第18話 鼎談

 教室内の雰囲気はいつにもなく、つつましやかとしている。


 僕はそしらぬ表情を保ったまま、別館四階にあるクラスの教室をくぐる。


 既に半数近くのクラスメートが居て、各々空き時間を潰している。

 それだけならいつもと代わり映えしない、中学生男女の生温い憂鬱だった。


 けれど今日のクラスメートの視線は校庭が一望可能な窓側、その最後列の席へと断続的に注がれている。


 そこには机上の左隅に、一時間目の教科である国語の教科書とノートに筆記用具を置き、その側面にある鉤形かぎがたにバッグを引っ掛け、若干俯き気味で椅子に着席して沈黙する、先程さきほどまで一緒に居たシズの姿。


 緊張しているのか、ただ座っているだけなのに両肩が力んでいてぎこちない。


 どの生徒もシズに興味を抱いているようだけど、殆どが初対面な上、二年間も学校に通っていなかった相手への接し方は誰も知らない。


 僕は登校してきたばかりでシズを見て驚いた体裁を取り繕いながらも、内心では一度も見たことのなかった生徒としてのシズを、双眼と脳裏に焼き付けていた。


「皆本。出入り口、塞がってるんだけど」

「えっ、あ、ごめん」


 僕はその言葉で我に返る。

 指摘してきたのは登校して来たばかりといった様子の、このクラスで委員長を務めている女生徒の種川たねがわだった。


 その誤解されがちな刺々しい口調と威圧的な表情のまま、小学生の頃からリーダーシップを発揮していて、委員長の役割を長年担い続けているから、よく印象に残っている。


「……っ」


 僕は慌ただしく、教卓が正面にある中心列の後方二番目の席へと足早に向かう。


「……」


 シズが居る方角から視線を感じ取った。

 僕はその机にバッグを乗せながら一瞥する。けれどシズは相変わらず俯いたまま。


 気のせい、だったのかもしれない。

 でも僕はそうであって欲しくはなかった。


 シズを独りにしたくなくて、今にも駆け寄りたくなる気持ちと、それを実行してしまえばシズの意向に逆らう板挟みに苦悶する。


「おはよう、初めましてだよね?」

「——」


 すると先程、僕が進路を妨害してしまった種川が、僕の真意を斟酌しんしゃくしてくれたのかと疑うタイミングで、他の生徒が躊躇したシズに平然と話し掛けていた。


 刹那、周囲の生徒が騒然としたせいで二人の会話内容が聴き取れなかったけど、口の動きから推測して世間話を交わしたらしい。


 それから種川は自身の席に荷物を置いて、そそくさと教室の外へと出て行ってしまう。


 種川のあとに続く生徒はいなくて、当然僕も何の対処も出来ないまま時が流れる。


 ホームルームの五分前を告げる予鈴が鈍く鳴り響く。


 そこから、いつも遅刻寸前の生徒たちが微妙に息を切らしながら扉を潜ると、黒板の真上にあるアナログ時計を確認のため仰いですぐに安堵している。


 そのあとシズの存在に気が付きはするけど、シズ本人ではなく、ひそかに周辺の生徒に何やら訊ねているみたいだった。


 ホームルーム開始の一分前。

 担任教師の千条せんじょう先生と種川が順番に教室へと入って来る。


 種川が自身の席へと向かい、千条先生はいつもと変わらず教卓の後ろへ立ち、視線を左から右に、着席している生徒達を平等に一見している


 既に、僕の後ろ席の生徒を除けば揃っていた。千条先生が咳払いすると同時に本鈴が鳴る。これも鈍く響き渡る。


「はあ……間に、合った……」


 それと同時。廊下は走るなという、もはや定番の校則を破ったらしき武藤たけふじが教室に入るなり、二つの意味で滑り込んで来た。


 一つは時間厳守の為。もう一つは床に伏せるように体現していた。


 やがて本鈴が止み、そんな武藤に対する失笑が重複している。


「武藤、自分の席に座るまでだから遅刻な」

「いや先生そりゃないって!」


 抑制していた感情が決壊し、教室内はたちまち大笑いに包まれていた。


「冗談だ。でも、次からは疲れてそこで寝転ばないように、余裕持って登校しろよ?」

「……俺の家、誰よりも遠いんですけど、どうしたらいいですか?」


 絞り出すような発声で、武藤は訊ね返している。


「何言ってるんだ。武藤よりも遠くに住んでいるやつだって席に着いているだろ」

「えっ?」


 腕立てをするように勢いづけて立ち上がる武藤は、千条先生の言葉を聞いてすぐに窓側後方へと一瞥していた。


「——今日は全員揃ってるんだ」


 武藤はこのクラスに於ける、その持つ意味を物ともせず、学校生活ではありふれた感想のように呟いていた。


「……ああ」

「あれ? 千条先生、忘れ物でもした?」


 神妙な赴きの千条先生を武藤が茶化す。


「してるわけないだろ。それより武藤、そこでホームルーム受けるつもりか?」

「まあ……俺はどこでもいいですけどね?」

「いや先生の気が散るわ。とりあえず席に着け、始めるぞ」

「はいはい」


 武藤が列の間を窮屈そうに通り、僕の後ろの席に座ると、それを見計らったかのように千条先生がホームルームを開始した。


 その内容は急遽、昼休み後の五時間目と六時間の授業を潰して、修学旅行の話し合いをすることになった、という連絡事項だ。


 他には、連休中に実施を予定している地域祭りのボランティア募集、時間が余ったせいか日曜日に放送している法廷もののドラマの話で埋め合わせながら、黒板を使って大まかな人間関係の方程式を書いて説明している。


