第17話 登校

登校中の通学路から寄り道をしたのはいつ以来だろうか。もしかしたら僕の人生において初めての出来事かもしれない。


仮にそんな特例が過去にあったとして、別段べつだん掘り返そうとする理由もないから、このままでもいいと思う。


月日の流れで忘れてしまう程度の記憶なんだと、僕は自己完結する。


「うん……まだ、寒いかな?」


普段はもう少し休みたくて、駄々だだねたくなるだけの、しがない月曜日。


けれど今日の僕は、いつもなら身支度もしていない時間帯の、朝霧あさぎり立ち込める路傍ろぼうを、制服を着用して学校指定のバッグを背負いつつ、歩き進める。


そしてかれていた公道からいっする。

つまり目的地はそちらにある。


患難かんなんを乗り越えたシズの帰還を迎えに行き、そのシズの実家から中学校までの通学路を僕が途中まで案内をする為だ。


——途中までという、限定付きだ。


「僕のことを気にする必要、ないのに……」


それはシズが退院して数日後。僕の部屋で行われた事前打ち合わせでの決定に基づく。


前提として、シズは僕以外の中学校の同級生全員と初対面だ。


加えて三年生からの初登校ということで、なるべく悪目立ちをしない日時とシズ本人の体調を考慮して、大型連休の一週前である四月下旬のこの日を目標にしていた。


幸いなことに、僕とシズは三年連続で同じクラスになったので、可能な限りサポートするつもりでいた。


前々から考えていたけど、この状態でシズがクラスで孤立しても不思議はないからだ。


「……っ」


けれどシズの思惑は、同級生全員と初対面という名目で、中学校生活を始めたいとのことだった。


きっと僕まで同じように、クラスで奇異の衆目に晒されることを拒んだ末、だと思う。


それはシズなりの優しさと、僕の横繋がりを絶やさないように心遣った、長年の経験から得られた淑やかさ。


反論はしなかった。でも少しくらい僕を困らせてくれてもいいのにとは思ってしまう。


そう伝えると、逆にシズの決意を揺さぶってしまいそうだから、もくして頷いた。


「……そういえばシズの家ってほとんど行ったことがなかったな」


思い返せば、かれこれ小学生の頃までさかのぼらなければならないだろう。

しかもあのときは親同伴で、すぐに自動車でキャンプ場へ向かったから、遊びに行ったという感覚はまるでなかった。


一応。僕の実家からシズが暮らしている家までの道順は昔から知っている。


でも僕の脚膝のことがあり、僕の部屋で遊ぶことが習慣になっていた所に、シズの再発が折り重なり、なかなか機会が訪れなかった。


今回の作戦会議も、シズは長期間ベッドで過ごしたことによるなまった身体を治したいと言い、当然のように僕の部屋まで来ている。


僕もその時は、何の疑念を抱くことなくシズを招き入れた。


最後にシズが遊びに来てから二年以上。

小学校の最高学年だった僕らは、いつのまにか義務教育の最終学年になっていたけれど、それは相変わらずだった。


「このマンションで良いよね? ここの六階、六一九号室」


ベージュを基調とした外壁塗装、オートロックや防犯の完備を謳う、四隅が立体的にも整う左右対称の分譲マンション。ここの一室にシズ、もとい楠木くすのきが住んでいる。


久々過ぎて疑問形で独り言を呟いてしまったけど、シズと共通する部屋番号的にも間違いはないと確信していた。


「……あ」


その証拠にマンションの玄関口側の花壇を愛でながら、シズが待っていてくれる。


「シ……シズ」

「はい、随分と早かったね?」


振り返りながら、遠慮がちに手を挙げて答えてくれたシズにゆっくりと近づく。


「おはよう、皆本みなもと

「……うん、おはよう」

「どうしたの? あ、顔に何か付いてる?」

「いや制服姿見るの初めてだなって思って」


紺桔梗こんききょういろを主色にしたセーラー服にプリッツスカート。

その関東襟とカフスには四つの白線が施されて、赤白青の三種類から選択出来るスカーフは白を選び、学校規定のハイソックスとシューズを履いた、横顔と首筋を沿ってなぞるような黒毛のミディアムヘアのシズがそこに、確かに実在している。


