永久の輝きをもう一度

吉華

永久の輝きをもう一度

「頼む。どうしても、どうしても君を失いたくないんだ」

 声が、握る手が、みっともなく震えてしまっていた。少しでも瞬きをすれば涙が零れ落ちていきそうで、それは格好悪いからと必死に虚勢を張って、彼女の碧い瞳を見つめ続けていた。

「……そうすれば、私は助かるかもしれない?」

「可能性が高くなる。今よりも、もっと、ずっと。もちろん、百パーセントとは言えないけれど、それでも……今よりは確実に高くなる」

 だから、そのために。君の時間を止める事を許してほしい。そんな我儘を彼女へと告げた数日後。彼女は、とある約束を交わす事を条件に……微笑んで了承してくれた。

  ***


 カイトス=グリーゼ

 ミラ=ケイティ


 この二人は、同じ日の、同じ時間に、同じ町で生まれた。誕生の瞬間から運命的だった二人が互いを愛し、これからを共にと願うようになったのも、必然という名の運命だったのかもしれない。

「ミラ、迎えに来たよ」

「カイトス!」

 志の違いから二人は違う学校を選んだけれども、放課後はいつもカイトスがミラを迎えに来た。ミラはいつだってそれを喜んで、門の前で待つカイトスを見つける度に、宝石のようだと称された碧い瞳をきらきらと瞬かせた。

「ミラ、ミラ、僕のアンドロメダ」

「カイトス、カイトス、私のペルセウス」

 周りが呆れるのも構わずに、二人は、小さい頃に読んだお気に入りの神話になぞらえて互いを呼んでいた。互いが、互いを心から愛していて、心から永遠の愛と幸福を願っていた。

「カイトス、どうしよう。私……ケートスにかかっちゃったみたい」

 ミラがカイトスにそう告げたその日から。カイトスは、彼女のペルセウスは、奇跡のような可能性を信じて途方もない戦いに身を投じる事になった。


  ***


「……また、だめか」

 ため息をつきながら、中の液体を廃液入れに流し込んで蓋をする。空になった試験管を洗浄機にセットして、朝食の準備をする事にした。

 少し焦げたトーストを齧りながら、届いた新聞を流し見る。めぼしい情報は得られなかったので、口に残った分をコーヒーで流し込んでダイニングを後にした。

『だめよ、カイトス。トーストだけじゃなくてサラダとオムレツも食べなきゃ』

 ふっと、慕わしい声がした気がして、そんな訳はないのにと自嘲した。彼女の声帯が発した彼女の本物の声は、もう五年聞いていない。

「ミラ、ミラ。僕の……アンドロメダ」

 くじけそうになる度に、瞳を閉じて眼裏に愛しい笑顔を映し出した。嬉しそうに僕を呼んでくれる溌剌とした笑顔が、昼寝から目が覚めて少しぼんやりとしている横顔が、僕を見上げて幸せそうにしている顔が、もう一度僕を奮い立たせてくれる。

「待っていて。必ず、必ず、君と君の未来を取り戻してみせる」

 ぱん、と音を立てて頬を叩き気合を入れる。今度は加えた溶液の量を二倍に増やして結果を見てみるか、と次の手を考えながらラボに戻った。


  ***


 カイトス=グリーゼ。このバレーナの国で生まれて育った、見た目はごく普通の一般的な青年である。

 しかし、彼の中身は普通ではなかった。彼の生まれ持った能力は、まさに神童と称されるに相応しい程のものだったのだ。

 彼がその類稀な能力を初めに発揮したのは、学校で開催されたクイズコンテストであった。チャンピオンとなれるのはほとんどが最上級生ばかりであったそのコンテストを、入学したてのわずか五歳で制したのだ。

 そして、五歳ならば簡単なアルファベットが読めるくらいの年頃であるが、彼はその年で既に大人でも読むのが難しいような歴史書や古典、科学的な専門書をすらすらと読んでいた。そして、その内容をしっかりと理解していて、研究者との討論も遜色なく行なえていた。とある研究者が彼の着目点に感心し、自分が今抱えている研究が滞ってしまっているけどどうすればいいと思うかと聞いた時も、カイトスは論理的に考えて真面目に返答した。その理論に納得のいった彼はその通りに研究を進めていき、誰も成し得なかった世界初の偉業を遂げた。

