類人猿(エイプ)たちの沈黙

@aiba_todome

類人猿(エイプ)たちの沈黙

 連邦捜査官クリス・アーミテッジは、フロリダ郊外にある特別収容所へ向けて車を走らせていた。目的は一人――動物愛護の観点から類人猿には人権が付与されている――のゴリラだった。そして彼女の最終的な目標もまた類人猿。この十年で最悪と言われる殺戮オランウータンだ。


 地球温暖化により数十メートルの生垣に包まれることになった特別収容所は、4300ポンドの地中貫通弾バンカーバスターの爆撃にも耐える分厚い強化コンクリートに覆われている。

 動物園、サーカス、研究所などから脱走した類人猿がアメリカのジャングルに適応し、様々な凶悪犯罪を起こして社会問題となったのが、およそ十年前。人類を圧倒する膂力りょりょくと、薬品や品種改良によって発達した知能を持つ彼らは、人間の殺人鬼を桁一つ上回る被害を発生させていた。


 三つの重厚な門をくぐり、隔壁を4つほど抜けると、施設の所長であるコール・マッコールが出迎える。


「ようこそ、フロリダ特別類人猿収容所へ。話は聞いているよ。に会いたいそうだね?」


「はい。例の殺戮オランウータンの捜査は行き詰ってます。同じ類人猿である彼なら、何かヒントをつかめるかもしれないと」


「同じ類人猿と言ったってね。ゴリラとオランウータンは人間とオランウータンくらいには違うんだが。まあいいさ。あの事件は我々も注目している。捜査の助けになるなら協力しよう」


 だが、とマッコールは続けた。


「決して捜査に関わらない情報は漏らさないように。彼の収容室は常に監視されている。余計な情報を出したら、その時点でインタビューは終わりだ。君ももう二度とここには入れない。いいね?」


 クリスはうなずいた。本来新米の自分には荷が重い相手だ。それほどの凶悪犯だった。


「では、行きたまえ。檻には絶対に近づかないように。二人死んでる」



 収容室はおよそ10m四方。高さは5mあった。いくつかの大きな丸太と、水桶の他は何もない殺風景な部屋。それが一定の間隔で並んでいる。


「左を歩いてくれ。檻には近づくなよ」


 ライフルで武装した警備員が、檻の方を警戒しながら告げる。指は引き金にかかったままだ。

 言われるまでもなかった。クリスは廊下にまでとどく異様な殺気にすっかりおびえていた。人間のものとは種類を異にする、より純粋な破壊本能。それは部屋に一人ずつ入れられたゴリラたちから発せられていた。


「ウホ!ウホホ!」


 ガシャガシャと檻を震わせるゴリラ。突進するふりをして目の前で立ち止まるゴリラ。特殊合金製の棒に噛みつくゴリラ。本来おとなしいはずの動物だが、そんな定説を疑いたくなる攻撃性を示している。


「初めてくる人間を見て興奮しているのさ」


 警備員は目を細めつつ語る。


「こいつらの知能は異常だ。そこらの人間の犯罪者よりよっぽど狡猾だぜ。まあそれも、一番奥のあいつに比べりゃ子供みたいなもんだが」


 猛る猛獣たちの部屋を一つ、また一つ過ぎる。突きあたりの部屋に差し掛かった時、廊下が静まり返った。

 

「これは……」


「出てくるぞ」


 まず目についたのは、電球の光に輝く銀の背中。ボスの証であるシルバーバック。顔の左半分まで銀毛に覆われ、黒い瞳には底知れぬ知性の色が映る。IQは180とも伝わっていた。

 クリスは大きく息を吸う。気後れしてはいけない。下位の者の命令を聞く動物はいないのだ。


「はじめまして。”ハンニバル”」


 隻眼の名将。あるいは人食いの殺人鬼。そこからとられた名を持つゴリラ。十年前に捕らえられた、300人殺しの殺人ゴリラだった。


「今日はあなたの知恵を借りに来たの。殺戮オランウータンを探してほしい」


 写真を取り出す。これまた見事な頬の張り出し、フランジを持つ赤い類人猿だった。


「名前は無いわ。ボルネオ島から連れてこられた、通称殺戮スローター・オランウータン。密猟者を50人殺したオラウータンで、サーカスから脱走した。今も各地で殺戮を繰り返してる」


