殺戮オランウータンがみてる

@mochimochimanju

殺戮オランウータンがみてる



登場人物


須賀冬樹(すが ふゆき)

聖シルウァヌス女学院星々寮のすてきな先輩①。

文芸部で生徒会役員。クールでシャープ。

夜はメガネ。


高階紅(たかしな べに)

聖シルウァヌス女学院星々寮のすてきな先輩②。

燃えるような赤毛にひまわりの瞳。

演劇部のスター。


外薗あえか(ほかぞの あえか)

わたし。麗しの女学院、憧れの寮生活、素敵な先輩に囲まれてドキドキ、なのに殺戮オランウータンに狙われて? これからわたしどうなっちゃうの?





*





 息はとっくにあがってて、心臓は今にも壊れそうで。

 怖い。怖い。怖い。

 やっぱり校則を破っちゃダメだったんだ。寮を抜け出したりなんかしたから。あこがれの先輩まで巻き込んで。


「あえか、先を走るんだ!」

「ムリです先輩、わ、わたしもう、あっ、足がぁ」


 捕まっちゃうんだ。殺されちゃうんだ。

 やだ。やだ。やだやだやだ。


「オランウータンなんかに殺されたくないぃぃ!!」




 ほんの数時間前、わたしはいつものようにすごしていました。

 聖シルウァヌス女学院星々しょうじょう寮、談話室の夜はとっても素敵です。

 あったかい紅茶を飲んで、消灯時間までおしゃべり。ホントはいけないんだけどこっそりお菓子を回したりして。

 普段ならこうしているだけでしあわせいっぱいで、うきうきな時間なのですが。


「あえか、浮かない顔だな」


 声をかけてくれたのは須賀冬樹先輩です。メガネをかけているからもうお風呂上がり。肩までのサラサラの髪、超いいにおいがします。今日も素敵です。素敵すぎて入学して速攻で告白しました。ふられました。けど今でもとってもわたしに優しくしてくれます。


「そんなことないです須賀先輩! 外薗ほかぞのあえか15歳、今日も元気いっぱいです!」

「すぐバレる嘘をつかなくてもいい」

 須賀先輩のこと冷たくて近寄りがたいっていう子もいるけど絶対そんなことありません。先輩はわたしの隣に座ってくれて、少し考えて。

「いつものスケッチブックは?」

 ほら。須賀先輩には何でもお見通しなんです。


「お昼休みに裏の森にスケッチしにいったんですけど、そこで無くしちゃったみたいなんです。急に変な声がしたのでうわわわって荷物をまとめて、それであわてすぎて置いてきちゃったのか落としちゃたのか……」

「雲が出てきたね」

「明日の朝までの降水確率、90パーセントだって……」


 そう、わたしは本当なら今すぐにでも外に飛び出していきたかったのです。


「ちょっとそこまで その考えがァ 命取り」


 談話室に響き渡る突然の美声! 顔を上げると緑がかった不思議な色の瞳がわたしを見下ろしています。目の中に花が咲いてるみたいな激レアのアース・アイをもつのはこの寮で、いえこの学校でひとりだけです。


高階たかしな先輩!」

「ノンノンあえかクン、べ、に、と呼んでくれと言ったろぉ?」

「紅先輩! アンドとりまきの方々!」

「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

「ごきげんよう~」


 高階……紅先輩は演劇部のスターで超有名人です。成績はざんねんとの噂だけどスポーツは万能。走れば陸上部より早く、高身長とながーい手足を生かして球技大会のバスケで大活躍。たなびく赤毛の巻き毛は天然ものでどこにいたって一目でわかる存在感No.1の先輩です。

 紅先輩は誰にでも気さくで、寮が一緒なだけのわたしにフランクに絡んでくるので正直ビビります。わたしと須賀先輩との会話に割って入るだなんて。でも顔が良過ぎる。素敵です。いえわたしには須賀先輩が。

 紅先輩は瞳に咲いた向日葵がわたしによーく見えるくらい近づいて言いました。


「新月の夜に森に行ってはいけないよ」

「どうしてですか?」

「殺戮オランウータンが出るからさ」

「殺戮オランウータン」


「埼玉県にオランウータンはいないし、野生のオランウータンはボルネオとスマトラ島の熱帯林にしか生息していない。それから今日は月齢14日でどう表現したって新月の夜じゃあない」


 須賀先輩がものすごい早口でインタラプトしてくれたので、わたしは我に返りました。知的でかっこいい。須賀先輩がだれより一番すき!!!


