3 のぞみを

 十九時過ぎ、社務所兼自宅。

 客間では、計六人の老若男女が夕飯を囲んでいた。

「こういう賑やかな食事も良いですな」

 地味な色のワイシャツの上にベストを着た男は、父と同じ会社に勤める四十代役員で、部署を隔てた飲み会で意気投合したという。

「わたくしも、こんな楽しい夕食は久しぶりですわ」

 若い女が上品に相槌を打った。こちらは母の友人で、二十代後半にして名家へ嫁ぎ、夫を支えているらしい。

「そう、ですね……」

 森下は――借りてきたネコになりつつも、余所行よそゆきの対応を見せていた。

 それは言葉の暖かさに身を委ねるひと時。

 一方で、刻々と終わりに近づくひと時でもあった。

 客人は、あす訪れる現実を理解しながら、作った笑顔に端的たんてきな本心を映し出している。食事の最中、不意に訪れた無言は世界の終わりのように暗かった。


 不意に母が小さな咳払いをした。それを合図に、父は来客を見回し、

「ところで。今日来ていただいた三名のお客人には、共通点があるんですよ」

 うそぶくようにひとつの議題イシューを口にした。

「なんでしょうか。見当もつきませんわね」

 若い女が、終始変わらぬ様子でふわりと一笑した。

「まさか同じ誕生日だったりして」

 応じるように、ベストの男もにこやかに答えた。

「……ん?」

 一方で森下は、訝しげに少年へと目線を送ってきた。少年はなにも返さずに、その幼い顔を見つめた。

「残念。正解は――」

 ここまでは父も、合わせ鏡を一貫していた。が、呼気を整えたあと、感情をセパレートするように真顔になった。そうして続けたのは、

「ここに集まったのは、社会から疎外され、酷な扱いを受けている方々です」

 流暢りゅうちょうな態度と、空間を一気に干渉かんしょうする淡白な文言だった。

「なにを言うのかと思えば……。へ、変な冗談はよしてくださいよ」

 真っ先に反応したのはベストの男だった。作り笑いの反面、納得しきれない顔を見せている。目を泳がせる若い女からも、安易な狼狽が表れていた。

「私たち家族には、そういった人間が引き寄せられるのですよ」

「どういうことです? カウンセラーの資格でもお持ちなのですか?」

 ベストの男は優しかった目つきを細くすると、父が一拍置いて首を横に振った。

「新たな環境に適応しようとするが、変われない人たちが居る。それでも周囲からは叩かれ続ける。時代が発展し、他者との比較が可視化され、『たまたま成功する環境に居ただけの凡人』が、『環境が悪かった凡人』を見下す構図が出来上がった。そんな方々を救済するのが我々の目的です」

 父が語気を強めると、突如として居間が暗転し、様相が一変した。

 畳にはカビが生え、浮かび上がる靴跡。骨組みがむき出しになったふすま、剥がれた漆喰しっくい壁。くすんだ木の座卓と、その割れ目で蠢く虫。皆が囲んでいたディナーも、もうそこには存在していない。

 傘が割れた蛍光灯の代わりに、天井の隙間から漏れる月光が、長押なげし敷居しきい床柱とこばしらなど、和室としての基本的なパッケージを照らし出している。夜風が通りすぎるだけで、木材や金属が軋んで、今にも建物が崩れてしまいそうだった。

「皆さん。もし第三者へ影響を与えることにより、今の生活を救済できるとしたら、なにを望みますか?」


 ふわりと問いかけられたワードを機に、来客は各々の反応に移った。

 考える素振りでうつむく。

 言葉をなくし、生を喪失そうしつしたように目を閉じる。

 無表情で、少年の腕を強く握る。

 この場の静寂は、客人の心そのものだった。そうして、目を落としていたベストの男は「僕は――」と蚊の鳴くような導入を開始した。

「家にも会社にも居場所がないんです。役職につきながらも、会社の求めるリスキリングができず、給料も上がらない。結果、同僚や後輩――いや、家族からも蔑まれているダメ中年なんです」

 この世代の男性は、会社にしか居場所がなかったような生き物だ。時代が移り、変化を求められた結果、公私のどちらにも居場所がなくなったということか。

「――ダメなんてことはありませんわ!」

 感情的に口を挟んだのは、若い女だった。

「アタシ――いや、わたくしは、ある名家に嫁いだのですが……アレもコレもできなくては、一流の妻にはなれないと姑にたしなめられています。最近では、旦那にさえ愛されていないようで……不出来な自分が不安になります。経験のないわたくしにとっても、日々がリスキリングと同様なのかもしれません」

 物静かだった彼女は、時代の過渡期に照らし合わせるように自らの立場を一気に吐露した。名家の中では時間が止まっているような、昭和の価値観が彼女を苦しめているのだ。

「そんな矢先、こちらの奥様に出会いました。立場が違うわたくしに対しても、分け隔てなく接してくださったのです」

 本心を語り終えたふたりは名残惜しそうに目を逸らしたり、無暗に衣服を触ったり、落ち着かない挙動が目立った。

 ――流れで、皆の視線が森下に集まった。


「わたしにとっての救済は、キミと一緒に居ることだから」

 すると、無表情だった彼女は目を見開き、握っていた少年の腕に力を込めて、勢いよく立ち上がった。少年はそのまま引っ張られ、廊下、玄関、境内――気づけば、石段の前まで連れてこられた。どうした、という表情を読み取ったように、

「あんな気味悪いとこ居たくないし。てゆかオジサンも女の人も、別に社会の弱者でもなんでもないじゃん」

 目を細めた森下は悪態を吐き捨てた。少年が返答しないで居ると、腕を掴まれたまま石段を下り、鳥居を潜らされた。他家の浴室からフルーティな香りが漂ってくる街路。点滅する水銀灯の下で、ふたりは改めて向かい合う。