 地図を取り出す。アメリカ大陸を書いた地図には、東海岸沿いに無数の赤い点がついていた。


「これが被害のあった場所。だいたい500個ある。探せばもっと見つかるでしょうね。アメリカで最初に殺したのがサーカス団の団長。ニューヨークで死んだわ。わかる?」


 クリスは赤い点線をなぞる。


「南下してる。こっちに近づいてきてるのよ」


 ハンニバルは数秒、地図をじっと見つめていたが、ふいに後ろを向いて部屋の奥に行ってしまった。


「あ!ちょっと!」


追いかけようとして、警備員に肩をつかまれる。


「近づくな!あいつは礼儀知らずが嫌いなんだ。殺されるぞ」


「で、でもどうにかしてやる気になってもらわないと」


「どうやって?相手はゴリラだぜ?いくら頭がいいからって交渉できると思うか?」


 もっともな話だった。警備員はインカムで少し会話して、クリスの手を引く。


「今日は帰れ。あいつは興味がなけりゃてこでも動かんぞ」


 反論できるはずもなく、悄然と廊下を戻る。その途中で黒っぽい物体がクリスの頭に命中した。


「ギャッ」


気持ち悪い感触と、むわっとくる特有の臭い。ウンコだ。ゴリラが檻の中にいる際にストレスからウンコを投げつけるのはよく知られた話である。


「ウホ!」


「ウホウホホ!」


周囲のゴリラたちがあざ笑うかのごとく騒ぎ出す。打ちのめされたクリスは、へたり込んで動けない。涙が溢れてくる。


「ウホ!」


低く、それでいて鋭い一喝。しん、と牢獄に静寂が戻る。

叫んだのはハンニバルだった。

のしのしとナックルウォークで檻の前に現れると、指で単語を書く。


「C、H、チョーク?筆記具が欲しいってこと?」


クリスは警備員の方を見る。


「まあ、チョークくらいなら…」


所長からも許可が下り、ハンニバルにチョークが与えられた。

さすがに人間の道具を扱うのには不慣れで、何本ものチョークをへし折ったが、ついに一つの文章、4つの単語の組み合わせが描かれる。


Columbus / Please Sumatera's soil


「コロン、ブス?」


どうしてまた歴史の偉人が出てくるのか。それにスマトラ島の土が欲しいとは?全く脈絡が見えない。


「あー、どうする?土も多分許可が下りると思うが。時間は少しかかるが」


「では、お願いします。私はこの文章について考えてみます」


邂逅は5分足らずで終わった。しかしクリスの脳裏には、あのシルバーバックの殺人ゴリラの記憶が焼き付いて離れないのだった。



ハンニバル脱走の報は、2週間後の朝に来た。



『奴が脱走した』


「ど、どうやって!?」


いくら怪力のゴリラでも、あのコンクリートの壁を掘れるとは思えない。しかしマッコールの緊張感、電話越しにも伝わる恐怖は本物だ。


『どうやってかはまるで分からんが、今日の夜明け前収容室が騒がしくなった。カメラでは丸太で見えない位置だ。ハンニバルの隣り、お前に糞を投げたゴリラが、ハンニバルの部屋で土まみれでくたばっていた。そしてハンニバルは隣りの部屋にいたというわけだ』


「そんなことって」


『とにかく!これは奴を刺激した君の責任でもある。処分は捜査局から下される。ハンニバルは射殺だ。もはややむを得ない』


あまりにも展開が早い。いや、所長はこれを狙っていたのだろう。あの想像を超えた知力を持つ魔猿を殺す機会をうかがっていたのだ。


「す、少し、少しだけ待ってください!彼にはまだ聞きたいことが!」


『ならん!射殺部隊はとっくに出動しているもうすでにあのクソ猿は…うわっ!』


「え?」


『馬鹿な!なんでこんな所に!く、来るな!くる、ギャアアアアア!』


まるで石に打たれたかのような音と共に、電話は切れた。


ハンニバルだ。間違い無い。しかしあの厳重な警備をどうやってくぐり抜けた?