「さっすがさすがのスガフユキ、よっ、歩くwikipedia!」

「不愉快だ」

「でもさぁ、はるか昔に逃げ出したつがいのオランウータンが逃避行の果てにウチの森にたどり着いて子孫を成したかもしれないじゃん? 可能性はゼロとは言いきれない、そうだろう子猫ちゃん達~?」


「はい!」「須賀先輩、私見ました! もさもさした大きい影!」「行方不明の二年生、殺戮オランウータンにやられたんだって噂です!」「そうそう、満月の夜は近づいちゃいけないって」

「三日月じゃなかったっけ?」

「雨の夜だったかも」

「休み時間に見たって話も」

「じゃあオールウェイズ・デンジャラスなんじゃな~い?」


 高階紅シスターズ、すごい団結力です。


「ねっ。殺戮オランウータンはいるんだよ。あえかクンもそう思うだろぉ?」

「あっ、えっと、はい……?」


 数の暴力に押されてなんだかそんな気がしてきました。

 思えばわたしが昼休みに遭ったモノも、殺戮オランウータンだったのかも……?


「大事な後輩にアホを感染すのはやめてくれないか」

「だだだ大事な後輩!!!!」

 これには高階紅シスターズも色めき立ちます。

 そんな私は紅様×冬樹様だったのにという声が聞こえた気もしますけど知りません、幸せ!

「えっ何何知らなかったんだけど? あえかクンってフユキのコレでコレ?」

「違う。小学生の頃からの知り合いというだけだ。下品なジェスチャーをやめろ」

 小指はなんとなくわかるけど、後の方はなんなのかわたしにはわかりませんでした。

「ホントかな~? まあ今日のところは追求はよしこさんだ」

 あと薄々思ってたんですけど紅先輩は語彙がちょっとヘンだと思います。


「とにかくあえかクン。森へ行くのはやめといたほうがいいって。夜間の外出は校則違反だしね」

「常習犯がよく言う……」

 高階先輩の言うとおりです。夕食後に外に出ることは禁止されています。

 でも、でも、あのスケッチブックには須賀先輩にモデルをお願いして描かせてもらった絵があるんです。

 あの絵だけはどうしても駄目にしたくない。


 ルームメイトが寝静まるのを見計らって、わたしは窓から抜け出すことにしました。

 着地成功!

 二階からノーダメージだなんて高階先輩ほどじゃないけどわたしの運動神経もなかなかのもの、だなんて自画自賛していたら誰かがわたしの肩を、とん。

「さ、殺戮オランウータン!」

「私だ」


 僅かな灯りに浮かび上がる人影。そこにいたのは大きな懐中電灯を持った須賀先輩でした。

「須賀先輩! こともあろうに須賀先輩をオランウータン呼ばわり! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」

「静かに」

「どうしてわかったんですか?」

「あえかはなんでも顔に書いてあるから、私でなくてもわかる」

 ああ、連れ戻されてしまう。と思いましたが違和感に気づきました。

 須賀先輩は、

「森へ行くんだろう。私も同行する。雨が降り出す前に見つけよう」

「しゅがしぇんぱい……!!」

「確かめたいこともあるしね」


 そして現在に至り、わたしと須賀先輩は殺戮オランウータンに追われています。


「死にたくないよぉ!!」


 なんなんでしょうあの毛むくじゃらで長い腕の巨大な猿! 獣臭い嫌なにおいを漂わせて、すっごいスピードで左右に飛び回りながら追いかけてくる!!!

 あれ、つまり、これってまっすぐ走ってきたら一瞬で追いつかれて死んじゃうってことですかぁ?!