 それには、国中が震撼した。連日テレビは彼を取り上げ、たくさんのメディアが彼の元を訪れ、こぞって神童の様子を放送しようとした。

 けれど、生来引っ込み思案のカイトスはメディア向けの少年ではなかった。連日押し掛けるメディアの要求に上手く答えられずに、大人を恐れて部屋に閉じ籠るようになってしまったのだ。思ったような映像が撮れないと踏んだメディアは、さっさと彼に見切りをつけて付き纏わなくなった。

 それでも、カイトスのトラウマは消えなかった。外に出る事を怖がったカイトスはそれまで以上にたくさんの書物や論文・科学雑誌を読み漁るようになり、研究者とは変わらずに仲良くしていた。共同研究者として論文や科学雑誌に名前が載ったりする度にまたメディアが押し掛けてきたが、カイトスは科学雑誌のチーム以外からの取材には一切応じないままであった。

 その後、カイトスが高等科に上がったくらいの年頃に、とあるラボが施設停止の憂き目に晒されていた。そのラボは、カイトスが幼少期から交流を持っている研究者の縁者が経営していたラボで、カイトスも何度か訪れた事がある場所だった。

『ここを僕に下さい。思う存分に自分の研究が出来るラボが欲しかったんです』

 経営者は、その申し出を喜んで受け入れた。カイトスならば、きっとこのラボを有効活用してくれると言って、破格の値段で彼に譲った。

 カイトスは、それに応えるように研究に没頭し、様々な発見をし、発明をし、真実を明らかにした。しかしその業績は、業界では有名だが世間的には知られていない雑誌にだけ掲載され、一般のメディアには出る事がなかった。

 そのため、発明を使うのは研究者でない一般の人だから、僕も普通の生活を知らなければいけない。そう言って真面目に学校に通っていたカイトスは、当の学校では異質な存在として孤立してしまっていた。


  ***


 ふっと体が軽くなったと思った瞬間、どすんという大きな音と衝撃のせいで目が覚めた。一拍遅れてやってきた痛みに、自分がベッドから転がり落ちたのだと気づく。

 ちかちかと光る視界が落ち着いてから、ゆっくりと起き上がった。立ったり伸びをしたりといった動作は出来るので、大事には至っていないらしい。

『起きてるか、カイトス! 起きてたら返事してくれ!』

 ダイニングに降りていくと、設置してある転送電話が同胞を映し出していた。回線のスイッチを入れて、朝っぱらからどうしたと返事をする。

『ようやく成功した! これで、創薬の目途が立ったぞ!』

「……本当か!?」

『ああ、ああ、間違いない。一か月前に成功して、それから三度同じ条件と別の条件で行った。同じ条件でやった時だけ成功し続けたから、今その結果を纏めている!』

「纏めたらこっちにもデータ送ってくれ! あ、雑誌には論文送っとけよ!」

『その辺は抜かりねぇよ! 雑誌に載って認められたら報酬弾んでくれ!』

「何言ってんだ、一大特集に決まってんだろ! 期待しとけ!」

 浮足立った気持ちのままやり取りを終え、回線を切る。ようやく、ようやくスタートラインに立てた。この技術が確立したのなら、この先の創薬研究が進められる。

「ミラ、ミラ、僕のアンドロメダ。ようやく、希望が見えてきたよ!」

 彼女の時を止めてから、ゆうに十年は経った頃合いだった。


  ***


 ミラ=ケイティ。このバレーナの地で生まれ育った、透き通る茶髪と煌めく碧眼を持った美少女である。朗らかで素直で、誰からも愛されたこの少女は、カイトスの事を誰よりも深く愛していた。

 彼女自身には、特別な才能はなかった。学校のテストは頑張れば平均点を超えるくらいで、特別に料理が上手い訳でも、運動が得意な訳でも、歌が上手い訳でもなかった。

 だけど、彼女は、いつも一生懸命だった。愛する人のために何かしたいと言って、研究ばかりで自身の事には無頓着な恋人の世話を楽しそうに焼いていた。その一方で、自分の足でもきちんと立っていられるように、彼と並び立つに相応しい自分になる事が出来るようにといって、そのための努力も怠らなかった。言ってみれば、彼女には努力する才能があった。