 ある意味で身近なテーマを扱った上で、授業前のウォーミングアップのような五分間だった。


「じゃあ少し早いけど終わろうか。種川」

「はい、一礼」


 そして千条先生はシズについて明確に触れることはなく、ホームルームを終える。


 シズが今日まで中学校に登校出来なくて、病み上がりで、小学校が異なるせいで殆ど知り合いがいない状況を理解しているはずだ。


 恐らくだけど、学校に行くこと自体かなりの負担が強いられているのに、これ以上そんなシズの心労を増やさないように千条先生が配慮したものだと僕は思う。


 それからの授業中、僕はシズが気掛かりで何度かそちらへ顔を向ける。

 けれど僕の席からは角度が悪く、他の生徒に遮られてしまい、全体像まで眺めることはなかなか叶わなかった。


 そしてどの教科担当の先生もシズの存在に一瞬だけ反応はするけど、皆が静観する。


 ここまで来ると、職員会議などで打ち合わせをして出した、先生方の総意を反映させたものなのかもしれない。


 業間の休みもシズは、次の教科の用意だけして、無言のままそこにしている。


 一度、種川がシズに再び話し掛けていた。

 けれどこれは化学の授業で移動する必要は無いことを告げた淡白な一言で終わり、シズも頷くことしか出来なかったみたいだ。


 そうしてシズに劇的な好転が訪れないまま、午前授業が終わる。


 昼食時間。

 この中学校では弁当を持参して、授業体制のまま個々で食すのが決まりだ。


 机を動かしてくっつけたりすることは禁止。お手洗いは自由だけど、基本的に長時間の立ち歩きも同様だ。


 これは仲睦まじい生徒だけで固まらない。

 それにより起こり得る、一人で食事を取る生徒が晒されないようにするものらしい。


 だけど一応、椅子を反転させて前後に座る生徒が同じ机を共有、そしてその当人が着席することに限り容認されている。


 議論されている校則の一つではあるけど、僕にとっては恩恵でしかない。


「独りに優しい学校ではあるんだよね……」


 僕は誰にも聞こえないようにそう呟くと、おもむろにシズの席に視線を移した。

 丁度、弁当箱を取り出そうしているようで、ももの上にバッグを乗せている。


 そして少し、肩を落としているようにも感じられた。


 初顔合わせで歓迎される。願望を掲げるならそれが理想だろうけど、学校とはそんなに都合の良い居場所ではない。


 ましてや僕らは中学校の三年生だ。

 義務教育という庇護から、開拓され尽くした人工的な野原に放たれるまで一年もない。

 高校受験や就職活動、他分野に精を出し結果を求め、ゆとりのない期間を過ごしている。


 だから仕方のないことだけど、寛容な精神状態が一時的に欠如している生徒が多数派のこの時期に、シズが新たな関係性を築くには、あまりにも不利が重なっている。


 けれどもし。この機会を逃していたら、今日以上に登校することは難しくなる。


 現状の不利かそれ以上に襲い掛かる不利かを天秤に掛け、シズは迷わず前者を取った。


 もしかするとシズにとって、一度もその顔を見せずに卒業することが、最良の手段だったのかもしれない。


 あるいは事情を把握しているはずの小学校からの、知り合いが居る中学校へ転校することだって可能だった。


 されどシズは、それらの選択を早々に除外していた。


「……」


 沈黙するシズの心境は分からない。

 理想と現実の乖離に打ちのめされているかもしれないし、知らない人ばかりなんだからこんなものだと、かえって開き直っているかもしれない。


 いずれにせよ僕は無力だ。

 ただシズを信じて見守っているだけで、実害は出さないけど有益ももたらさない。

 そしてそんな感情すらも偽りなんじゃないかという疑念を抱いてしまう。


「おーい」

「……」


