D山の遭難事件 ――山の中で見た光――

烏川 ハル

D山の遭難事件 ――山の中で見た光――

   

「すっかり暗くなってしまった……」

 昼間ならば心地よいハイキングコースも、黒い夜空の下では、心細さしか感じられない。

 とはいえ、真っ暗ではなかった。左右に立ち並ぶ木々の存在はわかるし、私の進む先に獣道けものみちのようなルートが続いているのも、かろうじて見えていた。

 暗闇に目が慣れてきた、というだけではないだろう。空は雲に覆われて月は完全に隠されているけれど、わずかな雲間に、ポツポツと星がまたたいていた。感じられない程度のかすかな星明かりは、山の中まで届いているらしい。

 そう、山の中だ。

 一人で山登りに来た私は、道を間違えて、遭難の真っ最中だった。


――――――――――――


 K県にあるD山は、K市の東端にあり、市内の様子を一望できるところだ。

 標高は約500メートルなので、山としては、かなり低い部類に入るだろう。登山の装備なんて必要なく、気軽にハイキング感覚で遊べる山だ。

 D山の近くで少し市内に入った辺りにはY山もあるが、そちらは標高が約100メートル。山というより小高い丘であり、そんなY山と比べれば、D山は一応『山』という認識だった。


 市内からD山の麓までは、アスファルトで舗装された、しっかりとした道が続く。そこから、しっとりとした土の山道に入って1時間も歩けば、急に視界が開けて、広々とした山頂広場に辿り着く。

 ただし、この山頂広場は、厳密には『山頂』ではなかった。地元の大学生などがD山で遊ぶ場合、ここを『山頂』として引き返してしまうようだが……。

 実際には、そこからさらに十数分、いや30分くらいだろうか。もう市内の様子など展望できず、右を見ても左を見ても緑の木々ばかり。そんな中を歩いて、ようやく辿り着くのが、D山の真の山頂だった。

 山頂を越えて、さらに数時間も進むと、K県から隣のS県へ出ることも可能だ。そちらまで歩くのは大変だとしても、それとは別に、K市をぐるりと取り囲むようなトレイルコースにも繋がっている。D山には登山道が色々あって、様々な楽しみ方が出来る場所だった。


 今日の私は、朝からD山に入り、山頂広場まで登って、そこで早めの昼食。人々で賑わう市内の様子を眺めながら、用意してきたおにぎりを頬張って、大自然の空気も味わった。

 一休みの後、さらに上へ。ただし真の山頂へ向かうのではなく、今まで歩いたことのないルートを行く、というのを今日のテーマにしていたのだが……。

 どうやら人間のための道ではなく、完全な獣道けものみちに入り込んでしまったらしい。進めば進むほど山奥深くに入っていき、山中の森に囲まれて、私は完全に迷ってしまったのだった。


――――――――――――


「腹減った……」

 おなかが鳴る音より先に、そんな独り言が口から飛び出した。

 暗くなってから、数時間は経っているだろう。早めの昼食だったのが災いして、もはや十二時間以上、何も食べていない状態だった。

 空腹を紛らわす意味もあって、いったん私は立ち止まり、ペットボトルに口をつける。固形物でなくても構わないから、とりあえず何か胃の中に入れよう、ということだ。

「いや、よく考えてみたら……」

 ペットボトルに入れてきたお茶も、残り少なくなってきた。こうなると、無駄な飲み方は厳禁だ。

 人間というものは、少しくらい食べなくても餓死しないが、水分が欠乏すれば命にかかわるという。食べ物よりも飲み物の心配をするべきだった。

 ますます不安になりながら、私は再び歩き出す。ここが獣道けものみちだと悟った時点で「引き返そう」と判断してUターンしたのに、あれからいくら進んでも、元の場所には辿り着いていなかった。

 これが「山道で迷う」ということなのだろう。初めての経験であり、とにかく歩き続ける以外に、対策を思いつかないのだった。


――――――――――――


 ついにペットボトルの中身がからになった頃。

 前方がボーッと明るいような気がし始めた。

「おいおい。まだ幻覚が見えるほどじゃないだろ……」

 たった今、最後の水分補給をしたばかりであり、体は正常に機能しているはず。

 自嘲気味に呟きながら、明るい方へ足を進めると……。

 気のせいではなかった。

 暗い山道の中に、はっきりとした光が見えている。

「民家のあかりだ!」

 私は歓喜の叫びを上げていた。

 こんな山奥に家があるだけでも驚きだが、電気がいているということは、無人の廃屋ではなく、人が住んでいるということ!

