第30話 健在

 多幸な日々とは皮肉にも、体感として時間の過ぎ去る速度をせかかしてしまう。


 三月下旬。制服を着て、コサージュを胸に装飾し、賞状を授与する高校の卒業式の僅かながらにあった感情の起伏が、長期間の春休みと新生活の対応に追われおぼろげになりつつある最中、僕は病院に向かう。


 家から持って来た大学のパンフレットと、途中で手に取った病院のパンフレット。

 二冊を重ね、小児科病棟四◯二号室のベッドで、仰向けに両眼を閉じているシズの真上に掲げる。


「……誰?」

「天井、退屈かなって」


 呼吸器の白霧が少し早かった。

 右腕の血管に繋がれた点滴が落ちる。


「ああ……皆本か、おはよう」

「うん、おはよう」


 精一杯の挨拶を交わす。

 おはようとは言っているけど昼過ぎで、多分シズは寝たふりをしていただけみたいで、本来相応しくはないかもしれない。


「何、これ?」

「パンフレット。昔、身動きの取れなかった僕にシズがこうしてくれたんだよ」


 それは僕とシズが初めて出逢った日。

 当時は何の意味があったのか計り兼ねていたけれど、今なら分かる。


 無情にも天井を眺めるだけの僕に、シズが彩色を加えようとしたこと。睡眠にすら怯えていた一日をやわらげてくれたこと。


 とても些細な気配り。僕の生気のないだけの未来が、静けさの欠片もないシズのせいで一変してしまったんだと思う。


「……そうだった。私、憶えてるよ」

「僕も」


 どん底の日々になるはずだった。身体中が痛いとかそんな次元じゃなくて、時折ときおり感覚を失っているのに僕を蝕んでくる。


 何もかも諦めないと生きられない気がした。怪我だらけの醜態を晒しても構わないくらい無感情でいないと、どうしようもない恥に苛まれる。


 今も忘れられない、幼く達観した僕。

 それがまさか、最愛の相手との馴れ初めだとは思いもせずに。


 相手を相棒に変えても良いかもしれない。

 何はともあれ。人生を諦めようにも、恥に塗れても、僕は独りじゃ無くなった。


「……」

「ん……?」


 パンフレットを取り下げて、僕が密かに衣服の胸ポケットをまさぐると、シズが少し上体を起こそうとする。


「あ……——」

「——大丈夫、だよ。それより、何が出て、来るのかな?」


 点滴が外れないようにベッドガードへともたれ掛かり、公園などにある遊具の雲梯うんていの要領で両手を掴み上がり、シズが座り込む。


「ああ、えっと——」


 僕は一瞬だけ躊躇しつつも、すぐさま胸ポケットから三つの硬貨を摘み上げる。


 これもいつかの、シズの模倣だ。


「——はい、これ。何か分かる?」

「……百円玉だなって思う」


 シズもいつかの、僕の台詞の真似をする。


「うん、そう」

「ごめん……私、寝転んだ方が良かった?」

「いや、そこまで考えてなかったから」

「……そっか。ふふっ、それ、高校生のお小遣いにしたら少ないんじゃない?」


 点滴のガートル台を寄せながら、シズは僕の手にある三百円に微笑む。


「割と色々と買える額だよ」

「ふーん。例えば?」

「コンビニに行けば、卵焼きが二袋買える」

「えっ……——」


 当時小学三年生の全お小遣いをはたいたシズには申し訳のない事実だ。


 僕の思い付きの希望まで叶えなければ、余りのお金で飲み物やアイスでも買えただろうし、もしかすると他の誰かにもプレゼントしていたかもしれない。


「——まあ、皆本家のは高級品だから」

「ある意味プライスレスではあったかな」


 別の一般家庭の料理に値段を付けろと言われても、普通に困る。


