わたしは若い頃から、生きることに怯えていました』

 先生は、素直に言葉を紡いだ。

『わたしは恵まれた環境に生まれ、親切な人々の中で平和に生きてきました。しかしそれでも、自分が老人になった時、自分の人生を振り返って残念な気持ちになるのではないかと想像し、恐ろしくて胸が震えました。馬鹿げた考えだとわかってはいても、わたしは不安を振り払うことができず、生まれてこなかったことが最善だったのだと思わざるを得ません。生きる意味などありません。しかしわたしは、わたしに賛同してくださる人々とともに、少しでもよりよい生を送るために努力したい』

 それまでのハイルには、学校で習った偉いとされる人たちの言葉はひとつとしてピンとこなかった。しかし、先生の言葉は違った。両親が見せてくれた映像だということもあったが、ハイル自身が、先生の言葉を受けとめたのだ。先生がカメラに向かい、大げさでなく、さりげなく差し伸べた手に、ハイルは自分の仮想の手を伸ばしていた。

 そして現在。袈裟を身につけて頭から布を被った先生は、オンライン中継中の画面の向こうで、会の収支報告を行った。先生の横には、いろいろな数字を表示されているが、ハイルにはさっぱりだ。

 ハイルたちは、居間に家族そろってオンライン定例報告会に参加している。月一回の恒例行事だ。通話機とテレビとPCを兼ねている壁掛けの小さな画面を見つめる。

「皆様のおかげで、今月の収入は、十年前に会が発足してから最高額に達しました。ありがとうございます」

 先生の落ち着いていて中性的な声は言う。

「しかし、あまりよくないこともあります。ご存知のかたも多いと思いますが、陳述記憶売買規制法案が国会で審議されています。皆様、ぜひ、今週末の法案反対デモに参加してください」

 先生は計画されているデモの説明をして、オンライン定例報告会を終了させた。

「ハイル、デモの日は仕事休めるか?」

 父に言われて、ハイルはうなずいた。

「うん」

 先生は、仕事を休んででもデモに参加してくださいと言っていた。

「みんなで行くんだよね」

 両親と兄はうなずく。

「こんな法案が通っちゃったら、とんでもないことになっちゃうもんね」

 母の言葉に、父と兄はうなずいた。

「会の存続自体が危ういもんな」

「今までの努力が水の泡ってことになっちゃうよ。俺の仕事もなくなっちゃうし。あ、でも、会がなくなったら仕事する意味もないか」

「そうだな。会がなければ、ベーシックインカムで暮らしていけばいいだけだ」

「この法律ってさ、陳述記憶売買全面禁止なんでしょ? どうしていきなりそんな厳しくしようとするのかなあ?」

「商業利用は全面禁止だけど、陳述記憶のやり取りは、実は全面禁止ではないんだよ。犯罪捜査とか、特別な場合に限ってオッケーっていうことらしい。でも、これはただの推測なんだがな、陳述記憶を一部の人だけの特権にしようとしている気がするんだ」

「一部の人だけの特権?」

「そう。確かに、記憶依存症が社会問題化して大変だということも事実だが、もっとソフトランディングな方法もあるはずだ。それでもあえて禁止することには、なにか裏があるような気がするよ。もしかすると、記憶売買を富裕層だけの隠された市場にしたほうが、規制が少なくなって、より多くの利益を生むようになるのかもしれない」

「確かに、記憶売買に関しては、今までもいろいろな法律ができて、規制も厳しくなってるからなあ。その規制を取っ払いたい人が、偉い人の中にいてもおかしくはないよね。でも、記憶依存症患者が増えてるのに、規制緩和っていうのはおかしいから、あえて記憶売買自体を規制して、狭い世界の中で自由なものにしようとしてるってことか」

 母がパン、と手を叩く。

「なんにせよ、わたしたちには関係ないわ。今は、自分たちにできることを考えましょう」

 ハイルたち三人はうなずいた。

 ハイルは、父と兄が話していたことはよくわからなかったが、ことの重要さはわかっているつもりだった。現在は、陳述記憶も非陳述記憶も自由に売買されているが、陳述記憶の売買は禁止されてしまうかもしれない。そうなると、悟りへの道は閉ざされる。言語の知識や楽器の演奏の仕方やスポーツに必要な体の動かし方などの非陳述記憶をたくさん買ってダウンロードしても、悟りには一切関係ない。悟りには、エピソード記憶や思い出と呼ばれる陳述記憶が必要なのだ。

 禁止するなら、非陳述記憶にしてくれればいいのに、と思う。お金を持っている人は、非陳述記憶をたくさん買って、どんどんいろいろな技術を身につけ、階段を駆け上がっていってしまう。そして、そうでない人は、絶対に追いつくことができない。

 エピークもそうだ。エピークは、うんと若い頃、努力して売れる記憶をつくり、それを売って稼いだお金を元手にして、記憶カタログ会社を立ち上げたらしい。そんな話を兄から聞いた。成功するためには、きっと、いろいろな知識を買ったはずだ。記憶を売り、記憶を買う。

