第29話 二輪

 リュックを抱き、辺りを見渡す。

 水色が基調のカーテンにシングルベッド。

 双子葉類の植物が描かれたクリームカラーのカーペット。

 枕元にはサメのぬいぐるみ。


 木棚には少年漫画と少女漫画が半々で、それぞれ番号順に並ぶ。


 整頓された学習机には未だ中学時代の教科書が並び、そこには僕たちの写真も立て掛けられている。修学旅行の大切な思い出だ。


 手短な所には袋に入ったチョコチップクッキーが盛られた木製皿に、麦茶をれたガラスコップ二つが対面するようにある。


 一つが僕、もう一つがシズ。

 つまりここは、シズの部屋だ。


「……実感がない」


 ベッドに背中から倒れ込みつつ、シズがぼやく。どことなく恍惚こうこつとしている。


「そうだね……」


 お互いが十八歳になった日。

 年齢の若さ、住居関係の不手際。他にも色々と憂いていたけど、比較的あっさりと婚姻届は役所に受理された。


 もちろん僕とシズだけの力じゃない。

 そこに至るまでの確認事項。

 現実を突き付ける厳しい意見。理解を示しつつも、敢えて簡単に頷いてくれなかった両親同士のおかげだ。


 当然だけど、全てにおいて好意的ではなかったと思う。


 僕はまだ高校生で受験も控えていて、手に職も就いていない、扶養ふようされている立場。

 シズはいつまた倒れても、不思議ではない容態だ。


 普通なら賛成なんてするはずがない。

 短絡的思考だと言われたらそれまでだ。


 おまけに僕の説明が自覚出来るほど不十分で、シズが身振り手振りで、当人同士以外に伝わるのか怪しい感情をまくてた。


 計画も段取りも滅茶苦茶。大層なものも無かった。納得行くはずなんてない。


『あなたたちの、好きにしなさい』


 そう淡々と母さんが告げ、父さんが毅然きぜんとした振る舞いをする。


 肯定して貰えたのか、はたまた親子の縁を切る勘当の台詞なのか分からなかった。


 後日。シズの両親を含めた話し合いの機会を設け、今度は双方の共通認識として、母さんが説明してくれた。


『あなたたちの現状に一般論を当て嵌めたら認められない。可能な年齢というだけでまだ若くて、ましてや高校生と学校に通えないくらい体調の優れない

 これからの社会を知らない。お金で悩んだり、悪い大人にも出会うと思う。誰がを憎んで、精神的に病み、信頼していた人に裏切られるかもしれない。耐えられるかも、分からない。

 どこに責任があるのかも、逃げ場所があるのかも、家族がどういうことなのかも、母さんたちよりは知らない。

 そんなあなたたちの結婚を少しでも認める親は、世間的には親失格だと思う……でもね。シズちゃん、笹伸。

 二人のことを。これまでの関係性を知っていて、喜べない親は、ここにはいない。だってね。二人とも今も一緒にいるけど、本当は凄く難しいことだと思うの。

 同じ病院に入院していただけで診療科も別だし、元々学校も違うし、そもそも男の子と女の子だからどこかで離れちゃうかもって。

 でも、全然そんなことなかった。

 お互いに疎遠になるタイミングは、たくさんあったはずなんだよ? 笹伸がシズちゃんの面会に行かなかったり、逆にシズちゃんが笹伸を遊びに誘わなかったりね。

 なのに二人があの手この手で、いままで繋ぎ止め続けて来た……出来ないよ普通。だから今更、見守ってた母さんたちが二人を阻むようなことは絶対にしない。

 シズちゃんと笹伸の好きにしちゃいなさい。何も知らないくせに、ただ文句を言ってくる他人がいたら戦うからね? ……でも流石に心配はするから、お節介はまだ焼かせて? これからもずっと、いつまでも、母さんたちの子どもなんだから』