 だからこそ、彼女は誰からも愛された。そんな彼女を妬む人も現れたが、そんな人でさえ彼女の芯の強さに、恋人を一番に支えるためにと努力する姿には感心していた。

 彼女は、役に立つアドバイスは聞き入れたが甘言には一切応じなかった。世間と距離を取りがちな恋人と世を取り持ち、時には周りの人を、時には恋人を叱咤激励し、愛する人を支え続けた。彼にはこの世界を変えていくパワーがある、自分はそんな彼が一息つける存在でありたいと、研究に没頭してソファで寝落ちている彼の頭を膝に乗せ、愛おし気に撫でながら語っているような女性であった。大人を怖がって部屋から出なくなったカイトスをもう一度扉の外に導いたのも、彼の自宅周りを固めるメディアをうまく出し抜き彼の部屋に訪れ、傍らで励まし続けた彼女だった。

 他ならぬ彼のために、そして自分自身のために、とひたむきにミラは努力を積み重ねていた。高等科卒業を一年後に控え、卒業と同時に彼の元へと嫁ぐ事が決まっていた彼女はさらに研鑽を重ねていた。

 そんな彼女をあざ笑うかのように、かの病魔は彼女を襲って蝕んでいった。


  ***


 この二十年ずっと研究に協力してくれていた同胞達の前で、それを行った。毒々しい赤色に透明なそれを注ぎ込んで、静置する。目の前で起こるはずの変化を、固唾を呑んで見守っていた。

「っあ……あぁ!! 赤色が、薄くなって!」

「おい、見たよな!? 俺の見間違いじゃないよな!?」

「ああ、間違いない! 試験管レベルだが、間違いなく効いてる!」

 歓喜の叫びが、ラボ中にこだました。技術が確立し、おそらくウイルスに有効だと言われていた成分を片っ端からスクリーニングしていたが、とうとう、一番強く反応を示した成分の単離抽出に成功した!

「速度的にも、見た目の純度的にも、きちんと成分単体として分離出来てる」

「これで薬として製造出来るな。ほら、成分の見つけの親だろ、薬の名前はカイトスが付けろ」

「……セルパネック、とかどうだ」

 ずっと考えていた、語呂合わせみたいな名前を場に告げる。すると、何故か皆で大爆笑し始めた。

「おい、何で笑ってんだ」

「ふ、ははっ! だって、そりゃあ分かりやす過ぎだろ! 流石、互いをアンドロメダとペルセウスと呼んでただけはあるな!」

「……悪いか」

「いいや? その一念がなけりゃ二十年も研究出来なかっただろ。創薬部門においては長い方だ、よく頑張ったな」

「臨床的な検証は今からなんだから、まだかかるだろ」

「でも、一験をやるのはハイコンだ。明日から早速そっちに取り掛かって二験に進もうぜ」

「二験、に……」

 健康な成人のデータを使っての演算で行われる、一験こと新薬開発第一試験。大昔は優秀な演算機がなかったから実際に人に投与して行っていたらしいが、今は数百年分蓄積したデータを使って優秀な演算機であるハイパーシミュレイトコンピューターが演算しデータ化してくれる。政府機関に提出するためのデータを揃えるには一週間程かかるので、その間に二験の準備を進めておけばスムーズに試験を始められるだろう。

「二験に協力してもらう患者を選定しないといけないな」

「その辺は俺らがやってやるよ。きちんと一枠は確保しておくから、お前は早く例のメダ嬢を起こしてやれ」

「! いいのか!?」

「いいも何も、このためにやってきたんだろ。安心しな、委員会もちゃあんと了承してる」

「あ、ありがとう……!!」

 何とかお礼の言葉を絞り出し、脇目も降らずに地下室へと降りる。ゲートを開けて中に入り、真ん中に横たわる最愛の恋人へと近寄った。

「ミラ、ミラ、僕のアンドロメダ! やったよ……ようやく、君を起こせる!」

 コールドスリープ用のコフィンで眠る彼女へ、やっと朗報を伝える事が出来た瞬間だった。


  ***


 ケートス。この国で萬栄しているウイルスが突然変異したことで引き起こされた病であり、それまでのどの疾患とも症状が異なり、故に特効薬が特定されないままだった事、罹患者が辿る末路ゆえに、恐怖の象徴としても語られている存在である。

 ケートスは初期症状から進行する速度がかなり遅い疾患であったので、当初は気づかれなかった疾患だ。何となくむくみが出る、かと思ったら急に汗が噴き出してくる。初期症状は、その程度だったからだ。