「おーい! 助けてくれー!」

 恥も外聞もなく大声を出しながら、私にとっての救い主となった家へ駆け寄る。

 近づくにつれ理解できたのは、わらぶき屋根の一軒家だということ。鉄道模型のジオラマでは見たことあるが、実物を見るのは初めてだ。

 今の時代には似つかわしくない建築物だが、そもそもが山奥なのだから、どんなに古めかしい家だとしても不思議ではない、と納得できた。

「おーい! おーい!」

 私が何度も叫んだので、一軒家の住人の方でも気づいてくれたらしい。

 こちらが家まで辿り着く前に、玄関の戸をガラリと開けて、一人の住人が顔を出す。

 濃緑色の着物を着た、白髪頭の老婆だった。

「おや、こんな夜更けにお客様とは……」

 彼女の前まで駆け寄った私は、膝に手をついて肩で息をしながら、事情を説明する。

「すいません、道に迷って……。食べるものも飲むものもなく……」

「おやまあ、それはお困りでしょう。さあ、どうぞ中へお入りください」


 老婆に案内された先は、入ってすぐの広い部屋。

 いわゆる土間というやつだろうか。中央には、時代物のドラマでしか見たことないような囲炉裏が設置されていて、鍋が火にかけられていた。

 湯気と共に、美味しそうな匂いが漂ってくる。

「ちょうど小腹がいてきて、夜食の準備をしていたところでねえ」

 鍋を前にして座っているのは、茶色の半纏を着た老人だった。老婆の旦那なのだろう。つまり、この家の主人だ。

「お邪魔します。山道で迷ってしまって……」

「それは大変でしたなあ。さぞかし腹も減っていることでしょうし、こんなものでよろしければ、召し上がりください」

 老婆に対するのと同じ説明を繰り返すと、出来たばかりの鍋を勧めてくる。

「はい、お言葉に甘えて……。いただきます!」


 肉も魚も入っておらず、きのこや野草が中心の山菜鍋だった。

 おかゆや漬物も出してくれたが、それも含めて、タンパク質は含まれていない。まるで精進料理だ。

 空腹が続いた胃にいきなり重いものを入れても受け付けないだろうから、むしろ私にはちょうど良かったのかもしれない。

「見ているだけで、こちらまで幸せになる食べっぷりですなあ」

「さあ、どんどん食べてくださいね。体力を回復させるためにも是非」

 老夫婦に言われるがまま、たっぷりとご馳走になり……。

 満腹になった私は、当然のように睡魔に襲われた。

 瞼が今にも閉じそう、というのは老夫婦にも伝わったらしく、

「ずっと山道を歩いていたのですからね。眠くなるのも当然でしょう」

「縁側の部屋が、一応の客間になっております。布団を敷いておきますから、ぐっすり眠って、体を休めてください」

 二人は、今晩の寝床を提供してくれた。


「では、お先に……」

「はい、おやすみなさい。良い夢を」

 鍋の後片付けをする老婆と、囲炉裏の前に座り込んだままの老人を残して、私は隣の部屋へ。

 老人が「縁側の部屋」と言ったように、障子戸一枚を隔てた向こう側は裏庭らしい。マンションやアパートのような密閉構造ではないので、夜風が入り込んでくる。

 先ほど山を歩きながら、さんざん浴びたはずの夜風だが、こうして部屋で横になってみると、かなり違ったものに思えてくる。風流だ、と感じる余裕も生まれていた。

「おやすみなさい」

 布団に入った私は、隣の部屋の二人には聞こえないのを承知の上で呟いてから、安らかに目を閉じた。

 すぐに、深い眠りに落ちると思ったのだが……。


 あれだけ眠かったはずなのに、不思議と眠れなかった。

 歩き疲れて、体は睡眠を要求しているはずなのに、なぜだろうか。

 満腹ゆえに生まれた睡魔も、横になっただけで満足して、消えてしまったのだろうか。

「この感覚は……」

 眠りたいのに眠れない。

 まるで睡眠薬が効かなくて焦る時みたいだ。

 私は日頃、市販の睡眠薬を頻繁に服用しているのだが、あまりに飲み過ぎて、少し耐性が出来てしまったらしい。翌日の仕事のことなどを考えて「今夜はきちんと寝ておかないといけないから」という場合にこそ睡眠薬を使っているはずなのに、ほとんど効き目がなくて困ってしまう。