「……」


服装自体は、他の女生徒が着用しているので見慣れているはずだけど、ただシズが着ているだけでなんだが異質に感じる。


「……あんまり、似合ってないかな?」

「いや、それは違う……ただ変というか」

「えっ? どこ?」


シズが制服の節々にまぐるしく視線を移す。

完全に僕の失言だった。


「いやそれも違う。……その、珍しくて貴重で整っていて、僕なんかよりも大人っぽく見えて、でも同い年で……だからどう表現するのが適当か分からなくて——」


しどろもどろする僕をシズが遮って、簡素に感想を聞く。


「——皆本から見てこの格好、問題ない?」


僕の答えはすぐに、いや元々出ていた。

なんとなく言語化することを無駄に躊躇い、必要以上の表現技法を並べようとして、自ら思考が掻き乱されただけだ。

もっと、素直な言葉で良かった。


「うん、何にも問題ない……似合ってるよ」


本当にこれだけのことだった。

シズが両手を迎え入れるように広げて微笑んでいるのだから、問題も間違いもない。


「ふふっ良かった。だってさっき、私のお父さんもお母さんも、他の子より幼いとか言うんだもん。もう皆本しか信じないよ」

「……ちょっとそれは荷が重いよ」


シズが幼く感じたのはきっと、日頃のシズをちゃんと良く見ているから。


どんなに成長しても、両親からすれば息子、娘はいつまでも子どもだから、相対的に幼くなってしまう。


あとは単純にシズが着慣れていないだけで、次第に受け入れられるはずだ。


く言う僕もそれに面食らっている訳だけど、五月下旬の修学旅行辺りまでには、その姿が自然になっていると嬉しい。


そんなことを巡らせていると、いつの間にかシズが僕に近づいていて、学生服の右袖に着目している。


「皆本の方は最初の頃より袖が余らなくなったよね? 明らかに背も伸びてるし」

「……うん。これでも平均以下だけどね」

「でも昔は私とそんなに変わらなかったのに、今は余裕で大きいよ。ほらっ」


シズは自身の頭頂部に手を置いて、そのまま横滑りで僕の頬骨に当てている。


「……っ」


それが僕とシズの身長差だ。

お互いに言えることだけど、中学生にしては小形で、でもそのお陰で丁度いいくらいの塩梅になっているような気もしなくない。


「ほっ……こうしたらどうかな?」


シズが負けじと背伸びをして僕に対抗する。


「……シューズ、しわが出来るよ?」

「あー、いいよいいよ。新品同様のままの方が勿体無いでしょ?」


爪先立ちをするシズが小さな歩幅で、更に僕へと近づいて、やがて視線がかち合う。


「あっ……」


すると満足したのか、シズは地上にかかとを付け直し、ほおさすりながら苦笑いしている。


「じゃあそろそろ学校に行く?」

「シズが良いなら。多分、正門とかももう開錠してると思うし」


仮に閉門していたままでも抜け道はあるけど、初日から印象を悪くすることは忍びないから、それは黙っておく。


シズのことだから案外、興味本位で食い付いて、実行しかねないから尚の事だ。


「皆本。途中まで、赤の他人だからねっ」

「……うん——」


僕はシズに念押しされている。

その気持ちを踏みにじるつもりは毛頭ない。

でも、不安も確かにある。


「——分かってる。でも、耐えられなくなったらいつでも……」

「それは大丈夫だと思う。だって放課後はいつも通り皆本と一緒なんでしょ?」


シズが照れ笑いで訊ねてくれる。


「……うん。場所は違うけどね」


病室から変わり、双方の部屋、公園、洒落じゃれたカフェ、映画館、動物園、水族館、趣きある神社、ショッピングモール、図書館など、取り敢えず思い付くことを枚挙しても、本当にきりが無い。