 僕個人としては手元にある金額では不足するくらいの美味と一時を、中庭でシズと堪能することが出来た。

 本当に何ものにも代え難い、幼い僕らの可愛らしい口約束だと今も思う。


「ねぇ、皆本」

「なにかな?」

「……お外に行きたくなっちゃった」

「えっ、今から?」


 シズが照れくさそうに喋る。

 ガードル台をわざわざ動かしていたから、どこかへ行きたがっているとは予想がついたけど、病室を少し抜ける程度だとしか考えていなかった。


「多分近くに葵さんがいると思うから、この呼吸器を外せないか訊かないと」

「簡単に外して貰えるものなの?」

「それはうん、問題ないかな。寝てるときの確認みたいなものだから」

「……そう、なんだ。あっ、じゃあ僕探して来るよ」


 直接身体にくだを通したものではなく、その気になればシズ自身で取り外せるタイプだからと、少ない知識で納得する。


 それから僕はシズの病室から顔を覗かせて、まず通路に田宮さんがいるかどうか辺りを見渡す。そのまま数十秒程が経過。


「あっ、いた……」


 他患者の子の病室から、笑顔で手を振りつつ通路に出る田宮さんの横顔を見つける。


 多少の距離があるのに病院内で呼び掛けるのは礼儀に反すると、僕は近付く。


「あっ笹伸、シズのことかな?」

「えっあっ、はい、そうです」


 田宮さんは僕を発見するとすぐ、まだ何も説明していないのに心情を察知し一言交わすと、早歩きでシズの病室へと直行する。


 看護師さんの勘か、僕の顔色があからさまだったのかは不明だけど、こうして気遣ってくれる人がいるのは素直に嬉しい。


「シズ、どうしたの?」

「呼吸器、取りたいんだけど……」

「……どのくらい?」

「んー……皆本が満足するまで?」


 シズが戯けて笑いながら答えている。

 田宮さんが仕方なさそうに溜息を吐くと、意向に沿う形式で機器を外していく。


「笹伸、車椅子の場所分かるよね?」

「はい、借りて来ます」

「ごめん、お願い」

「大丈夫です」


 そう言い残して僕はシズを田宮さんに任せて、別室にある車椅子を取りに行く。


 理由としては、既に二足歩行が難しくなったシズの援助の為。


         ▽


 シズが自ら乗り込むと、田宮さんが点滴用のガートルを車椅子の後方に備え付け点検作業を行い、ハンドルを僕に託す。


「はい。これで問題はないはずだよ」

「ありがとうございます」


 車椅子のシート、骨子、両車輪、ブレーキなど、持って来るときに触れた感覚でも異常は特になかった。


「本当は私も付いて居たいけど、すぐ他の子を見守らないといけないから……二人で大丈夫かな?」

「それは——」

「——はい。大丈夫だよー」


 先に答えられてしまう。

 点滴を打たれていない手を挙げて、元気そうに答えるシズに僕は頷き同意を示す。


「……あんまり遠くに行かず、遅くもならないようにね」

「うんっ」


 そう言い残し、田宮さんが手を振る。


「葵さん、また後でね」

「気を付けてね」


 振り返すシズに合わせて、僕は車椅子をゆっくりと発進させた。


 病室から通路を右折してエスカレーター前まで向かう。少し長い道のりだ。


「あっ、シズー!」

「ん……?」


 途中。シズと遊んだことがあるらしき小児科の子どもたちが包囲する。


 身体に障らない配慮をしながら各々、勉強の成果やコレクションを見せびらかし、ピーマンが食べられるようになった報告、好きなピンクキノコのキャラクターのモノマネ披露とみんなの元気が溢れ返る。