 僕とシズの頭を撫でる。あんまり加減してくれない力強さがとても懐かしい。そういえば父さんはこれ以上に下手だったことを思い出し、複雑な感情に微笑む。


 僕がシズとの結婚を望んだのはきっと、父さんと母さんみたいな関係になりたかったからだと、ようやく思い当たった。


 そうして宣言通り。余計なお世話と言われることを恐れず、色々助言をしてくれて、こうして現在に至る。


「みなもと……」

「えっ? ああ……」


 ベッドの上でシズが苗字を呟く。

 反応してしまったけど、抑揚的に僕を呼んでいる訳じゃない。


「……やっぱり良い名前だね。エネルギーが詰まってそうな感じがする」

「そ、そう?」


 生まれてからずっとこの苗字で、僕からすれば当然過ぎて理解しにくい。


「……すごく今更なんだけどさ、呼び方、変えた方がいい?」

「えっと——」

「——私も、おんなじになっちゃったし」

「……」


 シズの言葉を借りるなら、実感がない。


 無事婚姻関係になれて、心底嬉しいはずなのに浮ついた気持ちにならないし、どうしようかという不安と緊張が付きまとう最中さなか、何も出来ず時間が過ぎ去る。


 シズと一緒に居られる日々が、口約束だけじゃなく形式的にも結ばれていて、もう既に僕の手に余るというか、幸せの置き場に困るというか。これ以上望めない。


「多分……無理して変える必要はないよ」

「そうかな?」


 長閑な日常ですら、こんなにも狂おしい。


「同い年の子から下の名前で呼ばれないから、僕が恥ずかしいし——」

「——分かった。変えない、よっ」


 告げながらシズは上体を起こし、ベッドから離れると僕の真横で正座をする。


「……ふっふ——」


 悪巧みが内包された微笑み。

 どんな提案をしてくれるのかな。


「——ねえ、皆本」

「うん、どうしたの?」

「今日は、近くにある公園に行きます」

「公園……」


 久しく行ってないと思った。

 というより、遊ぶ友達が居なくて機会すらなかったと形容すべきかもしれない。


「……実は皆本が来てくれる前から、色々と準備しててね——」

「——ああ、うん……」


 何となく勘付いてはいたけど内緒にする。


「いいかな?」

「……」


 答えは訊ねられる以前から決まっている。

 僕はゆっくりと頷いて、シズに応えた。


「もちろん、今日は何をするのかな?」

「ほんと!? じゃあ私、支度してくるから、皆本は先に玄関先で待ってて。すぐに済ませてくるから」


 慌ただしくシズが立ち上がると、華麗に富んだ所作で足下にあるガラスコップをかわし、薄長袖の白桃色ブラウスが引き締まる。


 同時に伸ばし始めたという発展途上のセミロングヘアが翻り、ネイビーのロングスカートが動きに対して窮屈だ。


 そういえば。支度が必要なら、人手があった方がいいんじゃないだろうか。


「えっと、僕に手伝うことはないかな?」


 部屋の扉を半開きにして止め、シズは柔和な笑みと共に首を振る。


「大丈夫だよ。ありがと、また後でね」

「うん……——」

「——あっそこにあるお菓子、適当に持って帰っていいからね。コップの中のお茶はそのままでもいいよ」

「……了解」


 シズは扉を閉めるとき、さりげなく空いた左手を僕に振ってくれる。遅れて手を挙げ返したけれど、シズに見えただろうか。


 曖昧なまま僕は麦茶で喉を潤し、仕切り直す。


 そのままシズの部屋から通路に出る。

 会話の流れから玄関とは逆側のリビングに向かったらしいから一目見ることも考えた。


 けれど何やら企図していて、僕にはまだ内緒のようだから、ここは素直に惑わされようとスニーカーを履き、待つことにする。


 時間が掛かりそうなので、外出中のシズの母親宛てに、近くの公園に向かう旨意をスマホのメッセージで送信する。


 ここに来たときに、シズの母親は買い物だと言って入れ違う。けれど多分、僕とシズに気を遣ってくれたんだと思う。


「ごめん時間掛かったー」

「ううん、そんなことないよ」


 ファスナー付きのトートバッグを右肩に掛けたシズが、通路を早歩きしてやって来る。不思議な荷物、仄かな化粧、前髪の分け目の比率が異なり、かぐわしい香りもする。


「どうしたのー?」

「……いや、何でもないよ」

「そう? よし、じゃあ行こう。私の準備も完璧だし」

「うん」


 美麗になったシズへ、僕は頷く。

 玄関扉の取手を握り、シズが淡緑のシューズを履いているのを確認し、六一九号室と外とを繋ぐ扉を開く。


 鍵を探して手に持つシズ。

 僕たちは共用廊下を伝いエレベーターまで向かうと、下矢印のボタンを押す。


 自動ドアが開かれるとすぐ乗り込み、他の住人も居たので、ぎこちない会釈すると、神妙な雰囲気に沈黙。


 下降する駆動音がいつもより反響する。

 そうして二つの異なる音域のベルが鳴る。

 到着を告げる音色だ。


 率先してシズがエレベーターの開ボタンを無言で押す。僕も邪魔にならないようにシズの背後ろで待機する。


「……」


 同乗していた住人さんが降りて行く。

 そして一歳くらいの子どもを抱いている母親と思しき女性が、少々手間取りながらも後に続く。最後に僕とシズが降りた。


「……」

「……シズ?」


 一階のエントランスでぼんやりとしているシズが気になる。


「……んっ? ああ、大丈夫だよ。ちょっと考え事してただけだから」

「考え事?」


 防犯も兼ねた厳重なマンション出入り口の扉が、両端に引っ込んでいく。するとシズは僕よりも大きな一歩を踏み振り返ると、明らかに家用の物では無い鍵を見せびらかしながら和やかに言う。


