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「小さいころの話?」

「そうね。お母さんは、私が本当に赤ちゃんの頃に出て行ってしまったらしいの。だからお母さんの顔は、最初から知らない。はっきり覚えてるのは、一番近い姉さんだけ」

「みんな、小さいころに出て行ったの?」

 そんなひどい話があるのだろうか。一人が好きな私でも、それが好ましくない一人であることの区別ぐらいはついていた。

 そうじゃないの、とお姉さんは言った。


「私は……大人になるのが、すごく遅かったの」


 大人になるのが遅いとは、どういうことだろう。身長が伸びないとか、歯が抜けないとか、そういうことだろうか。

「一人で歩くのが遅かったし、喋るのも遅かった。――犬、飼ったことある?」

 私は、おばあちゃんの家に住む、ゴールデンレトリバーのラッシュを思い出した。身体が大きくて、人懐っこい犬だ。

「ラッシュって、もう大人だって言われなかった?」

「うん、いわれた!」

 だから私とあまり年が変わらないのに、もうおじいちゃんになるんだから、無理させちゃだめよ、と言われた。おじいちゃんになるということは、私のお祖父ちゃんみたいに死んでしまうということだ。ゆっくりとお祖父ちゃんの目を閉じる時間が長くなっていく、あの時間は辛かった。そのことを考えると年を取らないでほしい、と願っていた。

「それと似たような、いや、逆か」と、お姉さんは言った。


「皆がうさぎなら、私は亀だった。子供を産むどころか働けない私を、おじいちゃんになったお父さんは、すごく心配して、お母さんを探しに行った。お母さんと私は一緒だから」


「でも、帰ってこなかった。お母さんには、会えなかったんだと思う」


「ようやく私も物事の判別がつくようになった。その頃には、家に戻った姉さんだけが生きていた。どんどん変わって、弱っていく姉さんを見て、怖くなって家を出た」

「慣れない看病して私、自分が亀なことに、ようやく気づいた。でも姉さんに急かされても、これ以上速く走れない。姉さんが心配してくれてるのはわかってたけど、責められてるようだった」


「しばらく山で生活して、自分は火がない方がよかったことに気づいた。人もいない、イガイガする煙もあの燻す匂いも、鬱陶しい灰もない。暖める火なんていらない私はようやく、私の時間を生きれるようになった。でも、姉さんのことを忘れることができなくて、また戻ったの」


「そうしたら、もう、誰もいなかった。……………………目を離したら、一瞬でなくなった……」


 お姉さんは、自分の膝に顔をうずめていた。

「夢の中で、家族が囲炉裏の火を囲んでいるの。皆、私をそこに座らせようとする。……私は、座りたくなかった。離れたかった。

 姉さんとの最後と、家が崩れ落ちながら赤く燃えて、舞い上がった灰が夜に溶けて消える、あの景色を思い出してしまうのなら、尚更」


「じゃあ、火を消そうよ!」


 お姉さんの言葉には情報が抜けていて、幼い私にはわからないことが多かった。だけど、お姉さんが火を見て苦しんでいるのだと言うことは、見ているだけで分かった。


「火を消して、好きな場所に行こうよ!」


 私の手は、お姉さんの手とつながっていた。

 手は冷たいままだった。

 家を暖める火は、ちっともお姉さんを暖めないし、むしろ近づいてはいけないものだ。


「……ありがとう」

 姉さんは顔を少し上げた。目が少し、赤かった。

「それでも、この家は無事だったから。もしかすると姉さんも、別のところに避難して、生きていたかもしれない。だから、火から目を離しちゃいけないの。この家さえ残っていたら、姉さんの子供たちが来るかもしれない。もう逃げて失いたくない……」


 自分と相反するものを、持ち続けることはつらい。

 でもこの人は、否定したり、壊したくもないんだ。

 これは、孤独だ。私やお姉さんの家族のように、火の暖かさや明るさや、家族や社会の繋がりを尊ぶ人にはわからない。

 この孤独な人を、自由にしてあげたかった。

 ――でもこの人の痛みを、私が終わらせることなんてできなかった。



     ❄️



 あの時の私が、どうやってお姉さんと別れ、家に帰れたかは思い出せない。

 そもそも、あの時の季節は夏で、私はツクツクボウシが鳴く森にいたのだ。

 私は、あの人は「雪女」なのかもしれない、と思い、誰にも話さなかった。――雪女は、話してしまえば、消えてしまうから。そもそも大人がバカにしないで聞いてくれるとも思わなかった。そして大きくなるにつれて「幼い頃の夢だったのだろう」と思い込み、徐々に忘れていった。


 それが大学のレクリエーションの一環として、広間型農家の家を見学した時、思い出した。自在鉤の名前も、囲炉裏は空気ではなく、床を暖めることも。――夏の日も、火を絶やしてはいけないことも。

 先生として呼ばれた年配の男性の言葉を聞いて、あの日の出来事が妄想ではないという確信に変わっていく。

「夏にも火をつけるって、暑くないですか?」

 男子の言葉に、年配の男性はこう言った。

「むしろ火を焚くことで、空気の対流がうまれ、涼しくなるのです。夏は低い窓を開けて、涼しい風を取り込みます」

 頬をかすめる風に誘われながら、私はふと、窓の傍にモノが置かれていることに気づいた。


「実はこの家、私の遠縁が譲り渡してくれたものでしてね。私はすでに家族がいないと思っていたものだから、びっくりしました……」


 薫風に乗った男性の嬉しそうな声が、家を通り抜けていく。


 絵画のように、青空を切りとったような窓の枠には、ピンクのマグカップが置かれていた。




  ――もしあなたが今夜見た事を誰かに――あなたの母さんにでも――云ったら




『雪女』の一文を、思い出した。

 ああそうとも。この物語は、誰にも言わない。

 だけど、これだけは言わせて。

 熾火おきびを、消さなかったんだね。暖かさと明るさと、繋がりが必要な人のために、渡したんだね。

 熾火から解放されたあなたは、どこかにある、あなたの場所へ向かったんだね。


「いってらっしゃい」


 触れた床はひんやりと冷たくて、あの時雪を払ってくれたお姉さんの指先のようだった。








熾火おきび


おこした炭火のこと。

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熾火を渡す 肥前ロンズ @misora2222

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