 病院内で、十歳近く年齢の離れたシズに容赦なく絡む。どことなく微笑ましい光景。


「お兄さんも、こんにちは」

「えっ? ああ、こんにちは」


 何度かすれ違った記憶のある男の子が、律儀に挨拶をする。周囲を確認したけど、お兄さんとは僕で間違いないようだ。


「あれっ、シズって一人っ子だろ?」

「昔、ここに居た同級生の人らしい」


 するとあれよあれよと、僕にまで好奇の矛先を向けられる。


「へー」

「うん。小児科ではないけど、入院してたときからの知り合い、です」

「ほお? じゃあ訊くけど、シズって昔から子どもっぽいヤツなの——」

「——聴ーこーえーてーるーよー」


 子どもっぽいと評した子に、シズが冗談でうらめしく問い詰める。


「やばっ、逃げろー!」


 その掛け声と共に、周囲の子どもたちが一目散に立ち去ってしまう。姿を追うシズの嬉々とした表情が、儚くも目に焼き付く。


「可愛いね……」

「……うん」


 一部の大人以外には、僕とシズは家族絡みで親交がある友人ということにしている。

 婚姻の事実は校則に引っ掛かる為、高校の同級生や先生にも隠していた。

 知り合いを騙すようで忍びないけど、誰からも祝福されないのは分かっていた。

 だから一先ひとまず黙っていて、気付かれたら素直に認めるという方針を取る。

 運良く卒業まで隠し通せはしたけど、僕はともかくシズには不相応だ。


「行こっか」

「……そうだね」


 もっと正々堂々と、名前に反して騒々しく、たくさんの人たちからおめでとうと言われ、素敵なドレスや無垢な和装を着たまま披露宴への道標を照れ歩く。


 その姿は未だ実現出来ていない。


 この一年にも満たない期間。受験の合間を縫って、夏季は外気の透き通った湖畔で寛ぎ、秋季は紅葉狩り、冬季は数日遅れの初詣。


 小洒落たカフェで背伸びをした無糖のコーヒーを頼み、修学旅行で見学したセットが使われたらしい映画を鑑賞、一緒にショッピングモールも巡る。


 お互いの家でマンガ読み漁り、ゲームをプレイして、ドラマを観て、料理を作る。

 気が付けば疲れ果て、隣り合わせで眠る。


 シズを乗せた車椅子の後輪が心地良く回り廻ると、オルゴールのような淑やかさと紐付けされて、日々が甦る。


 けれどまだシズには行きたい場所があって、どこかは分からないけど僕にもある。


 二人だけかもしれないし、とてつもない引力で大衆を連れるかもしれない。ここにいるシズならやりかねない。


 だからこそ切実に思う。シズの魅力を僕だけのものにするのは、勿体ない。


 きっとまだ、他人と関わるきっかけが少なくて、時間が足りなかっただけ。

 幾つになっても変わらない愛嬌が、身近な人にしか伝わっていないだけ。


「皆本、ありがとー」

「……っ」


 シズのことに逡巡とする間にエレベーターを降り、中庭のベンチ付近に到着していた。


 道順を把握していたから、感覚的に意識もせずここまで来れたようだ。


「ごめんシズ、ぼんやり運転してた。大丈夫だった?」

「えっ、ああ、そうなんだ——」


 シズを預かっているのにあってはならなかった。前方不注意では済まないと猛省する。


「——優しい、操縦そうじゅうさばきだったよ?」

「いや、ごめん」

「……じゃあ、皆本は心の底から私を優しく運んでくれたってことでいいんじゃない?」

「……そう言ってくれると嬉しいけど、帰りはちゃんと意識的にするから」


 僕が車椅子のブレーキレバーに手を掛けると、お互いの顔の位置が平行にある。

 シズが流し目で気が付いてにこやか口が開かれると、すぐさまブレーキレバーに手を乗せる。


「シズ……——」

「——せーのっ!」