「じゃあ私。ちょっと取りに行かないとだから、また待ってて」

「えっ……ああうん、わかった」


 公園とは別方角へと歩いて行ってしまう。そういえば中学生の頃に似たようなやりとりをしたことを、不意に思い出す。


         ▽


 花壇から覗く色取り取りのガザニアが微風にさらされ、仲良く左右に揺れている。


「待ったー?」

「ああ、うん……?」


 花々の近辺にある日陰で待つ僕の元まで、シズの明快な声音と砂石させきを弾く靴音、そして発条ぜんまいを捻ったときのように自転車の車輪が回り廻る。


「何してたの?」

「あ、いや、涼んでただけ——」

「——あー、今日は暑いもんね」

「……それより、何で自転車?」


 水色の塗装を施した、シズが中学時代に登下校用として乗っていたものと同じだ。


「とりあえず公園に行ってからかな?」

「……うん」


 シズがその自転車を手押しで進める。

 僕は戸惑いつつも後追う。


「……」


 シズは自転車に跨り、運転はしない。

 誰かから禁止されてはいない。でも、ここ最近は視界が眩み出したらしく、公道では自制している。


 だからわざわざ持ち寄り、公園にまで向かう理由に僕は、おおよその想像が付く。


「着いた、ここだよ」

「結構広いね」


 具体的にどのくらいの広大さなのか例えようがないけど、普通にサッカーやドッジボールが出来る砂地が半分以上の面積を占める。


 滑り台やブランコに鉄棒も設置され、小雨が凌げそうな屋根付きベンチもある。

 金網フェンス付近には樹木や灌木かんぼくが並び、高さで超える大黒柱のような時計が見守る。

 清掃整備も行き届いているようで、心なしか白砂な燦々さんさんとしている。


「あれ、誰もいないね——」


 時間帯の影響か、僕とシズ以外には誰もおらず貸し切り状態なのが、申し訳なくなる。


「——でも、今回に限ったら丁度いいかも」

「シズ……」


 寂しそうな表情のまま、珍しい事を言う。


「よしっ。皆本、練習をしよう」

「練習?」


 シズがスタンドを蹴り掛けながら答える。


「うん、自転車に乗れるようになる練習……高校生になって、周りの目を気にしてやらなくなったって、皆本のお母さんから聞いた」

「……」


 それは、本当だ。

 自明の理ではあるけど。成長期を迎え、大人と対して変わらない体格の僕が、自転車に跨るたび過去に怯えて倒れ続ける姿なんて、見苦しいだけだ。遠慮がちにもなる。


 でもまさか、母さんが知っているとは流石に思わなかった。一応は隠していたつもりだったから。


「……私がいる今なら、皆本も試しやすいんじゃない?」

「それは——」

「——……一緒にやろうよ」

「……っ」


 シズが左手を差し出して、僕を待つ。

 瞬く灯火のような静寂、清らかな視線を注ぎ、初めて逢ったときに彩りをくれた笑顔が、今も眼の前にある。


「どうかな?」