 建て付けの悪い扉が開かれる音がする。

 そちらに対する呼び掛けだろうかと思っていると、僕の背中に何やら指先で小突いたような感触があってむず痒い。


「皆本? まさか目を開いたまま気絶してんのかー?」

「えっ、ああ、なにどうしたの?」


 僕は着席したまま振り返る。

 そこにいるのは僕の後ろの席に割り振られ、頬杖をついて苦笑している武藤だ。


「……とりあえず、一緒に便所行かね?」

「な、なんで?」


 唐突な提案に思考が戸惑う。


「俺一人だと寂しいから?」

「どうしてそこで疑問形?」

「気分だよ気分。たまにはいいじゃん」

「いやでも、僕は別に——」


 対応に困る。


「——ここで一回出しといて損はないだろ?

 別に、お互いの一物いちもつを比べ合ったりしねえからさ……頼む」


 武藤のやり口は強引極まりないものだった。けれど最後の一言だけは、その切実さが僕にも感受出来た。


「まあ……あんまりお腹も空いてないし、付き添うだけならいいよ」

「よしっじゃあ行くか」

「……」


 武藤が起立してすぐに後ろ扉の方へ向かう。こういう時に最後列って便利だと思う。

 僕もそれに続く形で教室から出る。


 室内の湿度から解放されたせいか、廊下の空気がおもいのほかに冷ややかで、その快適さをどうにも素直に受け止められない。


 僕らの教室からお手洗いまでは階段を降りて三階に行くことが普通。理由としては、この四階にお手洗いは存在しないからだ。


 四階で恒常的に利用している教室自体が僕らのクラスだけで、あとは物置き部屋しかないから、元々は授業をするための教室として宛てがわれていなかったんだと、僕は思う。


 武藤に続いて階段を下ろうとする。

 すると突然、急停止した。


「んー、ここでもいいかな?」

「……ここ? それは倫理的にどうなの?」

「馬鹿っ、こんなところで用を足す訳ねえわっ……便所なんか口実に決まってるだろ」

「口実……なんでそんなことを?」


 武藤が二段だけ下りて、手摺てすりのない壁面に寄り掛かっている。僕はその場で棒立ちしたまま聴くことにする。


「その前に皆本、誰かが来たら目で合図送るから。そしたら直ぐに階段を下りる、わかったな? こうしないと裏で遊んでることにされて、だるいから」

「ああ……うんお願い?」


 僕は良く理解しないままに了承した。

 そして武藤が誰もいない事を確認したのち、溜息を吐き、僕を見据えて言い放つ。


「皆本。今日、どうしたんだよ?」

「どうしたって?」


 僕がそう返すと、武藤がまた先程見せた苦笑をしながら核心に迫る。


「おいまさか自分で気付いてないのかよ。

 お前……見過ぎなんだよ、楠木くすのきのことを」

「楠木……?」


 それが一瞬、誰を指しているか僕は分からなかった。勿論知っている苗字だ。だけど、僕はいつもは愛称で呼んでいるから、すぐに結び付かなかった。


 武藤が指摘したのはシズの事だ。


楠木くすのき……えっと、志津佳しづかだったよな?

 今日初めて登校してきたやつ」

「うん、合ってる」


 シズのことを苗字の楠木で表されると、どことなく違和感だ。


 そうやって呼称している人が、僕とシズの共通の知り合いで誰一人として存在しなかったから尚更なおさらだ。


「俺、真ん中の一番後ろの席だから、いろんな奴の仕草とかよく分かるんだよな」

「……でもそれなら僕だけじゃなくて、他のみんなも気にするものなんじゃないかな?」


 僕の逆質問に武藤は頷いて、両手をポケットに突っ込む。その見た目は非常に怠そうだ。けれど紡がれた言葉には、武藤の感受性が存分に込められていたような気がする。


「まあ普通はそうなんだけどな。他の奴らはなんか楠木のことを幽霊でも見ているような感じというか、変人を眺めてるみたいな?

