20.隆の申し出

 9月30日。カイとリュウは八馬やまに命じられ「まつり」の近くでかつらが出てくるのを待っていた。夕闇が2人の姿を隠してくれている。

『坊主の姉貴が眼鏡の男と会ったら後をつけろ。男の家を突き止めたらすぐに知らせに来るんだ』というのが八馬の言いつけだった。昨日も縫製工場の仕事が終わったかつらの後をつけたのだが、かつらは「まつり」に入ったものの、眼鏡の男は来なかったのだ。

 「まつり」の幌の間から、暖かい空気と味噌汁の臭いが流れてくる。昼から何も食べていない2人は空腹をこらえながら入口を見つめていた。

「早く眼鏡の人来ないかな」

 リュウが小声でささやいた直後、両国駅の方向からカバンに作業服、眼鏡姿の青年が歩いてきた。2人は思わず息をのむ。

「来たぞ」

 カイはリュウに目配せした。


 30分ほど過ぎ、食事を終えたたかしが「まつり」から出てきた。そのまま店の裏手に回る。どうやらかつらが出てくるのを待っているようだ。5分ほどすると、かつらと隆が連れ立ってうまや橋の方向に歩き始めたため、カイとリュウはそのまま後をつけた。


「日曜の映画の後、家で康史郞こうしろうと一緒にダンスをしたんですよ」

 かつらは笑顔で隆に話しかけるが、隆は無表情でうなずくだけだ。

「もしかして、あの男の人のこと考えてるんですか」

 かつらの呼びかけに隆は立ち止まった。

「違う。実は君のことを考えてたんだ。横澤よこざわさん、いや、『かつらさん』と呼んでもいいかな」

 突然の申し出に、今度はかつらが立ち止まった。後をつけているカイとリュウも慌てて電柱の影に身を隠すが、2人は全く気づいていない。

 かつらは隆に顔を向けると笑顔で答えた。

「いいですよ。その代わり、私もお店以外では『隆さん』と呼んでいいですか」

 隆の表情がようやく崩れた。

「もちろんだよ」

「ありがとうございます」

 かつらの返事を聞いた隆は再び歩き始めた。

「厩橋に着いたら、話したいことがあるんだ」


 2人は厩橋に着いた。いつもなら別れるところだが、隆は厩橋の手前でかつらを遮った。

「かつらさん、私と結婚を前提におつきあいしてくれませんか」

「えっ」

 かつらは思わず手を頬に当てた。隆は話し続ける。

「日曜からずっと考えていた。私に新しい家族ができたら。それが君と康史郞君ならどれだけいいか」

 隆はかつらに手を伸ばすが、かつらは思わず手を後ろに回した。

「隆さん、私は康史郞の母親がわりです。康史郞を一人前にするのが仕事だと思っています。今は結婚なんて考えられません。ごめんなさい」

 かつらは頭を下げる。隆は伸ばしていた手を下ろすと道を空けた。

「悪かった。今の話は忘れてくれ。おやすみ」

 隆はそのまま足早に戻っていく。後をつけていたカイとリュウもあわてて隆の後を追った。

 かつらは厩橋を歩きながら、隆の申し出と自分の答えを反芻はんすうしていた。

(『隆さん』って呼んでいいって言うから期待させてしまったんだわ。でも、私の答え、間違ってなかったわよね、母さん)


 カイとリュウは、隆の住む簡易宿所を確かめ、雑貨店にいる八馬と廣本ひろもとに報告した。八馬は10円札をカイに渡すと、「もう寝ろ」と2人を追い出そうとしたが、廣本が遮った。

「夕飯まだだろ。こいつを持ってけ」

 廣本はりんごを一個差し出すと、小刀で2つに割る。リュウが大事そうに受け取ると、2人は外に出て行った。改めて八馬が廣本に向き直る。

「まさか坊主の姉貴の恋人がヒロの部下だったなんてな」

京極きょうごくは死んだはずなのに、なぜ生きてるんだ。あいつに責められるのはもうたくさんだ」

 注射器を取りだそうとする廣本を八馬が制した。

「とりあえず家の場所だけ確認しておけ。あいつを姉貴から引き離すんだ」


 宿に戻った隆は、自分が性急すぎたことに自己嫌悪を抱いていた。

(私が勝手に盛り上がっただけなんだ。かつらさんが親しくしてくれるのと、結婚したいかは別の話なのに)

 落ち着かない隆は久し振りにたばこが吸いたくなり、財布を持って外に出た。宿を出た所で突然声をかけられる。

「京極、ここにいたのか」

「廣本伍長ごちょう

 隆は反射的に後ずさった。廣本の目が隆を見据える。

「貴様は亡霊だ。二度とあの女には関わるな。そうすれば見逃してやる」

 隆は無言できびすを返すと、部屋に駆け戻った。

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