第13話 さらに東へ

 源之進を取り逃がして宿場に戻った惣兵衛は、旅籠で途中手形の発行を頼んでいた。嵩山宿スセを日の出前の暗闇に出立したので、若人の惣兵衛も体がくたくたになっている。


 まだ明るいうちから宿の部屋で横になっていた。宿場の旅籠に泊まらなければ信用して手形を発行してもらえないので、避けようのない出費である。


 「どうせ手形をもらえるまでは通れへんけども奴はどこまで行ったやろか?このまま本坂通りを渡って東海道へ合流するのは間違いないやろけど…」


 あの時、見張りの役人に取り押さえられても、奉公を勝手に断るなと大声で叫べばよかったと思っている。


 「ほんまに疲れたわ。…想像しとった以上に夜道は大変や。野犬や盗賊に襲われたらどうしよか思ったわ。そやけど、山道で背筋に走った気配はなんやったのかな?」


 嵩山から本坂峠を駆け足に進む惣兵衛に異変が襲ったのである。薄闇のせいで不気味な山間に差し迫った頃に、源之進に睨まれた時と似たような悪寒が走ったのだ。


 その得も言われぬ感覚は源之進の時よりも、さらに圧倒的な威圧感を持っていた。


 一瞬の感覚だったので、そのまま街道を歩き続けたが、この世には魑魅魍魎ちみもうりょうの類も実在するのだと改めて感じたのである。


 それはそうと、藤川では先を急ぐばかりに、問屋の旦那さんや善右衛門たちとの別れの挨拶もそこそこに出発しなければならなかった。旅の縁で逗留までさせてくれた彼らに、いつか成功した姿を見せに藤川に参じる腹積もりである。


 「しかし、汗を掻いたな…」


 もう源之進とは相まみえる事は叶わないと思っていた。


 ここからは本当に軒先で野宿しながらでも江戸を目指すのである。此処までかなり早い行程で進んでいる。明日は市野いちの掛川かけがわまでたどり着きたい。箱根峠も残してるけれど、あと八日もあれば江戸の町に着くだろうと踏んでいる。


 …果たして無事に辿り着けるだろうか?


          ○


 その頃、源之進は東海道を掛川に向かって進んでいた。


 「ああ…、疲れる」


 急に走る力を失ったのか、旅人に紛れて普通に歩いている。


 源之進は人里に身を置くだけで霊験れいけんが弱まるのを感じていた。そもそも異界の住人が人間界で太陽の下、力をふるうのは無理なはずである。にもかかわらず、栄えている江戸で豪遊の限りを尽くして大事に至らないか不安もあった。


 しかし、水軍時代に培ったあらゆる欲望が圧倒的にそれを上回る。


 「身を清め改めても、わしが里に降りられなくなる世になるのも近い。野暮らしであった人間どもがことわりから外れ、人界じんかいを作ってからはこうなる運命だったのだ」


 源之進はどこか悲しげな表情で呟いた。


 遊郭での豪遊を欲する心も、彼にとってはかつての温もりへの邂逅かいこうであり、去り行く日々への思い出作りなのかもしれない。

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