 仕方ない事なのかもしれないけどな」


 僕はそれに同意したくはなかったけれど、そういう色眼鏡越しの視線がシズに注がれていたのは事実だ。


 武藤は息を整えてからさらに続ける。


「でも皆本のはなんか、親が俺を見てるときと同じ……親しみのある人を敢えて見守る、そうだ、授業参観みたいだって思った」

「授業参観? 僕が?」

「おう。でっ、それを後ろから図らずも観察していた俺が導き出した推理はだな——」


 武藤が寄り掛かっていた壁面から離れて、僕の真横まで徐行する。


 その格好だけなら冷酷なハードボイルド作品にも登場しそうな武藤だけれど、学生服と戯けた笑みがどうしようもなく幼くさせていて、それを容易く相殺している。


 だけどこれが武藤の魅力なんだろう。

 気付けば僕は、突然の連れ合いに対する武藤への僅かながらの警戒心を既に解いていた。


「——お前、楠木と知り合いだろ?」

「……」


 武藤はあどけない表情のまま窺うようにして、押し黙る僕を余所に適当を突き付ける。


 僕は正直に話すのか、苦し紛れにでも誤魔化すのか、どちらがシズの為になるかで迷いが生じて、その状態の維持しか出来なかった。


 しかし当人が否定も肯定もしないということは、その判断を他人に委ねることと同義である。


 武藤はしばらく僕の返答を待っていたけど、うんともするとも言えなかったせいで、痺れを切らしたと自身の首筋を摩りながら、僕が肯定した事を前提に話を進めようとする。沈黙をそのように受け取ったようだ。