両親や先生方、大人を困らせない限り、僕とシズは自由に外出が可能だ。


行動制限はすでに撤廃てっぱいされた。シズが望む所なら、僕はどこにだって付き添う。


「ならひとまず安心かな。私は本当に皆本と他人になりたい訳じゃないもん。

ただ、この中学校での現状を正しく知りたいから……覚悟はしてるつもりだけどね」

「そっか……」


僕はそれ以上の言葉を呑み込む。

シズよりも先に僕の方が耐えられないかも知れないなんて弱音——絶対に伝えられない。


「さて皆本、行きますか?」

「うん……いや待ってシズ。教科書とか入れるバッグがないけど——」

「——ああ、自転車の籠にあるよ。私、それ取りに行ってくるからここで待ってて?」

「わ、わかった」


駆け足のシズは自転車置き場へと向かう。

僕はそんな背中を見送る。


大半の中学生の移動手段は自転車だ。

年に一回は必ず、自転車講習を実施しているくらいだから乗車率の高さがうかがえる。

ヘルメットの着用や、ライトの点灯具合で先生に注意されている一幕も珍しくない。


きっと中学校の近隣に住居がある生徒以外で、常に徒歩を選択している生徒なんて恐らく僕くらいなものだと思う。


シズまで自転車を利用することには驚きはあった。けれど改めて振り返ってみれば、小学生のときも僕の住む実家まで自転車で来ることが多かったし、そもそもシズの住むマンションから僕らが通う中学校までは、どの生徒の家よりも遠方にある。


だからほどの理由がない限り徒歩通学なんてしんどいだけの骨折り損にしかならない。


僕もここまで来る途中に気が付いたことだけど、シズの住むマンションは学区外にあり、登校に関することは不便だらけだ。


それが病後の身体に障らないか、ゆうしていた。


「いやでも……今は元気そうかな?」


僕がシズを見送った方角の逆側から、バッグを籠に入れ、ヘルメットを被り、水色が基調の自転車のペダルを軽快にいでいるシズがすみやかに現れる。


「お待たせー」

「うん。でも、なんで逆から?」

「んーなんとなくかな?」

「そう……」


マンションの駐輪場がどこにあるか分からないけど、遠回りしてここに戻って来たことは容易に想像が出来る。


そしてシズは自転車を一回転させてから片方のペダルに両脚を置くようにして、余力だけで僕の正面まで進むと同時に両ブレーキを握り締める。ヘルメットを脱ぎながら言う。


「途中までは私も歩きます」

「……何か気を遣わせちゃってごめん」


頭頂部の髪の毛が張り付いているシズが、脱いだヘルメットを左ハンドルに掛けながら、問題ないと首を振る。


「全然。別に遅刻寸前で急いでる訳でもないんだし……一緒の目的地に、途中までとはいえ、同じ歩調で向かうのだって重要だし」

「なら、ありがたいけど……」


僕がそう言って歩み始めると、隣から二つの車輪と、それを繋ぐチェーンがまるでオルゴールのねじ巻きのような、絶妙に心地の良い音色を奏でている。


「……今朝は何食べて来た?」

「どうしたのやぶからぼうに?」

「ちょっと気になっただけ」

「シチュー、昨晩の余りだよ」


どうしてか、いつも作り過ぎる。


「いいね。私のお腹の中にある納豆味噌汁ご飯と取り替えて欲しいくらいだよ」

「シズの朝ご飯も良いよ。和食だし、健康長寿の人が食べてそうなイメージが凄いある」


科学的根拠までは知らないけど、食事に気を付けようと決心すれば、思い浮かべるメニューの一つに入る。


「そうだけど。私はシチューの方がいいなー、彩りもあるし御褒美みたいじゃない?」

「……御褒美が余り物って、複雑だけどね」

「今度また皆本家で食べようかな?」

「そうだね」


そんな他愛のない話を絶やすことなく、僕とシズは指定されていない通学への路を歩く。


そして学区内に入り、同じ中学校の生徒が散見されるようになると、シズはヘルメットを装着して自転車にまたがる。


「じゃあそろそろ先に行くね皆本——またあとで、教室でね」

「うん、また」


僕よりも先行して、シズがペダルを漕ぎ、中学校がある方向へと速度を上昇させていく。


名残惜しいけど、これはシズの復帰戦だ。

その横槍だけは入れられない。


ただ願わくば。クラスメートの誰もが気付かれないうちに、シズの魅力を伝えられるような芸当が僕に出来たらと、おおよそ現実的ではない妄想に首を振る。


そんな都合の良い道具や手段はない。

けれどその勇猛な、小さい後ろ背を眺めていると、内心でどうしても祈ってしまう。


色んな意味で。今日より教室に脚を踏み入れることを躊躇ちゅうちょした一日は、きっとない。

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