 僕の手の甲から覆い被さるシズの手がブレーキレバー共々、掛け声と一緒に力一杯引き上がる。


「……皆本がサボりました」

「いやだって、後から急に掴むから——」

「——なんか、そうしたかったんだもん」

「……」


 いつもの冷んやりとした感触が残留する。

 シズはあまり好んでいないのかもしれないけど、僕はこの不思議な温もりに小学生の頃から支えられている。


 連れ回され、補助して貰って、幾つもの約束を交す。骨格が分かりやすく繊細で冷ややかで、柔らかい地肌が愛おしい。


「さて、ベンチに移ろうかな」

「うん……あっ待って。そこ、間隔があって危ないかも」

「ほんと?」

「……ごめん、また僕のミスだ」


 焦ってブレーキを掛けようとしたせいで、シズが移動するためのベンチと車椅子の隔たりに気が付かなかった。


「うーん、なら……——」


 僕は窺って見る。するとシズが、いきなり誰かを迎え入れるように両手を広げる。


「——はいっ!」

「……どうしたの?」

「皆本に助けて貰おうかな……」

「え……——」


 病院内で困ったときは、遠慮せず恥ずかしがらず持ちつ持たれつ。僕が入院していた時期に学んだこと。


 そうやってシズや田宮さんや他の看護師さん、父さん母さんたちに救われて来たからこそ、今の僕がある。


「——分かった」

「うん」

「……誰にも見られてないかな?」

「見られても良い関係でしょ? 私たちは」


 確かにそうだ、と頷きつつ、僕はシズの両脇から両手を差し込み、肩甲骨の辺りで結び身体を寄せる。


「ふふっ良い匂いする」

「えっと……シズ、僕に捕まれる?」

「はーい」

「せーの」


 シズが僕の及び腰に手を回したホールドを確認して軽く持ち上げると、同時に脚まで絡め、比重を安定させてくれる。


 身体を全て預ける姿勢。点滴の管の長さ的に外れることはなさそうだけど、これは他に色々と問題だ。


「あのシズ。持ち方間違えてるよね? 横抱きのほうが良かった……」

「うーん、お願いしたの私だから、これで良いんじゃない? 温かいし」


 今日の幾つもの反省を胸に留めつつ、抱えたシズを慎重にベンチへと座らせる。


「ありがとー」

「いや……——」

「——皆本も隣、座りなよ」

「……うん」


 ベンチの空間を何度も叩きながら促すシズに倣い、腰掛ける。


「入学式はいつだっけ?」

「え?」

「パンフレット、持って来てた」

「ああ大学の……四月の中旬かな」


 シズ視点では一瞬しか映らなかったのに、本当に良く見ている。


「へー、卒業式から結構あるね」

「そうだね」

「なるほど。あっでも、制服姿の皆本が見れなくなるのはちょっと残念かも」

「……そんな風に言ってくれるの、シズくらいだよ」


 草木が微かに揺れ動き、まだ肌寒さ残る春風が身体を包み込む。


 背凭れて内臓に負担が掛からない体勢で、浅速呼吸をまったりとするシズが、どことなく心地良さそう。


「……私って、子供っぽいのかな?」

「……どうだろう。昔から知っていると分からないかも」


 長い間一緒に居れば、それだけ成長過程を見届けることになる。


 だからいきなり化けるような感覚じゃなくて、小学生のシズも今のシズも変わらず愛らしいのに、気付けば沢山の魅力を兼ね揃えていくみたいだった。


「結婚もしてるんだけどね——」

「——それだけじゃ、大人になれないね」

「うん、でも——」


 するとシズが僕との空白を埋めるように摩り寄ってくる。


「——私は皆本とこういう関係になれて、とっても嬉しいよ」

「……っ」


 身体の側面同士で支え合う。