 最近では、説明書に書かれた量の二倍を飲むようにしているくらいだった。よく小説などでは「睡眠薬をたくさん飲んで自殺する」という話が出てくるが、あれは医師が処方する特別な睡眠薬に限った話であり、市販の睡眠薬には、そのような危険な成分は含まれていないそうだ。

 とりあえず、たとえ眠れなくても目を閉じているだけで、少しは疲労回復の効果があるという。だから私は横になったまま、黙っておとなしくしていたのだが……。

 静かになった部屋の中。

 襖越しに、隣の部屋から小声の会話が聞こえてきた。


「ばあさんや、今夜の客は大丈夫じゃな?」

「やめてください、隊長。その呼び方も話し方も、もう必要ないでしょう?」

「うむ。では……」

 男の方の口調が変わる。

「……改めて確認するぞ。睡眠薬の用量、今回は失敗してないであろうな?」

「もちろんです。あんな失敗、一度で十分ですから」

「うむ。まさか大量に入れると毒になるとは……。これだから未開の惑星ほしの技術は信用できん」

「仕方ないでしょう。我々の薬を添加するわけにはいきませんからね。この惑星ほしの生き物を、この惑星ほしで暮らす状態で、生かしたまま連れ帰る……。それが我々の任務です」

「今さら言われんでも、わかっておる。我々の装置を使って構わないのは、空間をねじ曲げてこの一時基地ベースキャンプ人間サンプルを呼び寄せる段階まで。それ以上は規則違反になってしまう」

「知っていますか、隊長? この惑星ほしには『郷に入れば郷に従え』という言い回しがあるそうです。我々がこの惑星ほしの睡眠薬を使用するのも、その『郷に従え』の一種なのではないでしょうか」


 そこまで聞けば十分だった。

 ぱっちりと目を開けた私は、そーっと布団から抜け出すと、静かに障子戸を開けて、裏庭へ飛び出す。

 いつの間にか夜空の雲は薄くなり、少しは月明かりも届くようになっていた。

 その光を頼りに、抜き足差し足で歩き始める。そして、わらぶき屋根の家から十分距離が離れたところで、脱兎の如く走り出すのだった。


 二人が私の逃走に気づくまで、結構な時間を費やしたらしい。

 時々後ろを振り返ったが、追跡者が視界に入ることはなかった。

 そして、空が白み始めた頃。

 私は、見覚えのある登山道に出くわしたのだった。

「よかった……。ここまで来れば、もう安心だ……」


――――――――――――


 下山した私は、朝の通勤電車に揺られて、K市から自分の住む街まで帰った。

 都会の喧騒の中に紛れてしまえば、あの夜の出来事は、まるで夢か幻のようだったが……。

 あとでインターネットで調べてみると、最近D山では、行方不明者が頻繁に出ているらしい。毎月一人……というほどではないが、年間数人はいるという。

 オカルト系の掲示板では「妖怪か悪霊のたぐいの仕業ではないか」という意見も出ていたが、それで盛り上がるのはごく一部のマニアだけであり、むしろ「妄想乙」と一蹴する反応の方が多かった。


 しかしD山の話は別にしても、この日本では、毎日のように誰かしらが行方不明になっているのだ。

 公式発表によれば、2002年の失踪届けは10万人を超えていたという。その後は減少傾向になりつつあるが、それでも毎年8万人から9万人の間を推移しているらしい。

 大雑把に言えば、依然として約10万人ということではないか。

 それだけ多くの人間が、この日本から消えているのだ。


――――――――――――


「ふうっ……」

 眠れぬ夜、ふとベランダに出た私は、ため息をつきながら空を見上げる。

 澄み切った夜空には、満月が浮かんでいた。星々もよく見える。

 中秋の名月だ。今頃、月の光を浴びながら、お月見を楽しんでいる家庭もあるだろう。

 しかし、そんな平和な日本でも、毎年10万人は行方不明になる。

 その中には外国へ拉致された者もいる、という噂を聞いたこともあるが……。

「よその国どころか、よその星へ連れてかれた人もいるんだろうなあ」

 私の口から、自然と出てきた独り言。

 D山での遭難以来、夜空の月や星を見る度に、そんなことを考えてしまうのだった。




(「D山の遭難事件 ――山の中で見た光――」完)

   

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