「まあ……お前と楠木が知り合いだとしても程度があるからな。

 例えば家族絡みの親交がある幼馴染みでも、散歩をしていていつもすれ違うだけの関係でも、同じ知り合いな訳だしな。

 俺はどちらかというとお前らは前者のような気がしてる、予想だけど」


 再び人目を気にした武藤はその後、立ち続けることに疲れたのか段差を利用して腰掛け、湯船に浸かったときのようにうなる。


 そんなくつろげる体勢になって、両腕を伸ばしながら、武藤は当時の情景をかいする。


「皆本が自制していた……というより、楠木の方がお前を避けていたような感じだったな。俺たちの方に一切目配せもなかったし。

 昔は仲良かったけど今はあんまり、みたいなやつか?」


 憶測おくそくを展開している武藤の言い分は、所々で間違いこそあるけど、クラスで目立った動きをしない僕と今日が初対面のシズをとてもよく見ている。


 恐らく、僕とシズが特別だからじゃなくて、武藤が普段から他人を深く知ろうとする、その行いからきているものだと思う。


 話を聞いている限りだけど、シズへの偏見を持ち合わせていないみたいだ。


 それが故にだろうか。口調は中学生ということもありまだ荒っぽくも、細心な言葉遣いでとても理性的かつ親身だ。


 大人びていると形容されるのは武藤のような、周囲を見渡せている子どもに対して使用されるものだと僕は心に留める。


「ああそもそも、男と女じゃ色々面倒だな。

 長らく学校に来てなかった初見の同級生が、いきなり男連れじゃあ印象が悪いか?」

「……そういう考えも、あるんだ」


 そこで僕はようやく発言をした。

 割り込むタイミングをことごとく逸していて、またどんな私見を告げればいいかと逡巡とまでする。


 けれど最後は、想定が及ばなかった配慮に対する、細声ほそごえの納得だった。


 シズが学校内で僕を遠ざけた理由が、武藤の想像のままだとしたら合点がいく。


 シズも多感な時期を過ごす一人の少女だ。

 僕に言えない羞恥心くらいきっとある。


「おお、やっとお前の声が聞けたわ。

 それでそういう考えもあるってことは……皆本には楠木との別の考えがあった、みたいな解釈出来るんだけど——」

「えっと……」

「——俺の思った通り、で良いか?」


 僕が認めているも同然だった。

 反射的に天井を仰いでしまったことも、武藤にとって決定打になる。


 流石にここまできたら、僕も観念するしかなかった。


「うん。昔、縁があってね」

「やっぱりそうか」

「そんなに大袈裟な事じゃないかもだけど」

「わざわざ同じ中学校に通ってるんだから仲が悪い訳じゃないんだろ? なら——」


 武藤は言葉をぶつ切り、迅速に対処するよう立ち上がると、僕に目配せをする。


「……」


 それは僕と武藤の間で取り決めていた合図だ。誰か来ることを察知したんだろう。


 即座に僕らは階段を下り、まずは踊り場まで向かおうとする途中、上靴の特異な接地面が起源とするぬめる足音が、段差を上がり淡々と迫ってくる。


 段差を下り、その人物は上がる。

 つまりは必然的に一度、見合う事となる。


「……邪魔なんだけど、なんで手摺りのある方に行かないのよ」


 怪訝な面構えで、武藤と見合っている人物は種川たねがわだった。


 そういえば僕らの前に一度だけ、扉が開閉して雪崩れるような音が聴こえた気がする。

 どうやら種川によるものらしい。


「皆本が使ってるから当然こうなるだろ」

「じゃあ階段で、二人並んで歩かないでくれる? 本館と違って間隔が狭いんだから」


 武藤は僕にぼやく。


「おい、言われてるぞ」

「私は皆本じゃなくて、武藤に言ってるんだけど。階段は下りの方が危ないんだから手摺りを使いなさい」


 僕が聞いても最もな指摘を、武藤は触れると粉糖を塗したようなざらついた壁を叩き、種川に言い返す。


「俺は壁伝いでも問題ないから」

「そういうことじゃない。もう、鬱陶しい」

「おいおい鬱陶しいとか酷くね?」

「……今のは私の失言だった。はい、いいからそこ通してくれない?」


 種川は投げやりな釈明をしているけど、武藤は意に介さずこの茶番劇を継続する。


「ここを通りたくば、俺を皆本を倒してからにするんだな」

「さっきから何これ? 嫌がらせ? また何時いつぞやのように投げ飛ばされたいのかな?」

「いやいや冗談に決まってるだろ。それより種川、俺は真面目にちょっと、お前に話あるんだけど……」

「私には無い」


 瞬く間に、僕の隣にいる武藤と三段下の斜向かいにいる種川が口論になっていた。


 一般的に道理のかなったことを主張する種川を、武藤がおざなりにしているせいで事態が長期化している。

 というよりは、そのように武藤が意図して、種川の進路を絶っている気がした。


 一応。僕が種川の真横を素通りすることで、道を開けることも出来るだろうけど、色々と忖度してくれた武藤を放置する訳にもいかなかった。


 あとそこに居てくれと伝達するかのように、数秒に一回目配せをしてきて、僕に助力を求めている様子だった。


 親切にしてくれた人をどんな形であれ裏切るのは、なんだか後ろめたい。


「……」


 種川もある程度は気が付いているらしく、一度だけ僕を流し見て、非難しているというよりは、同情に類似する諦念の嘆息を吐く。


 だから僕は、その欄干らんかんを握り立ち止まっていた。


「そういえば種川がこの時間に教室から出歩くのって珍しいな?」

「……別に、あなたたちと同じ目的なんじゃないの。たまにはそういう日もあるでしょ」

「同じ……楠木のことかな?」

「っ! なんで——」


 虚をかれたと言わんばかりに種川が両眼を見開き、武藤に一段詰め寄る。

 思いもよらない返答だったからだろうか。


 僕とは性質が異なるけれど、その反射的な応えと行動原理は暗に肯定を意味している。


「——どうしてそう思ったの?」


 苦し紛れに種川は問い質す。すると武藤は人差し指を立て、順に考察を述べる。


「一つは種川が昼食時間にいないこと、あとは先生も。珍しく二人いないから、この時間を利用して極秘の会談を設けていると推測。

 二つ、その理由は何か。今日起こったクラスの劇的な変化は楠木の登校。些細な変化は五六時間目の授業が潰れて修学旅行の話し合いになったのが関連している。

 三つ、お前だけが周りと温度差を感じるくらい平然としてたから。楠木にも話し掛けていたし、まるで全部事前に知らされていたみたいな、先生達も敢えて干渉せずにいる相手なのにそれは不自然に映ったかな」


 長々と雄弁に語る武藤は、最後の締めに入る。まるで探偵ミステリーのようだと僕は思う。


 昨今放送されている、洗剤コマーシャルの影響もあるかも知れない。


 僕たちより一つか二つ年上のタレントが、色鮮やかなトレンチコートとハンチング帽を纏い、洗剤で事件を解決する流れのそれは、ちょっとした探偵ブームを起こしている。


「故に俺が導き出した結論は、種川が先生と結託している。楠木が登校してきたら先生の代わりに、生徒会長で学級委員長でもあり同性の同級生の種川がサポートする手筈になっていた。