 提案に乗らない理由がない。

 細やかに僕は、右手を差し出す。


「……うん、お願い」

「はいっ決まり!」


 僕の右腕が細枝のようにしなる。

 シズが無邪気に揺さぶってくる。


「じゃあ背中にある荷物預かるよ」

「あ、ありがとう」

「私はベンチで休んでるから、存分にやっちゃってよ」

「うん」


 期待に応えられるか不安で、曖昧な返事をしてしまう。手と手が決起により離れる。


 屋根付きベンチの方へ向かうシズ。僕は自転車のスタンドを外してその後を追う。同時に一つ疑念が浮かび、訊ねる。


「そういえばこれ、シズの自転車だよね?」

「うん。それがどうかしたの?」

「いや僕、何回か倒れる自信があるから、壊れるかもって——」

「——ああ、大丈夫だよ。寧ろ壊れるくらい使う方が自転車も本望じゃない?」


 問題ないとシズはベンチに二つの荷物を並べて置いて、自身もその隣に座る。


「『さあご主人、お手並拝見といこうか?』……なんてね」

「それ、なんの台詞?」

北見きたみ 莉瀬りせの主演ドラマ」

「ああ……設定がよく判らないやつだ」


 結局。僕はそのドラマを一度も視聴していない。というより利権関係の影響で、以降の再放送や配信を一切行なっていないから、シズの語りのみでしか作品を知る術がない。


 ちなみに北見 莉瀬さんは未だ現役のアイドルで、グループの最年少から最年長になった今も活動中らしい。主演を含め役者陣には落ち度がなく、応援している人は嘆いているみたいだ。


「えーと。要するに私は、いくら時間が掛かっても、今日じゃなくても、自転車を乗り回す皆本が見てみたいと思いましたっ」

「そんな大層なことじゃないけど……」


 僕がまぎれも無い事実を呟くと、どうしてかシズは首を振る。


「皆本と私にとっては、大切な歩みだよ」

「……」


 その瞬間、記憶が甦る。

 当時は僕と変わり映えのしない身体の大きさをしたシズが抱き留めてくれた、リハビリの成果を披露した日。


「うん、そうだった」


 忘れもしない鼓動と温もり。

 僕以上の歓喜、追い掛けた背中。

 昔のシズも、今のシズも静かに鼓舞する。


「……っ」


 僕は息を吸い込み、自転車に跨っていく。

 これはきっと、あのリハビリの続き。

 見守ってくれるシズに、また応えたい。


         ▽


 消毒液を垂らされて右肘が縮こまる。

 隣に座るシズが水分を拭うと、透かさず僕の傷口に絆創膏を貼る。


「はい、終わったよー」

「ごめん」

「謝ることないよ。挑戦した証なんだから」

「……ありがとう、シズ」


 シズは素知らぬ表情のまま、救急用の品々が入った巾着袋をトートバッグにしまう。


 一時間くらいだろうか。僕は自転車に跨っては倒れ込む工程を繰り返した。恐怖心自体は以前より緩和されているけど、身体が拒絶反応を起こしてしまう。結果として擦り傷だらけになる。