「オジサンは普通に社会的地位があるし、女の人はボンボンの嫁。なのに被害者ムーブ全開で、草も生えないんだけど」

 攻撃的かつ他人を認めようとしない少女の姿には、学校で見せていた気弱な面影なんて残っていなかった。

「他人には他人に理解できない悩みがあるんだ」

「だったらあんな告白する意味なくない?」

「聞いてほしいだけで、理解を求めるのは二の次。SNSと同じだよ」

偏った取捨選択フィルターバブルの結果じゃん。必然が生んだ体たらくよ」

 それでいて隠していた攻撃性を、親しくなった友人――あるいは一方的に親しいと思いこんでいる人間に向けてくる。

「人のことはどうでも良いだろう? 森下さんはなにを望むんだ? 誰に干渉し、どう自分を変えたいんだ?」

 少年は首を傾けながら、彼女と同じような顔をしてみせた。

「さっき言ったよ。わたしは今を――キミと離れない生活を望む、キミに干渉して」

 森下の好意は、思春期が異性に抱く『好き』とは異なっていた。それを超越した先にある思惑が、本来の彼女なのだ。

「キミが何者かなんて聞く気はない。わたしを選んだ理由も、その行動目的も。キツネに化かされてようが、現人神の気まぐれだろうが構わない」

 森下に腕を引き寄せられた少年は、これまでで最も近い距離で、生暖かい吐息を感じた。触れそうで触れない、いじらしいディスタンスを心得ているように、増大した想いを浮き彫りにしている。

「どしたの? ゲジゲジを噛み潰したみたいな顔して。嘔吐えずきながら飲みこんだあとも、節とか足とかが歯に挟まってるの。おぇ……」

 少女の歪んだ感性が、少年の表情を歪めた。彼女のペースに付き合っていては、その幼い狂気に呑みこまれてしまうだろう。

「一緒に居るのは無理だよ。望みを叶えたあと、俺は新しい住処へと移り住む」

 少年は、山奥に生息する名前もわからない苦虫を噛み潰したように、眉間に渓谷を作ると、自分のペースに戻そうとした。

「ありがち。てか救済とか言いつつ、随分ズルいんだね。勝手に現れて望みを叶えたら、どこかに消えてくなんて。独りよがりWankerにもほどがあるね」

 が、森下は少年の言動すべてを否定するように、煽り文句をいくつも並べてきた。あたかも、日常的につぶやいているような素振りが垣間見え、少年は強く言い返そうと、「俺は――」と口を開こうとしたが、

「キミは知らないだけ!」

 少年の意見は、森下の威圧によって制された。

「あのね。魔法のランプをこすると、その何倍もの人が不幸になるんだよ」

「現実でも同じさ。夢を叶える人が居ると同時に、それに敗れる人が居るだろ」

「そいつらは、人生というちっぽけな小レースで取っ組み合いしてるだけよ。スポーツだろうが文芸だろうが、好きにやってれば良い」

 少年は返答にきゅうした。

 今まで願いを叶えたいと縋る人物は、生まれながらの弱者ゆえに、仕返しや復讐など、優位に立つ方法を追い求めていた。カーストに興味がない冷めた十代も、最後には願望を捻出ねんしゅつし、どこかで落としどころを見つけるのだ。結局、人間なんて自分のことしか考えていない。

 だが、森下にはそういう傾向が見受けられなかった。

 ――いや、自らの人生を切り開こうともしていない。

 感じられるのは、少年への固執である。


「ということは、森下さんは別に願いを叶えなくても良いんじゃないか?」

「だからキミと離れないことが願いだってばよ。なに? 自分から話を持ちかけてきたクセに、わたしを捨てるような真似するんだ?」

 森下は罪悪感へと付けこんできたあと、少年から目を逸らし、苔むしたお稲荷さんに目を移した。

「人聞きが悪いな。どうであれ、俺への依存いそんは聞き入れられない」

「じゃあ救われなくて良いよ。救われないまま、キミと離れず一緒に居る」

 森下が見せた頬の緩みに胸騒ぎを覚え、少年は咄嗟に一歩引いた。意外にも、腕を掴んでいた右手のロックは簡単に外れ、フィジカル、メンタルともに気味の悪い拘束から逃れることができた。森下は少年の行動を見据えていたように表情を戻し、鳥居の先の平山に目線を上げる。

「なにがムカつくって、落ちぶれた人間がなんとなく願いを叶えたり、救われたりすることだよ。わたしを含めてね」

 そうして放たれた冷たいアイロニーは、自らの願望を口にしているであろう大人たちへ向けられていた。

「そんなに弱者が救われるのが気に入らないのか? どうしてそこまで……」

「弱者? ふん……知りたいなら教えてあげるよ? もっと近づいてくれたら」

 彼女がワガママを振りかざすだけの人物なら、ここですべてを吐き出しているだろう。本音を語らないのは、自らのバックグラウンドに――過去の領域に誘いこもうとしているのだ。

「いや、今日は遅いから別日にしよう」

 言われるまま、弱者の人となりに触れれば、それとなく抱いている僻目ひがめが解消される。事情がどうであれ、少年は心身を休めるインターバルを設けようとした。

「わたしは良いけど、キミはそれで良いの?」

 だが、彼女のプレッシャーが圧し掛かってきて、返すアテのない負債を背負わされた気分になった。

「ひとまず、ここで」

「はいはい。わかったわかった。知らないんだ」

 次に顔を合わせることさえ食傷しょくしょうさせる純粋な瞳は、まさに厭世えんせいを映し出しているようで――

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