 次第に、ケートスの真の恐ろしさが分かってきて政府はようやく腰を動かした。各機関に要請を出し、基礎研究および特効薬開発、臨床データの蓄積と保管が開始された。カイトスの専門は医療系ではなかったため本格的な要請はなかったものの、ラボの一室の提供や研究内容の考察などには協力していた。その際に興味を持ったらしい彼は、次第に医療系の研究にも本格的に取り組むようになる。

 だが、研究の進捗は思わしくなかった。特に、薬に関しては……既存の薬では全く効果がないという事が分かった以外の事は何もわからず、成分のスクリーニングからしてみないといけないという状況であった。

 そんな時、彼にとって最も恐れていた事態が起こる。最愛の女性ミラが、ケートスにかかってしまったのだ。

 このまま薬が見つからなければ、十年も経たないうちに彼女は水の様に溶けて消えてしまう。その事実は、カイトスにとって絶望以外の何物でもなかった。


  ***


「……ミラ、ミラ。僕のアンドロメダ」

 あの日の衝撃と絶望と焦燥は、ずっと僕に付き纏っていた。一刻でも早く彼女を起こしてもう一度二人で生きていきたいという気持ちはあの頃から一切変わっていないし、彼女を心から愛している気持ちも変わっていない。

 けれど、気づいてしまった。僕は、彼女と違って年をとった。同じ日の同じ時間に生まれたけれど、彼女は、ずっと十九のままで眠っている。かたや僕は、もう三十九になってしまったのだ。彼女の記憶の中の僕よりも、ずっとずっと年を取って、見てくれだって変わっている。

 その事実に気づいた瞬間、言いようのない恐怖に襲われた。彼女は、目を覚まして始めに眼に映した今の僕を、かつての僕だと認識できるのだろうか。認識できたとして、あの頃の様に、愛し続けてくれるのだろうか。

「起きた後のケアのための準備も整えた、二験の準備も整った。後は、ミラを起こして彼女の体の機能を取り戻すだけだ」

 だけど、ここにきて、スイッチを切る勇気が出なくなってしまった。お世辞にも、僕はこの二十年自分の見た目を顧みるような生活はしていない。町に出て不審者と思われない程度には整えていたけど、年相応の皺も、夜空のようだと褒めてくれた髪の色も、だいぶ変わってしまっているのだ。

「……ミラに会いたい、あの碧い瞳が嬉しそうに輝くのを見たい。もう一度、会って話したい。話して、声を聴いて、彼女を抱きしめたい。けれど、起こすのが怖い……怖いんだ」

 誰に聞かせるでもなく呟いた。今この地下室にいるのは、僕一人。彼女の実の両親ですら僕らを気遣って、部屋の外で待機してくれているのだ。

 臆病風に吹かれて、彼らを呼びに行こうかと腰を上げかけた。彼女との約束を破ってしまう事になるけど、僕一人ではこの重圧に耐えられるかわからない。でも、それは不誠実だという感情ももちろん持っていて、意味もなく僕の手が空を切った。

『ねぇ、約束よ』

 そんな声がした気がして、はっと目を開け周りを見渡した。当たり前だが、目の前にいるのは眠っているミラだけだ。静かに、静かに呼吸しているから、動いているのは胸元だけである。

『私を起こしてくれるその時には、必ずカイトスが手を握っていてね。この部屋には必ずカイトスだけで、私の視界に入る一番は、耳に届く一番は、カイトスでいてね』

 それは、二十年前にした約束。眠ったままになる彼女だって、恐怖に怯えていた。自分が目覚めた時の事、このまま目覚めないで終わってしまう可能性、全て、全てに恐怖していた。