「皆本、お腹空かない?」

「えっ、まあ少し……」


 シズが自身のお腹を軽く叩きながら訊く。時針と分針は共々、頂点には達していないけれど僕の胃袋は切なく嘆く。


「なら早いけどお昼にしよう」

「シズがいいなら、賛成だよ」


 昼食分の持ち合わせはあるはずだ。僕は以前、すっかり忘れていたファミレスに行く事を提案しようと思ってみる。


「ちょっと待っててね——」

「——ん、えっ?」


 するとシズはトートバッグから、青白が波打ちを表現している意匠の風呂敷を取り出すと、僕との僅かながらの空間に飾る。


 堅く閉ざされた結び目を解くと、正四方形の二段階層の弁当箱が二つ披露される。同色の綺麗な隣り合わせで、一つの風呂敷に収まるよう互いを支えている。


「これは——」

「——ふふっ、私が作りました……といっても、お父さんとお母さんにも手伝って貰ったんだけど……」


 見せ付けるように両手の残像を利用して、弁当箱を引き立てるシズが、自慢げと自虐を織り交ぜながら語る。


「凄い、手作り?」

「一応ね。ほらほら皆本、開けてみて」

「いいの?」

「もちろんっ!」


 左右に揺れて急かすシズに当てられて、僕の受け取った弁当箱のふたを慎重に取る。


「……」


 言葉がつっかえる。

 右隅から、ベーコンに巻かれたヘタのないミニトマトが串刺しで二つ。横幅に適応させた小さなハンバーグがシリコンカップに詰められ、同じようにして唐揚げ、きんぴらごぼう、ほうれん草のおひたしがある。


「下の階もあるよっ」

「うん」


 料理が崩れないように上層を切り離す。

 下層には白米に胡麻塩を塗し、中心部に梅干しを乗せた堅実な彩色が半分を占める。


 バランを介して、添え物のたくあんと顔付きのウサギリンゴが生息する。そして最後に、僕が見慣れた卵焼きが瞳に映った。


「シズ……——」

「——他人の手作りはダメだったかな?」


 シズが強張った口調になる。

 無論、僕は即座に首を振り続ける。


「そんな事ないよ」

「ほんと?」

「うん。えっと、嬉しさを伝える気の利いた言葉が出てこなくて……」

「嬉しい……そっか、皆本嬉しいんだ」


 胸に両手を当て撫で下ろし。一息吐いている。細めた双眸と偶然の笑窪。シズの白肌と相まり麗しく、僕は目を奪われる。


「良かった……」

「……」

「じゃあ私も食べちゃおうかな」

「うん」


 シズがもう片方の弁当箱を腿に乗せる。

 中身は僕にくれたものと同様らしい。


「あ、シズ……」

「んっ、なに?」


 箸を構えて食欲に身を任せようとするシズに一言、訂正しないといけない。


「もう他人じゃないよ、僕は」

「……」


 身体中が熱を帯びる。照れ隠しの居場所が無くて、どこまでもシズに付いて行く決意が気持ちを昂らせる。無力を知ってもなお僕は、ただでさえ魅力的なシズをより華やかにしたい。