 前の定例報告会で、首相がこの法案について説明している映像を見せてもらった。

 細基レイ。四十八歳。二十代の頃から、妻であり、母であり、政治家であり、昨年、首相になった。

 彼女は、記憶のダウンロードによる人体への悪影響について話してから、カメラ目線で言った。

『規制に対する反対意見があることは承知しております。ほかの人々と記憶を共有できることには、素晴らしい面もあります。上手く使えば、様々な価値観や立場に対する理解を深め、人生を豊かにしてくれるでしょう。しかし我々は、脳に直接作用するものに対して、自らの欲求をコントロールすることができないのです。我々人類には、記憶をコントロールする能力がなかった。残念ですが、その事実はもう明らかです。我が国は、記憶依存症に苦しむ方々、記憶産業において搾取されている方々を無視しません。全力で助けの手を差し伸べます。これ以上犠牲者を出さないために、どうかみなさん、ご理解をよろしくお願いいたします』

 先生は、首相が人心掌握に長けていて、多くの国民は現政権を支持していることを危惧していた。首相は、見た目の派手さや金遣いの荒さなどが取りざたされてもいるが、批判されるというよりは面白がられている節があった。見栄っ張りなところも、支持者の目には、力強くて魅力的に映るという。

 法務大臣に野党の議員が質問している中継映像も見たことがある。父と母と兄は、まるでスポーツ観戦でもしているように、野党議員を応援していた。

「この質問している人は、先生の友達なんだよ」

 と、兄は得意気に教えてくれた。

「この人だけじゃないよ」

 と母が訂正し、父が続けた。

「この政党ができた当初から、先生は党首と親しくしてるらしいよ。今もその人が党首だ」

 とにかく、ハイルたち家族は、『記憶売買規制法案反対!』と書かれた手作りのプラカードを持ち、国会前に集まった。そこには、百人ほどの人々が集まっていた。静杯会の会員なのか、そうではない人たちなのかは、よくわからない。

 珍しく、トレーナーにパンツ、ニット帽という普通のいでたちをしたシュンリの姿があった。彼女の号令で、デモ隊は軽いダンスのようなステップを踏みながら進み始めた。

 道行く自動運転車の中から、人々が物珍しげにこちらを見ている。ちゃんと注目されている。ハイルは、ステップの効果もあり、楽しくなってきた。

 その時、声をかけてくる人がいた。見れば、エピークだった。

「やっぱりみなさんもいたんですか」

「久しぶり。あれ、あなた、アンドロイドなの」

 母の言葉に、しっかりとエピークを見てみた。それはエピークであり、エピークでなかった。

「新しいアバターです。生身で来る気にはなれなかったので」

 エピークは、自分にそっくりなアンドロイドを遠隔操作しているのだ。

「結婚式の準備はどう?」

「順調です」

「きみも法案には反対なんだね」

 嬉しそうに言う父に、エピークはうなずいた。

「もちろんです。僕も記憶産業で商売してますからね。まあ、法案が通ってしまったらしまったで、非陳述記憶の売買で生き残るすべを考えますが」

「俺らはもっと必死だけどね」

 兄はエピークのことが嫌いらしい。エピークは、結婚式の一件があっても、気まずそうな様子はない。

「にしても、参加者少ないですね」

 エピークは周囲を見回す。

「まあね。でもとにかく、頑張って反対するしかないよ」

 そう言った父に、エピークはうなずく。

「僕も同業者とネットで署名を集めたり、いろいろやってるんですよ。みなさんも、みなさんなりのやり方で頑張ってください」

 アバターを使うというのがあまりにお金持ちっぽすぎて、ハイルは気後れしてしまい、エピークに話しかけられなかったけれど、同じ方向を向いてくれて嬉しいと思った。

 その時、なにかを叫ぶ声が聞こえた。みんなの視線の先には、すぐ近くを徐行する車があり、中から人が身を乗り出している。

「カルト! 変態!」

 女性がこちらへ向けて叫ぶ。その車には、『記憶売買を規制せよ!』とペイントされている。

 気がつくと、同じような車や、『記憶売買規制賛成』の旗を立てたバイクが走り回っていた。

「カルトは帰れ!」

「記憶を買うやつは異常者だ!」

「記憶は人を堕落させる!」

 様々な叫びがハイルたちを取り囲む。しかし、ハイルたちデモ隊はステップをやめない。

 ハイルはただ戸惑った。どうしてそんなに怒鳴るのだろう。カルトってなに?

「自由を侵害するな!」

 エピークが声を上げた。すると、それに同調して、周りの人々も声を上げ始めた。

「権利を奪うな!」

「規制はもうたくさん!」

 ステップはとまり、行進もとまった。人と人の距離が狭まっていく。ハイルたち家族は身を寄せ合う。隣の人のプラカードが肩に当たる。

「どうしたんだろう?」

 近くで、言い争う声が聞こえた。人がたくさんいて、よく見えない。

「まずいな。じゃあ、僕はこれで」

 エピークはそう言うと、強引に人をかき分け、どこかへ行ってしまった。

「みなさん、少しずつ進みましょう」

 シュンリの声だ。姿は見えないけれど、彼女について行けば、きっと大丈夫だ。

 その時、わあ、と叫ぶ声が後ろから聞こえたと思うと、ハイルは勢いよく突き飛ばされた。


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