 シズの表情は隠れてるけど、囁くように紡がれた言葉の声色に心が揺さぶられる。


「私はね、皆本を幸せにするつもりだったんだよ?」

「……うん」

「まあ、私の方が幸せにされちゃったんだけど……」

「お互いに、だよ」


 独りで黙々とした時間が減り、間接的に学生生活まで彩り、何よりこうして隣りに居てくれる。


 全て一人じゃ成し得ないこと。

 幸せにされてしまったのは、僕の方だ。


「……正直、色々諦めようとしたんだよ」

「諦め?」

「そう。勉強も運動も、中学三年生からまた通学することも、同級生の友達が出来ることも、お嫁さんになることも……皆本のことも、他にもいっぱいあるよ」

「……」


 人生は選択の連続だと言う。

 当然なくなく切り捨てる別れ道もあって、そこに留まりいたいこともある。


 けれどシズから明確に、諦めるなんて言葉を聴くのは意外というか、いつも弱音を吐かないから、僕は聴き入る。


「でも振り返ると殆ど実現してるんだよ。皆本のおかげだね」

「そんな大袈裟なことじゃ——」


 シズの長めの髪が、僕のなで肩に掛かる。

 衣服越しなのにくすぐったくて、避けられ無くて、代わりに言葉が詰まる。


「——ほんと。同い年の男の子が入院して来たって聴いて、逢いに行って良かった」

「同い年……入院……」


 その隙にシズが満足そうな笑みと共に、両脚をブランコに乗って上下に振るみたいにしながら回顧している。


 僕はこの話をベッドで仰向けのまま、田宮さんから伝えられていた。


 それが全てのきっかけ。多分だけど初めて、シズのことを意識した日だ。


「私。殆どこの病院で入院してたんだけど、同い年の子って一人も居なかったんだよね」

「えっ、一人も?」

「そうだよ。小児科に限定するなら今まで」

「……そんなことあるんだ」


 長期入院する子どもは減少傾向であったとは言え、かなり稀有だ。


 小児科という、基本的には子どもに限定される診療科で同年代がいないのはどれくらいの確率なのか想像も付かない。


 でもそういえば、僕が小児科を案内して貰ったとき、シズと同い年の子は確かにゼロだった気がする。


「だから別の診療科だけど、同い年の男の子が入院して来たらしいって葵さんから聴いたときになんか、凄いドキドキした——」


 胸に手を当て、シズが話を続ける。


「——なんだろう。いきなり入院するんだから、その子の容態に良くないことがあったんだろうって不安と、意外と元気そうにしてるんじゃないかなって期待——」


 恐らく大方の予想が付いた上で、希望的観測の、仄かな期待だったんだと思う。


「——あとは単純に私の容態が芳しくなかっただけかもだけど、一番はね……」

「うん」


 閑静が歓声のように錯覚する。


「……初めて同い年の子と、しかも男の子と話せるんだって、居ても立ってもいられなくなっちゃった」

「……っ」

「こっそり逢いに行って、正解だったよ」

「シズ……」


 シズの髪の毛の感触が遠のいて行く。

 僕は即座に、その方角へと顔を向ける。


 勿体ぶるシズの悪戯な顔付きが映る。色白の地肌に天然物の豊富な和やかさが板に付いた目尻や口角が華やかに振り撒かれる。


 だけど丸餅のような弾力のあった頬が年齢を重ねるにつれ引き締まり、シズが大人びたのが一目瞭然。


 いつしか早く大人になりたいと言わなくなったシズは、法律上は子どもかもしれないけど、既に第一歩を踏み出し、遥か先を行く。


「学校に通えても気を遣われてばかりで、同い年で友達って呼べる子もいなくて、それなのにその人は……皆本は、友達とか相棒とか恋人とか沢山の関係性を産んでくれた。でも一つにまとめると、きっとね——」