 差異はあれども、生命は平等に有限だ。

 こんな僕に、どこまで出来るのか。


「……ごめん、そうだった」

「うん」

「なかなか実感が湧かないんだー。あんまりに幸せ過ぎると、簡単に受け入れられない」

「……」


 心の中で頷く。

 またいつかと、引き延ばそうとした関係が繋がる。歓喜するよりも、僕のせいでシズを壊してしまわないか怖い、恐ろしい。


「……食べよっか?」

「そうだね」

「あ、飲み物忘れてた」

「……僕も」


 シズが慌ててトートバッグをまさぐる。そんなおっちょこちょいな姿を眺めていると、あどけない感情で癒されていく。


         ▽


 弁当箱の中身が空になる。

 作ってくれたシズの解説付きで摘んで、食べて、頷いていると、容器が蒸れて発生した水滴と小物くらいしかなくなる。


「皆本早いねっ」

「ずっとシズに促されてたから」


 シズの方は半分も減っていない。

 あれだけ調理手順やこだわりを語っていたら仕方ないし、体調の都合もある。


「……この中で、どれが一番良かった?」

「えっどれ——」

「——もしかすると、私があんまり関与していないのが好みかも?」

「いや……困るよ」


 僕が忌避するように弁当箱へ蓋を乗せると、隣のシズが、悪戯に成功した子どもみたいな笑みを弾けさせる。


「ははっごめんゴメン。でも絶対こんな風に訊いちゃうと、皆本は戸惑うなって思って」

「……うん。シズが作ってくれた全部、美味しかったって言いにくいよ」

「えっ……あ、そっか、そうなんだ……」


 僕の素直な感想だった。

 どれも知っている料理だけど、加えられた食材や調味料のアクセントが異なる。


 皆本家とも市販のものとも違う楠木家の味が新鮮で、改めて振り返っても、食べるのが楽しくて純粋に美味しい。


 良過ぎて優劣は付けられない。


「あとそうっ。この卵焼きはどのくらい再現出来ているのかな?」

「再現?」

「うん。昔、皆本のお母さんに教わったものそのままのはずなんだけど——」

「——いつの間に……」


 シズが自身の弁当箱から卵焼きの一切れを箸で掴み、左手を受け皿として添えながら、白黄が渦巻いた断面を見せつつ訊ねる。


「えっと——」


 教わっていた事実は知らなかった。多分僕の家に訪ねて来たいずれかで、母さんの実演を目の当たりにしたんじゃないだろうか。


 確かに。初めて見たはずなのに既視感はあったし、らいからして調味料も分量も大体同じなんだと思う。


 でも。何かが足りない訳じゃないんだけど、これは楠木家の、シズの味わいだ。


「——正直に言うと、何かが違う」

「あれっ? これ、皆本のお母さんのレシピ通りなんだけどな……」

「……」


 シズがどうしたものかと唸っている。

 僕はそのレシピ通りという発言で、何が違いを生んでいるのか、分かる。


「レシピ通りだからじゃないかな?」

「えっ?」


 懐疑的なシズに、僕は補足して続ける。


「母さんは基本、目分量でしか作らないから、それかなって」

「ああ……」

「冷蔵庫の中身とか、使う卵やバターとかの種類もあるかな——」

「——なるほどね……いやー奥深い」


 シズはそう言いつつ、卵焼きの一切れを口に運び、探り合うように咀嚼する。


「んん……また教えて貰わないと」


 喉元を通ってすぐ、意気込みが言葉からも表情

 からも伝わってくる。

 この向上心を、僕もならいたい。


「さてと……」


 それから幾つかの言葉を交わして、僕とシズの胃袋が休まった頃合いに再び、自転車のスタンドを外す。


「……シズ?」

「んー?」

「いや……なんで僕の隣に居るの?」


 僕が自転車のハンドルを握り跨がろうとする左隣に、ひっそりとシズが待機していた。


「それはねー。もしかしたら私、皆本が乗れるようになる必勝法が分かったかも」

「えっ……ほんとに?」


 訊き返すとシズが煌びやかに頷く。


「うん。さっきずっと見守ってたときに、上手くいかない癖を探ってたから」

「そんなの、ある?」


 もしも存在するなら是非とも知りたい。


「あるよ。さっきから皆本、高確率で私がいる方向に倒れてる」