「いやぁぁああああっ!!!」


 わたしはもうめちゃくちゃに走りました。

 スマホと懐中電灯の僅かな灯りなんてあてにせず足下もろくに見ずに走ったのに。

 いつの間にか、後ろを追ってくる気配は消えていました。


「はぁ、はぁ……」

「撒いたか。いや、充分に遠のいたと言うべきなのかな」


 須賀先輩がズレおちたメガネをくいってしました。さすがに少し荒い息をしていますがわたしほどじゃありません。なんて冷静で肺活量がすごいんでしょう。

 わたしよりも何度も振り返りながら逃げていたのでむしろ首がつらそうです。あ、そのポーズ素敵。いえそんなこと考えてる場合じゃありません。


「どうしましょう。ここで明るくなるまで待ちますか」

「いや……」

「だめですよね、そんなの。大騒ぎになっちゃいます。うー、怖いけど打って出るしかないんでしょうか。それとも落とし穴とか?」

「あえか、君は"殺戮オランウータン"と戦う気なのか」

「えっ? わたしなにか変なこと言っちゃいましたか?」

「面白い。それもいいかもしれないね」

 あっそれは全然面白いともイイとも思ってないときの顔ですね?


「ごめんなさい。先輩を巻き込むつもりじゃなかったんです」

「違う。あえかが責任を感じることじゃないんだ。私には知りたいことがあって自分の意思でここに来た」

「それって……ぴぇ!」

「うん?」

「なんか視線を感じませんでしたか?!」


 またオランウータンが近くに?

 あの嫌なにおいはないですけど、風上なのかもしれません。

 ざわざわざわ。ざわざわざわ。

 あっちからもこっちからも見られてるような気がしてきて、どの茂みもすっごく怖く見えてきてしまいます。


「あえか」

「ふぁっ」

 ここで急に須賀先輩がわたしの耳元に口を近づけて理解しかねる内容の囁きを。


「え? え?」

「いいから私の言う通りにしてほしい」


 須賀先輩はズルです。考えてること説明してくれないし、わたしが言いなりに行動すると思ってます! すごくくやしいけど、そうします。ふられたくらいで嫌いになるなら一年一緒にいるために徹夜で勉強して同じ学校に入学したりなんかしないのです。


「ど、ど、どうしましょう須賀先輩……わたしたち、帰る道がぜんぜんわからないです! このまま雨に降られて、えっと、九月だけど凍死して、ここで死んじゃうんです」

 自分でも信じられないくらいの、棒読み! でも声だけはお腹の底からしっかりと!

「こんなときあの素敵な人がいてくれたらー! あの、わたしたちの王子様がー!」


 なんで須賀先輩はわたしにこんなアホみたいなことをさせるんですか。

 大きな声で王子様に助けを呼ぶ、そんなことをしても寮まで届くわけもなく!


「呼んだかい子猫ちゃん」

「高階先輩!!!」

「だめだよ、紅と呼んでくれなきゃあ」

「紅先輩!!!」

「ほうら、探し物だ」

「わたしのスケッチブック!!!」


 これは魔法でしょうか、それとも奇跡?

 湿った夜風に髪をなびかせ紅先輩颯爽登場、ただしライティングは下から!

 紅先輩はスケッチブックを渡してくれるついでにそっとわたしの肩を抱きました。

「もう大丈夫だよあえかクン。どんな闇夜であろうとも、太陽であるこのボクさえ居ればキミは迷うことはない」


「茶番はそこまでだ。あえかから手を離せ」


「須賀先輩。なんでそんな怖い顔するんですか?」

「考えてごらん、あえか。……実に簡単なことだ」


「殺戮オランウータンは君だ」

 須賀先輩は迷いなく紅先輩を指さしたのです。


「君はこの数日ここで何かを人目に付きたくないことをしていたんだろう。それを隠匿するために君自身が噂を流した。『森には殺戮オランウータンが出没する』」

 え?


「ありもしない怪談を作って人を遠ざけようとする。陳腐、というか考え無しの行動だよ。逆に興味を引かれて肝試しに来る生徒がいたらどうするつもりだったのか……いや、追い返したのか。私達のように」

 え? え?


