第四章 過去のしがらみ

21.本番の仕事

 10月4日、土曜日。中学校の帰り道、康史郞こうしろう征一せいいちに頼みを持ちかけた。

「明日、ヤマさんの仕事の手伝いで昼から出かけるんだ。姉さんには征一と勉強するってことにしたいんだけど、協力してくれないか」

「いつもの釣りじゃダメなのかい」

 征一は康史郞のくず鉄拾いについては知っているが、八馬やまと会ったことはない。

「このカバンを仕事に使うから。それに釣り道具は持って行けないし」

 康史郞は肩掛けカバンを指差した。征一はうなずく。

「それなら仕方ないね。協力しよう」

「ありがとう。お礼に今日の貸本代は俺が出すよ」

「嬉しいけど、お金は大丈夫?」

 征一が心配げに康史郞をのぞき込む。康史郞は胸を叩いた。

「流されたズックの代わりを姉さんが買ってきてくれたから、ズック用に貯めてたお金があるんだ。あんまりたくさん借りるなよ」

「ばあちゃんに見つからない程度にするって」

 征一は目配せすると貸本屋に向けて足を速める。康史郞にはその金は本当は八馬からもらったものだとは言えなかった。


 日曜日。八馬の言っていた「本番の仕事」の日である。もんぺ姿でいつものように洗濯を始めるかつらに康史郞は呼びかけた。

「姉さん、今日は12時前に出かけるから、昼飯は早めに用意して」

「あら、釣りには行かないの」

「うん、征一と試験勉強するんだ」

ゆうちゃんに似て勉強好きになってきたわね。嬉しいわ」

 洗濯物を持ったかつらが外に出て行くと、康史郞は擬態用の教科書をカバンに入れた。

「ごめんな、姉さん」


 かつらは外の水道から汲んだ水を洗濯ダライに入れると、洗濯板に石けんをこすりつけながら服を洗い始めた。

(そろそろ冬服の時期ね。康ちゃんのセーターも新しいのを用意しないと)

 康史郞はこれまで学童疎開時に持っていったセーターをずっと着ていたが、さすがに伸びきっていたのでほどいて毛糸に戻そうとかつらは考えていた。しかし編み物をしたことがないかつらがいきなりセーターを編むのは無理筋である。

(マフラーにしようかな。それとも手袋かしら。とにかく編み棒を買わないと)

 かつらは必死に考えていたが、心の奥にある不安が次第に頭をもたげてきた。

(たかしさん、今週はあれからずっとお店に来なかった。やっぱり気にしてるのかしら)

 あの夜の隆の残念そうな表情が、かつらの脳裏に浮かんでくる。

(私、隆さんの住んでいる場所も、好物も、苦手な物も知らない。もっといろんなことを知りたいし、隆さんにも私のことをもっと知って欲しい。結婚するかどうかはそれから考えさせて)

 あの時言えなかった言葉をかつらは飲み込むと、洗濯物を一心に揉み続けた。


 昼食のおにぎりを食べた康史郞は11時45分過ぎに家を出た。先週と同じ、タンクトップの上に学生服の上衣、羊太郎の軍服ズボン、肩掛けカバンに学生帽という恰好だ。違っているのはかつらのお陰で復活したズック靴である。

 うまや橋の電停に着くと康史郞は辺りを見回した。道の向こうでカイとリュウがこちらを伺っている。康史郞は2人に近づくと墨田川の川縁に誘った。

「ヤマさんはなんて言ってた」

 康史郞が尋ねると、カイがシャツの下から紙袋を取り出した。

「受け渡しの場所は先週と同じ。合い言葉は『茶色のズック』。茶色の背広を着た男が来るから、渡したら寄り道せずに店に帰ってこいってさ」

「君たち、この袋の中身を知ってるの」

 康史郞の問いにリュウが小声で答える。

「言っちゃダメだってさ」

「見ない方がいいぞ。ばれたらタダじゃ済まない」

 カイも念押しする。

「仕方ないな。仕事が済んだらまた話そうぜ」

 康史郞は2人にそう言い残すと電停に向かった。


 先週と同じく、上野広小路駅の電停で学生帽を後ろ向きに被って立っていると、茶色の背広を羽織った中年の男性がやって来た。先週の無精ひげの男よりも年かさに見える。

 男は康史郞の前に立つと「何色のズックを持ってきた」と尋ねる。小声だが声に圧がある。自分を値踏みされているように感じた康史郞は、気圧けおされないよう背筋を伸ばして答えた。

「茶色です」

「よし、もらおう」

 康史郞がカバンから紙袋を渡そうとした時に、一緒に入れていた教科書が飛び出しかけた。慌てて教科書を押さえる。その間に袋の中身を確かめた男は封筒を康史郞に差し出した。

「交渉は成立だと店主に伝えろ」

 そう言い残すと男は人混みの中に消えていった。康史郞はようやく一息つくが、今度は代金を早く八馬に渡さなくてはいけない。帰りの都電を待つのがもどかしい康史郞は、ヒロポンの売人が現れないか見張っていた新田にった刑事が電停から離れた男に目をとめ、尾行しはじめたことに気づかなかった。

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