 それでも、彼女はコールドスリープを了承してくれた。あなたが起こしてくれるのを待っていると言ってくれた。

『だって、カイトスは必ず私との約束を守ってくれるもの。そんなカイトスが、一番に私を見て名前を呼んでくれるって、約束してくれたもの』

 だから、夢の世界であなたをずっと待っているわ。最愛のあなたを、信じているわ。埋もれてしまっていた記憶が、言葉が、声が蘇ってきた。そうだ、何を怖気づいているのだ。

「ミラが眠り続けるのを了承してくれたのは、僕が約束したからなんだ。約束を破ってしまったら、ミラに顔向けできない」

 そんなのは嫌だった。ミラとの永遠を望んだから、この道を選んだのだ。ミラを愛しているから、生きていてほしいと望んだから、互いに話し合ってこうすると決めたのだ。

「しっかりしろ! 待っている方だって辛いんだ。それでもその道を選んでくれたミラを、僕が裏切ってどうする!」

 もう一度身なりを確認して、汗で湿っていた手を洗う。彼女の寝顔を見つめて心を落ち着け、大きく深呼吸した。

「ミラ、ミラ、僕のアンドロメダ。ようやく……ようやく、朝が来たよ」

 そう声をかけて、カバーを開ける。彼女の手を握って、顔を覗き込むように近づけて。

 止めていた彼女の時を再び動かすために、装置のスイッチを切った。


  ***


 ミラ=ケイティは長い長い眠りから目を覚ました。しばらくぼんやりと虚空を見つめた後で、不意に力を込められた手への感触に気づく。そして、その先へと視線が向けられて……緊張の面持ちで自分を見つめている、あの頃とはだいぶ変わっているカイトス=グリーゼの姿を捉えた。

「――変わらないね」

 カイトスが息を呑む音が響いた。ミラの手がゆっくりと動き、泣きそうに震えているカイトスの頬を撫でる。

「約束を守ってくれてありがとう。カイトスなら、きっと」

 二十年ぶりに聞く彼女の声に、彼は零れ落ちる涙を止める事が出来なかった。あの頃よりも少しだけ低くなった声で、ミラ、ミラ、と変わらず愛おしむ女性の名前を呼ぶ。

「生きているうちに私を目覚めさせてくれるって。また二人で一緒に生きていく事が出来るって」

 ミラの両手がカイトスの頬を包む。引き寄せるような動きを察知したカイトスは、それに逆らう事なく顔を近づけた。

「ずっと信じて、待っていたよ」

 そう言って、ミラはふわりと微笑んだ。その笑顔は、二十年前と何ら変わらない。

 そんなミラに、カイトスが贈った優しい優しい口づけは。拒まれる事なくミラに受け止められた。


  ***


「そう言えば、いつから変えたの?」

 まだまだ体力が戻らないため、ミラが移動する時は基本車いす移動である。本来は自動で動くのだが、あなたに押してほしいといって甘えられてしまっては、断る訳にはいかない。

「何を?」

「一人称。私の前では前みたいに僕って言っているけど、研究者の皆さんの前では俺って言っていたわ」

「ああ、それか」

 確かに、彼女なら不思議に思うのも当たり前だろう。二十年前までは、僕は『俺』という言い方はしていなかった。

「変えた、というか……みんなの前で『僕』と言わなくなったのは、ミラが眠ってからだよ」

「どうして?」

「……強くならなければいけないって思っていたんだ。かの英雄みたいにミラを助けるには、強くあらねばならないって思ってね。それで、僕にとっての強い人が使っている一人称を使う事で、形から入ったんだ」

「ふうん……そうなの」

 そう答えたきり、彼女はしばらく黙り込んでしまった。見栄っ張りだと呆れられてしまったのだろうか。沈黙に焦りを感じて、思わず彼女の名前を呼んでしまった。

「大丈夫よ、形から入るっていうのは、いうなればお化粧みたいなものだわ。そういう武装は大事だと思うし」

「そう? ミラがそう言ってくれるなら安心だけど」

「でも、それなら、私の前ではずっと『僕』のままでいてね」

「……うん? 何で」

「だって、俺って言っている時のカイトスは気を張っている時って事でしょう? 私の前では気を張ってほしくないもの」

「ああ、そういう事」

「そうよ。そんな事しなくたって、カイトスは、もうずっと……私達が出会ってからずっと、私の英雄だもの」

 最上級の愛の言葉に、一気に耳まで顔が火照る。こちらを見上げる彼女の頬も、照れなのか鮮やかな紅色に染まっていた。

「……カイトス」

 名前を呼ばれたので、彼女と目線を合わせるために腰を下ろす。ん、と両手を突き出されたので、彼女を車いすから降ろして抱き上げた。

「カイトス、カイトス、私のペルセウス」

「ミラ、ミラ、僕のアンドロメダ」

 彼女に愛を告白した時からずっと変わらない、彼女への『愛している』を表す言葉を、抱き上げているミラへ告げる。  互いの温もりを分かち合い、口唇同士を触れ合わせているその間。柔らかな風が、僕ら二人を祝福するかのように撫でていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

永久の輝きをもう一度 吉華 @kikka_world

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