「まって須賀先輩、紅先輩はもじゃもじゃじゃないですよ?」

 紅先輩はさっき談話室でお話したときと同じうるわしい姿です。わたしたちを追いかけてきた気味の悪い生き物にはとても見えません。


「そこらを探せばすぐ見つかるさ。高階紅は獣になれる。あえか、君もその目で見ているはずだよ。思い出してごらん、私を訪ねて来た文化祭、去年の演劇部の演目は?」

「あああぁあ!!『美女と野獣』!!!」

「そういうことだ」


「とんだ三文小説だよ。ポーに土下座して謝れ」

「最っ高のパスティーシュだと思ったんだけどなぁ~!!!」

「ふざけろ」

 何を言っているのかはよくわかりませんが、舌をぺろりと出して紅先輩はチャーミングな笑顔、おまけにウインクまで。是認。これは是認です。

「そんなぁ……」

「迫真の演技だったろオランウータン。YouTubeでメッチャ動画見て練習したんだぞう」

 その動きは紛うことなくさっきの殺戮オランウータンでした。そんな、骨格まで変わって見えるなんて。

「……」

「がっかりさせてゴメン、あえかクン」

 へたりこんだわたしに伸ばされた紅先輩の手――は須賀先輩がはたきおとしました。

「彼女は殺戮オランウータンの非実在に落胆してるわけじゃあない。君がアホすぎて言葉を失ってるだけだ」

「それに騙されたわたしもアホってことになりませんかぁ?」

「あえかクン否定してくんないの?!」

「当然だ」

 結局須賀先輩がわたしを助け起してくれました。

 そしていつのまにかわたしを背中に庇うようなかたちになっています。

 いろいろな「なんで」がわたしの頭の中にありましたが、さしあたって一番気になることを言葉にすることにします。

「でもなんで。どうして紅先輩は殺戮オランウータンなんかになっちゃったんですか? 誰にも言えない秘密の趣味ですか?」

「あっはっは。あえかクンはさっきのフユキの話を聞いてなかったのかなあ?」

「えっ?」


「それじゃあお伺いしようじゃあないか名探偵フユキくん。高階紅は殺戮オランウータンに身をやつし、ここで何をしていたっていうんだい?」

 紅先輩はロコツに挑発的なセクシースマイルでまっすぐ須賀先輩を見つめています。須賀先輩はクールで素敵ないつもの表情ですが、迷っている?

 ううん、本当のことがわかっているけど言いたくない、みたいな?


「紅」

 湿った風が止まりました。

 須賀先輩のためにあるかのような凪。


「君は愚かだけど、殺人者ではない」


 紅先輩の笑顔が消えます。


「葬りたかっただけなんだろう。彼女を」


 わたしはこれ以上アホの子だと須賀先輩に思われたくなくて一生懸命考えました。

 談話室での高階紅シスターズのお話を思い返します。

 ありえないはずの怪談だけど、本当にあった事件もひとつありました。

 何日か前から行方不明の二年生の先輩。


「今さっき終わったよ。やっと下ろしてあげられた。人を埋められる穴って一人で掘るの大変なんだなあ、知らんかった。ああ、くったびれたぁ」


 紅先輩は大きくのびをして、長い長い息を吐きました。それからとても優しい声で話し始めました。


「遺書、もらっちゃってさぁ。魂のない私の身体を父にも母にも誰にも見られたくないってさ。ぼかぁ王子様だからね。ファンの最期の願いを叶えないわけにはいかないだろぉ?」