 先生が関与しないのは楠木本人の意向か、大人が余計な事を楠木に浴びせないようにする考慮かな? ここは分からん。

 そして急な授業変更は、クラス全員が初めて揃ったこと。あとは班別行動や部屋割りで、種川が楠木と直接組む姿を目の当たりにすれば、他の奴らが溶け込みやすい環境が作れると踏んだ。

 殆どが四人ずつの割り当てだから、必然的に他の奴らも楠木を知ることが出来る機会になるし、困っていたら種川がフォローする。

 そのための打ち合わせを千条先生としてきた。種川、これでどうだ?」

「……」


 種川が沈黙を貫く。

 全てを言い当てている訳ではないけど、武藤の推論は概ね正当だということだろうか。


 そうだと仮定するなら個人的に引っ掛かる箇所はある。勿論、種川を責め立てるような事ではない。


 僕の知る限りではあるけど、種川は小学生の頃から同じクラスになることが多く、その時から人一倍、正義感にあふれている。


 当時小学生の女の子に正義感なんておごそかな形容をしてしまうのだから、一目置くような存在だ。


 だからこそ誤解や衝突もしていたけど、その統率性が揺らぐことはなかった。


「……武藤は昔から、肝心な時だけ勘がいいから、困る」

「まあな。最近、探偵ものに嵌ってるから、その影響も少なからずあったかも」

迷探偵めいたんていドイル?」

「それもあるけど、コマーシャルの方」


 左右均等に整えられているまゆひそめながら、種川は呆れたように苦笑する。


「勉強はからっきしなのに?」

「……ちょっと何言ってるか分かんねえ」


 冗談をお互いに交わした後、種川は幾度か肯き、口元に人差し指を置く。

 内密にして欲しいという暗示のようだ。


「うん、大体合ってるよ。二年生の頃だったかな? 具体的な事情は聞いてないけど、戻るかもって時に、先生と相談して決めてた。

 今日。授業変更したのはホームルーム前にそういう選択肢もあるけどって訊ねられて、私はなるべく早い方が良いと思ったから頷いた……不安はあるけどね」

「不安……」


 この三人が居合わせてから初めて、僕が発言したものだ。


 しかし武藤も種川も動じることなく、その呟きに答えてくれる。


「うん、だって私も女の子ってくらいしか知らなかったからね」

「まあ、普通はそうだよな」


 武藤が同意する。


「何が好きとか何が嫌いだとか、私のことをどう思ってるかも私は知らない。

 名前の呼び方すら定まってない。

 他の子もみんなそう。

 その状態で私が橋渡しになれるかどうかは……やっぱり難しいかも」


 それはきっと、本心なんだろう。

 種川がこうして僕らに吐露することは皆無に等しい。


 会話をするなんて自体が稀だということもあるけど、そもそも弱音を吐いている姿すら、僕は一度も見たことがなかった。


 でもその姿を眺めて、シズのことを案じている生徒が僕だけじゃなかったと、すぐに考えを改める。


 武藤が僕を流し見る。

 どうする、と訊いているようだ。


 酸欠しないよう呼吸をし、双眸を閉じ、荒ぶる心拍数を鎮める。そうして僕もこの二人を信じる決心をする。


「……そのことなんだけど」

「皆本どうしたの? 強張ってるけど?」


 なりにこだわっているいとまはない。


「武藤には気付かれたけど、僕とシ……楠木さん? 昔からの知り合いで、家族同士で遊びに行ったりも——」

「——な、なんでそれを早く言わないの!」


 怒号のような種川のきっきょうが反響する。


「やば……」


 すぐ口元を両手で押さえ、誰も来ないかを確認しているけど、教室まで声が届いたのは間違い無い。


 となると長居は出来そうにない。武藤もさっしたようで、この話を強引にまとげる。


「という訳で、修学旅行の部屋割りは同性同士だから無理だけど、班決めはこの四人で決定。今日は放課後まで作戦会議なっ!」


 シズの居ない所で勝手に話が進行しているけど、果たして許してくれるだろうか。


 だけどシズにここまで寄り添おうとする二人なら、根拠なんて何もないけど、大丈夫じゃないかと思い寄せてしまう。

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