 胸に当てられたシズの両手が、僕を包む。


「——私の運命を、変えてくれた人」

「運命……」

「そうだよ。皆本が一緒だから、怖いけど、偏見を持たれるけど、最悪嫌われるかもしれないけど、やってみようって」


 僕の左脇腹付近で交差させて、ゆっくりと力を込め、なす術もなく吸い寄せられる。


 加減を忘れた愛情が伝わってくる。

 器用な温もりと、けたたましい脈動。


 歓喜と恐怖が入り混じる。

 されどシズは、僕へ流麗に微笑む。


「皆本が居るから、私は独りにならなかったよ。いっぱい遊んだし、同い年の友達も出来たし、憧れの関係にもなれた……ほんと、恵まれ過ぎてどうしようかなって感じだよ」


 戯けた表情が僕の正面に煌めく。

 包んでいる両手が忙しなく身体を揺らす。

 まるで何かをせがむ御転婆おてんぱむすめのように。


「……恵まれて困るのは、分かるかも」

「皆本も?」

「うん。今も、我慢しようか迷ってる」

「我慢? 何に対してかな?」

「……シズに対して——」


 僕が吃ってしまう前に、シズが遮る。

 何度も積み重ねた日常の一部分。


「——なら必要ない! おいで、皆本」

「……っ!」


 空元気な大声に触発され、抑制していた僕の感情が堰を切ったように溢れ返り、危うく抱き締め殺しかねないくらい不格好に、シズの全てを包もうとする。


「おっと、危ない」

「……ごめん、もっと格好良くしたかったんだけど——」

「——ううん。これが、良い」


 僕の背中をあやすように二回叩く。

 きっと世界中でシズにしか受け入れて貰えないくらい下手な抱擁。


 丸みを帯びた背筋を撫でる。

 筋肉隆々とも骨格が太くもない小柄な体型だけど、何故だかとても逞しい。


 癒し効果のある、いつも遠いシズの匂い。

 微かに病院の消毒液の香りも残る。


 体勢的に見えないシズの表情を想像する。

 もしも困り顔で微笑んでいるのなら、嬉しいことに僕と同じ顔色だ。


          ▽


 ほのぼのとした時間を過ごした僕とシズは、病室への帰路に就く。


 小児科近く一階のエレベーター前通路。

 そのまま辿れば憩いの場へ続く道のり。

 シズを乗せた車椅子の車輪が時を刻む。


「昔は逆だったね」

「そうだね。ここで僕が車椅子に乗せられて、シズが運転してくれた」

「皆本の怪我を悪化させないようにって緊張してたの、今でも思い出せる」

「凄く上手だったよ」


 安心安定の患部に優しい運転を、今日のことのように憶えている。


「あっ、長居し過ぎちゃったかな?」

「なるべく早くって言ってた気がする……」

「葵さんに怒られるかも」

「かもしれない、そうなると怖いね」


 僕もシズも田宮さんに怒られたというか、雷が落ちるかのような的確な注意をされた経験がある。


 普段は温厚な人だからこそ、逆鱗に触れると恐ろしい。


 あとこれはシズが教えてくれた余談だけど、田宮さんは一度強く叱った子には、名前が呼び捨てに変わるらしい。


 本人が気付いていないみたいだから内緒にしようと、お互い唇に人差し指を添える。


「寄り道せず……私の病室に戻ろうか?」

「名残惜しいけどね」


 子どもたちの盛り上がる声が響く。後で注意されるかもだけど、腕白わんぱくさを惜しげ無く発揮する楽しげな声質には心地良さがある。


 憩いの場への通路の途中にあるエレベーターを経由し、僕とシズは真っ直ぐと帰る。


 ブレーキレバーを今度こそ僕が上げ、点滴関連は田宮さんが戻って相談するとして、シズをベッドに移動する。


「……なんだか私、花嫁さんみたいだね」

「抱き方は同じだからね……」


 横抱きしながらベッドへと運んでいる最中、シズがのんびりと呟く。


「皆本、どうしたの」

「えっ……」

「今、強張ってた気がする」

「それは——」


 僕はシズをベッドの上に乗せる。身体的負担が軽減されるのか、双眸を閉じて夢心地な趣きをする。


「——気のせい、だよ」