「えっ」

「恐らくだけどこれ、事故に遭ったときの回避衝動だと思う。皆本って昔から驚くと、こっち側に退く傾向があるし——」

「——えっ、嘘……」


 全く身に覚えのない情報だ。


「気付いてなかったの?」

「……」


 僕は無言で肯定する。シズに伝わっているのか分からないけど、動揺していることは明らかだと思う。


「そっか、無意識なのか」

「……多分」


 事故による心因的なものだとしか考えていなかった。解釈自体は相違ないけど、まさか僕の動作にまで及んでいるとは思わなかった。


 確かに思い返してみると、そういった場面が幾つも浮かぶ。何度も僕をびっくりさせようと躍起になっていたシズだからこそ、気付けたことかもしれない。


「なら、意識的に反対側へ重心を向けるイメージで跨がればいいのかな?」

「反対のイメージか……」

「そうっ。昔の記憶は消えないだろうけど、それを受け入れた上で修正してやるんだよっ」

「……っ」


 意見をぶつけながら両手の拳を握り、僕と一緒に闘うことを示すシズが今日も居る。


 吹き飛ばされ塗れた血液も、剥き出しの筋肉や骨も、ろくに身動きが叶わなかった日々も僕の脳裏に刻み付けられる。


 トラウマは一生無くならない。けれどある程度は許容出来るはずだ。僕もシズも誰もが月日と共に成長する。


「……分かったよシズ、やろうっ」

「うん。私もこっち側から支えるね」


 僕は跨がりペダルに脚を置く。忌まわしい記憶、動悸、不自然な体温の上昇、視界が眩む、いつもの感覚だ。


「……はいっ」


 冷んやりとした支点が腕に触れる。僕のことを連れ回してくれる、優しい平手。


「おっと……」

「皆本、まだ大丈夫。倒れないよ」


 僕とシズ、二人で微調整を繰り返す。


「……」


 身体が強張ってシズが居る方向へ逃げようとする。この原理が漸く知覚出来る。


 僕の想像よりも逆側に、重心を意識的に置く。すると簡単には倒れなくなる。全部、シズが教えてくれた。


「シズ、行くよ?」


 僕は今にも地面を蹴る威勢でシズに訊く。

 自転車に乗れないことなんて忘れているみたいだ。


「ふっふっふ——」


 この笑い方を僕はよく知っている。良からぬことを思い付いたような、戯けてあどけない、愛らしい道標。


「——よしっ、行っちゃおー!」

「うんっ」


 スニーカーが砂地を跳ねる。

 久々に二つのペダルに両脚が置かれる。


 軸が乱れたままの半回転。

 機械的にチェーンが揺れる。


「……」


 二輪は正常に回る。

 着実に前進していて欲しい。


「おお……」


 感嘆を上げ、シズが並走する。

 支えている手の平が緩んでいく。


「……」


 実感はすぐに湧かない。ただ徒歩よりも疲弊もせず楽々と加速していくと、公園内で漠然と所感する。


 あとは何だろう。視点が高いけど、懐かしさが降り掛かる。


 そうだあのときは。僕が自転車と一緒に振り返ると、荷台を支えていたはずの父さんが遠いて、立ち尽くしていた。


 思わず、同じ行動をとる。

 そういえば隣に居た、シズがいない。


「皆本ー! いま、乗れてるよー!」

「……っ」


 歓声と共に大きく手を振るシズが、遠方に居て小さくなっていた。


「乗れてる……僕が?」


 軸が少しぶれた車輪が、忙しなく駆動音を鳴らす。僕好みの乾いた音色。


 目紛しく映像が移り変わる。

 心地良い向かい風に晒される。

 僕に駆け寄るシズを引き離す。


「——乗れてる。また乗れてるよ、シズ」


 間違った表現だけど、人生で二度目の初めて自転車に乗れた瞬間。

 このひとときを僕は、世界で二番目に喜んでいる人だと思う。


「皆本ー!」


 こんなの夫婦らしくないし、恋人にしたってもっとやり用があるし、友達なら年齢に対して随分と幼い。


 それでも僕はきっと恵まれている。

 確信を持って宣言出来る。


 だって僕のことを、僕以上に喜んで駆け回っているシズが、居てくれるのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る