考える。南へ向かった殺戮オランウータン。丸太と水桶だけの部屋。チョークで書かれた文字。不器用な大きい手。コロンブス。スマトラの土。


「まさか」


クリスは車のキーと拳銃を引っ掴むと、すぐさま車を飛ばした。目的地はフロリダの南端。キーウエスト。





は巨体を揺らしながら客を待っていた。ひたすら歩いて来たが、それも終わりだ。拷問した男の一人が、ここに船が来ることを知っていた。

彼は高い木の上から対岸を見たことがある。遥かな大地。大陸とかいうその場所に行くなど思ってもみなかった。


己は拐われたのだ。彼は憎しみとともに歯ぎしりする。それももうすぐ終わる。船が来る。俺は帰るのだ。故郷へ。


船は午前6時ちょうどに来た。粗末なゴムボート。密航者が乗るもの。彼は大きく手を振る。獲物を呼び寄せる。


密航者たちは彼の知らない言語を叫びながら、砂浜へと乗り上げた。解放の喜びに飛び跳ねて走り寄ってくる。

最初に気づいたのは女だった、喉の奥からの絶叫。彼は人間ではなかった。ここに来るまでには多くの苦労があった。己の赤い毛皮は目立ちすぎる。が必要だった。

腕力で細かく引きちぎり、不格好に縫い合わせた服。人間の皮膚。

数百人分の人皮で作られた衣装をまとい、殺戮オランウータンは吠えた。


止まれフリーズ!」


車のハイビームが払暁を貫く。クリスは拳銃を構えて怪物の前に立った。殺戮オランウータンが動く。銃声。


撃ち抜いたのは服だけだった。驚くべき運動神経で空蝉のごとく殻を捨て去ったのだ。

腕を大きく振り回し、跳ぶ。クリスは慌てて照準を合わせるが、すでに殺戮オランウータンの指先はその頭にーー


車のフロントガラスが砕けた。巨大な何かが跳板代わりに車ごと踏み砕いたのだ。朝日に輝く銀の毫毛シルバーバック。ハンニバルだった。

空中でぶつかり、転がる二人。野生動物の勝負は一瞬で決着がつく。


殺戮オランウータンの腕がクレーンのように回る。その鉄槌は頭蓋も背骨も砕くだろう。

ハンニバルは握っていたものを殺戮オランウータンの鼻面に投げた。


「ギ、ギャア!?」


困惑。思わず、といったふうに、殺戮オランウータンは顔を覆った。それが最後だった。

ゴリラの剛拳が殺戮オランウータンの顎に突き刺さる。骨を砕き、脳を揺さぶって豆腐のように爆散させた。

赤い巨体がぐるいと回り、クリスを下敷きにする。

息が詰まる。命からがら這い出たが、そこで力尽きた。



入れ替わりのトリックは単純なものだった。ハンニバルの特徴的なシルバーバック。それが彼の名刺代わりであり、それさえあれば誰もがそのゴリラをハンニバルだと思う。

ハンニバルはシルバーバックを偽造したのだ。チョークを使って。

わざと砕いたチョークの粉を、水桶の水に混ぜる。そして2週間かけてさんざんに脅していた隣りのゴリラに、それをぶっかけたのだ。他愛ないいたずら。注目もされない。

しかし一晩経つと水は乾き、チョークの粉が浮き出てくる。銀毛の完成だ。

自分は夜明け前に騒いで土をかぶり、体色をごまかしておく。隣りのゴリラは怯えて隠れてしまう。いつの間にか、二人は入れ替わる。


あとはが射殺され、の自分が移送されるのを待てばいい。


そしてそのトリックこそが、ハンニバルがクリスに与えた最後のヒントだった。毛皮を隠すという動機。旅の目的。コロンブス。クリストファー・コロンブス。

香辛料を求め、インドを目指した彼は、新たな大地を見つける。彼はそこをインドだと信じた。


大いなる勘違い。必死さが産んだ喜劇。


ところで、オランウータンの生息地であるスマトラ島は、マレー半島と狭い海峡を挟んで隣接している。その地形は、距離の差こそあるものの、フロリダとキューバの関係に似ていなくもない。

知能は高いながらも、野生で生きてきたオランウータンがアメリカ地図を見たとき、自分はどこから来たかと思うか。


スマトラ島は、太平洋を挟んで1万マイルの先。最初から不可能な旅路だった。


クリスは浜辺で目覚めた。日の高さからして、気絶していた時間は長くない。

ハンニバルの姿は影も無く消え失せていた。残っていたのは、こんもり盛り上がった小さな土の山。


殺戮オランウータンは、無念の最後とは思えぬほどに、穏やかな死に顔で眠っていた。


かけられていたのはスマトラの土だった。






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