 そう言って僕がシズに布団を掛けようとすると、それを拒むように寝返りを打ち、見据えられる。


「ねえ、皆本——」


 点々とした瞬き。

 弾みを付けようと吸い込まれる外気。

 胎児のように丸まった身体から一筋、シズの左腕が伸び、小指だけを立て僕に照らす。


「——いつか。結婚したこと、みんなに堂々と言おう……早く伝えたいよ、私を幸せにしてくれる相手と巡り逢えたって」

「シズ……」

「皆本の魅力を、知らしめないとね」

「……僕だけじゃないよ」


 これは僕とシズの、欲張りな願望。


「そしたらね、二人でいっぱい知らない所に行こう。海の向こうもいいし、山の天辺でも良いなー。もちろんこの街を制覇するのもいいよ。

 疲れたら一緒に暮らすようになってさ、よく分からないけど夫婦らしいことを試してみたり、懐かしいこともしよう。

 それから私、子どもが欲しい。出来れば二人以上。皆本も私も一人っ子だからもあるけど、きょうだいが居て、遠くでも支え合える関係になるっていいよね。

 あとは……お母さんみたいな、お母さんになりたい。怒ると怖いけど、お父さんと私のことを大切にして、皆本のことまで迎え入れてくれた、優しいお母さんに。

 他にも色々、一緒にやろうね。皆本」


 将来的に叶えられるかどうか、果てしなく難しい願望。それでもシズは僕に告げる。


 そのことをシズ本人が一番分かっている。

 治療方法も不明な合併症。

 余命宣告なんて気休めで、現状は会話が交わせることすら奇跡的らしい。


「うん……無理って言う人が大半だよね」

「いや、シズ——」


 するとシズがベッドガードを利用して、強引に座る体勢に変える。どうってことないと虚勢を張る笑みと共に。


「でもね、不治の病なんて無いんだよ」

「……」

「治し方がまだ見つかっていないだけ。その前に身体が、疲れちゃうんだって」


 シズの辿り着いた一つの答えか、先人の受け売りか、または両方かもしれない。

 それは希望の要素が溢れていると見せ掛け、同時に残酷な側面も有している。


「だからね今度。私の体力があるうちに、新薬を試そうと思ってる」

「新薬……」

「うん、その為にまた入院って形を取ったから。いつか……同じ病に挑む子のためにも、やってみようって」


 治す知識を得るためのシズの決断。

 不治の病なんて例えを消失させる一日が来ると信じての選択。


 成功確率は不明。もしかすると始まる前から決まってるかもしれない……早まっても、しまうかもしれない。


「皆本……」


 シズは再度、僕に小指を差し出す。


 叶えられるかどうか艱難かんなんで、かといって綺麗事では応えられないと躊躇していた。

 けれど僕の正直で素直な感情に任せ、シズの思いに向き合えばいいだけだった。


「シズ——」


 僕とシズの小指同士が絡まる。

 約束の手法としてはあどけないけど、相手が居ることは、この上なく幸せな事。


「——約束。僕からもいいかな?」

「……えっ」


 叶えられるかどうかなんて、関係ない。


「シズが言ってれたの、全部やってやろうよ。なんなら増やしてもいい」

「……」

「シズとの約束や希望が、いくらあっても良いから——」

「——皆本ーっ!」


 歩行が困難な身体、病のこと、点滴のチューブ、車椅子、ベッドガード、騒ぎ厳禁。全てをかなぐり捨てて、シズは僕を捕まえる。


「皆本……大好き」

「シズ……」


 僕の身体にしがみつき、一向に離れる気配を見せず、寧ろ左右に揺さぶってくる。


 自然と僕も翻弄されてしまう。後で注意されるとか、怒られるとかはもう、この瞬間の高揚感の前に無力だった。


 迷える僕をどこかに連れて行く。

 佳麗かれいなシズは今日も健在だ。


 お互いの気持ちを確かめ合った一日の最後もまたね、と言って病室を後にする。それが僕とシズが生前に交わした最期の会話。

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