28.姉さんの涙

「どうしたんだい」

 店じまいを始めた戸祭とまつりに声をかけられ、泣いていたかつらは我に返った。

「い、いえ。失礼します」

 かつらは慌てて立ち上がると、たかしの手紙を肩掛けカバンに突っ込み、三角巾と前掛けをつけたまま外に飛び出す。

「ただ事じゃねえな」

 残された空のお椀を持ち上げると、戸祭はつぶやいた。


 いつもの家までの帰り道、かつらの脳裏には隆の文章が焼き付いて消えなかった。街灯の明かりがにじんで見える。

(あの廣本ひろもとさんが隆さんの上官だった。隆さんたちは軍の命令で見捨てられた。隆さんが生きて帰ってきたことで、全てが明らかになる。廣本さんはそれを恐れていたから隆さんを「亡霊」と呼んだのかもしれないわ。

 隆さんは廣本さんから逃げようとしたけど立ち向かおうとしている。私たちのために、そして自分の過去を超えるために。私は隆さんに何ができるの? ただ「まつり」で待つことしかできないの?)

 かつらはうまや橋に向かって歩きながら、あの日の隆の申し出を思いだしていた。

(康史郞こうしろうがいなかったら、私は隆さんの申し出を受けていたかもしれない。隆さんは待ってくれると思ったから断ったのにあんなことになるなんて。もし永遠に隆さんに会えなかったら一生後悔するわ。いえ、もう後悔してる)

 かつらは自分の心に生まれた感情を整理できずにいた。


 横澤よこざわ家にたどり着いたかつらは、泣きはらした顔を洗うために台所に向かう。そこで自分が三角巾と前掛けをつけたままであることにようやく気づいた。

(駄目ね、こんな顔じゃ康史郞にばれちゃうわ)

 かつらは顔を洗うと、顔を拭いた前掛けを水道の水に浸して堅く絞った。


「おかえり」

 ドアを開けた康史郞は、かつらの雰囲気がいつもと違っているのに気づいた。前髪が濡れ、まぶたが赤みを帯びている。

「姉さん、何かあったの」

「なんでもないわ」

 かつらは部屋に上がると洗濯ひもに前掛けを干し、着替えて布団を敷き始めた。慌てて康史郞も自分の布団を敷き始める。

「今日はちょっと疲れたからもう寝るわね」

 康史郞は布団を敷くかつらを見て、昨夜の悪夢から覚めた後、かつらがうなされていたことを思いだした。思い切って尋ねてみる。

「姉さん、もしかして母さんのことで俺に隠してることない?」

 かつらは康史郞に振り向いた。

「どうしてそんなことを聞くの」

 かつらの今にも泣きそうな目を見た康史郞はうろたえた。

「いや、その、昨日寝言で母さんに謝ってたからさ」

 かつらは布団の上に正座した。康史郞もつられて正座する。

「それより良く聞いて。京極きょうごくさんはもうここに来ないわ」

「なんだって!」

 康史郞は叫ぶと、正座したままかつらににじり寄った。

「ケンカでもしたのか」

「そうじゃないわ。京極さんからもう会わない方がいいって言われたの」

 かつらは目頭を押さえる。

「私が京極さんの結婚を前提につきあって欲しいという申し出を断ったからよ。仕方ないじゃない。私は康ちゃんのお母さん代わりだもの」

 かつらは自分に言い聞かせるように説明する。康史郞の頭からは、昨夜のかつらの寝言など吹き飛んでしまった。

「姉さん、京極さんが好きじゃないの? 映画を見た夜、姉さんは本当に楽しそうだった。あんな姉さんを見たのは疎開する前以来だったよ。それに命がけで俺を助けてくれた京極さんなら兄さんと呼んでもいいと思ってた。お互い好きなのにつきあえないなんておかしいよ。俺は姉さんが人一倍苦労しているのを見てきたし、感謝してる。だけど俺だってもう一人前さ。俺のことで姉さんが自分の幸せを諦めるのなら、家出して一人で暮らしてやる」

 康史郞は思いのたけをまくし立てたが、かつらは裸電球を消すため立ち上がった。

「好きでもどうにもならないこともあるの。もう寝ましょ」


 明かりは消えたが、康史郞もかつらも寝付かれない。どれほど経ったろう。康史郞の耳にかつらの声が聞こえてきた。布団を被っているのかくぐもった声だが、寝言ではないようだ。

「康ちゃん、心配かけて、ごめんね」

 そのまますすり泣く声が漏れてくる。その泣き声を聞くだけで、かつらがどれほど辛い決断をしたのか伝わってきたが、康史郞はどうにもできない自分の無力さを痛いほど感じながら布団を握りしめることしかできなかった。

(俺は嘘つきで無力な小僧だ。でも、このままあいつらの言いなりにはなりたくない。そして姉さんと京極さんに結婚してもらいたいんだ)

 康史郞は自分に言い聞かせながら眠りに落ちていった。

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