「知っていると思うけど、死体遺棄はそれなりに重罪だよ」

「愛のためなら罪をも背負う……くー、カッコイイ! さすが高階紅!」

「オランウータンの毛皮を身にまとい、ですか」

「オランウータンを着てても心は錦さ」


 須賀先輩の言うとおり、オランウータンもとい野獣の衣装は茂みのなかに隠してありました。紅先輩は土埃にまみれたそれを集めた小枝の上に投げて言いました。


「さーてと、こいつはお役ごめんだな。あえかクンもなんかの縁だ、葬式に参列していってくれたまえ」

 その手にはライターと一通の手紙。

「先輩の?」

「ノンノン、そういうのが嫌でぼくに頼みごとしたんだから。こいつは殺戮オランウータンのお葬式さぁ」


 森に小さな火がともります。わたしと須賀先輩は燃えていく殺戮オランウータンと秘密の手紙を見守りました。


「もっと話がしたかった」

 爆ぜる炎の音で掻き消えそうなくらい小さな声。須賀先輩の瞳が揺れています。

「わたし、あんまりお話したことなくて。どんな方だったんですか?」

「聡い、聡すぎる子だ。最後に会った時には、彼女とミラン・クンデラの話をした。……そうだ、人生は一度きりで、彼女は自分の決断をした」

 それって何の何でしょう、とは聞けませんでした。須賀先輩はそれきり黙ってしまって、わたしはただただ先輩の長いまつげを見つめ、それすらダメなことのように思えたので燃える火に小枝をくべることにしました。


 わたしはひとりで考えました。

 わたしの知らない時間に須賀先輩と紅先輩がどうやって仲良くなったのか。

 須賀先輩と名前を思い出せない先輩がどんなふうにお話をしたのか。

 殺戮オランウータンとはなんだったのか。

 同じ炎を見つめて、わたしたちはひとりで考えていました。


 沈黙を破ったのは紅先輩です。

「なんで自分じゃなかったんだなんて思うなよぉー? もし託されたら、フユキは止めたろ?」

「私は彼女の選択を否定したりは……いや、多分そうだな。紅の言う通りだ」


「ありがとうあえか。君がいなければ、今日ここに来ることはなかった」

「そんなことないです。須賀先輩はきっとどこだって探しました」

 須賀先輩はわたしたちふたりになにか言おうとして、結局まっすぐに弔いの火に向かいました。

「私はこれからの生涯、祈りの時間のたびに思い出す」

 須賀先輩が口にしたのはきっと誓いの言葉。顔もよく思い出せない先輩なのに、鼻の奥がどんどん熱くなって。だめ、泣いちゃう。わたしが泣くのだけは違う。

 そこで紅先輩が口を尖らせて「殺戮オランウータンを……?」って言っちゃったのでわたしの涙はひっこみました。

「殺戮オランウータンのことは忘れる」

「忘れられるかなぁ?一世一代の名演だぞう」

 紅先輩はまたオランウータンになりきってしまいました。そこら辺に落ちていたいい感じの棒まで拾って、ぶんぶん振り回しています。

「あんな本貸すんじゃなかった」

「そうだった! フユキがあの本貸してくれなきゃ殺戮オランウータンなんて思いつきもしなかったよ」

「えっ、じゃあ須賀先輩が殺戮オランウータンの生みの親ってこと?」

「あえか、やめてくれ」

 ひきつりきった須賀先輩の顔がおかしくて、わたしは笑ってしまいました。つられて紅先輩が、最後に須賀先輩が。いっぱい笑って、泣くくらい笑って、誰かが目を擦ったって誰も気にしないくらい笑って、笑って。


 ずっとずっと好きでいたのに、須賀先輩の笑い声を聞くのははじめてでした。

 もしも須賀先輩が記憶のフィルタリングに成功してあの人との思い出以外を忘れてしまったとしても、わたしは絶対忘れられっこありません。

 大好きな人とオランウータンに追いかけられて、殺されかけた夜のこと。


 やがて炎は燃え尽きて、わたしたちは寮に向かって歩き始めました。


「それにしても怖かったですよ紅先輩。紅先輩は天才です。天才オランウータンです」

「あっはっは、それほどでもあるかな」

「昼休みにまで扮装するだなんて、褒めてはいないけどよくやったものだよ」

「へ? 昼休み?」

 視線を感じてわたしは振り返りました。そこには真っ暗な森があるだけでした。




 強かに葉を打つ雨。静けさを取り戻した森が再びざわめいた。三人はついぞ知らなかったが、森の人の伝承はずっと前からそこにあった。土を掘り返す音。咀嚼音。鉄錆の香。少女の秘密は永遠に暴かれることはない。毛足の長い奇妙な影が雷鳴とともに浮かび上がり、たちまち樹上に消えた。






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