第11話 8月18日、トム・グリーン現る

感動的なロイの旅立ちから、一夜が明けた。

あのあと暫く、メリルも私もキッシュも、誰も話さなかった。濃さを増していくオレンジ色の光のなかで、ただ黙って佇んでいた。多分、みんなそうしていたかったのだろう。そうして、胸のなかいっぱいにひろがる、あたたかい感動の余韻を噛みしめていたかったのだろう。私がそうだったから。

そして、オレンジ色から真っ赤になった太陽が日没をむかえる頃、メリルと黒猫は帰って行った。黒猫は、さも美味しいといった風に満足げに煙草をくわえて。


私は、朝からいつものようにローリーを送りだしベッドを整えた。思いがけず、それどころではなかった二日分の洗濯物を干し、家中に掃除機をかけ、今やっと自分のために珈琲を淹れたところだ。

コクのある苦みが舌を包む。あらためて珈琲の香りを鼻先で確かめながら、いつもと変わらぬ日常が戻ってきたことに満足していた。

大きな務めを果たした黒猫のことだ、今日あたりは鼻提灯でもぶら下げて、爆睡でもしているだろうと思うと、笑いが込み上げてきた。


と、その時、電話が鳴った。

黒猫からの番号だ。私は、今朝からの楽観的な予測が外れていたことに一抹の閥の悪さを感じつつ、同時に、只ならぬ気配を感じ取った。私の在宅を確認するための電話だったのだろう、私が電話に出るやいなや、今から行く、とだけ言って黒猫は電話を切った。

息せき切ってやって来た黒猫は、部屋に入るなり、

「何も終わってないから!」

と、怒ったように言った。

意味がさっぱり理解できない私は、取りあえず黒猫を落ち着かせようと、一杯の水と灰皿を差し出した。黒猫は、落ち着きなく苛立ったような仕草で煙草に火をつけ、ふう、と大きく顎をのけ反らせてひと息ついた。そして、言った。

「今度は、トムのイメージが見えてきたの」

「トムって、あのトムのこと?」

と、メリルの義兄のトム・グリーンを指して、私は訊いた。

そう、と頷いた黒猫は話し出した。

黒猫の頭に浮かんできたイメージでは、トムは部屋の中に座っている。俯いているのかはわからないが、はっきり顔はみえない。ただ、トムは部屋のなかにじっと座っている。

「私、ロイの前例があるから、これはやばい状況だってすぐにわかった。トムと目を合わせちゃいけない、って」

「でも、私、どうも気づかれたみたい、トムに…」

と、黒猫が言った。

あーっ、どうしよう、と頭をかきながら、さっきまで怒っていた顔にみるみる恐怖の色が浮かび上がった。

思いもかけない黒猫の告白に、私も動揺しつつ訊いた。

「気づかれたみたい、ってことは、キッシュはトムの部屋に行ったの?」

「自分では行ったつもりはないんだけど、勝手に行っちゃってたみたい……目を合わせたら、トムが来てしまう…」

どうしよう、と連発する黒猫に

「目を合わせないようにすることは出来るの?」

と、私は訊いた。

それは難しいだろうと黒猫は言った。いくらイメージをかき消して、トムのことを考えないようにしても、勝手に意識がトムのところに飛んでしまう。その度にあわてて帰ってくるのだが、どうやら、トムに気づかれたみたい、と。

「トムと目が合うのは、時間の問題だと思う」

と、黒猫は言った。

「時間の問題って、具体的にはどれくらい?」

と、私は訊いた。

「数時間、いや、今日の夜くらいまでは持つかな…そんな感じ」

と、黒猫が答えた。

「なるほど、現実的には待ったなしってことね。すぐに、メリルを呼ぶわ」

と、私は言った。

メリルが到着した時、すでに日没が近づいていた。

「太陽が落ちてからの時間をトムは狙っている。奴にとっては、そのほうが動きやすいからね。ロイの時のようには簡単にいかない。今夜は本気でやばいと思う」

と、黒猫は言った。

「やばいってどういうこと?」

遂に不安を隠せなくなって、私は訊いた。

「トムの力がどんどん増してるのを感じる。ロイの時どころじゃない。トムが近づいてくるにつれて、さっきから喉の辺りが閉めつけられるような感覚があるの」

と、黒猫が言った。

「えっ、トムはもう近づいてきているの?」

と、私は訊いた。

「ごめん、さっき、はっきりとトムの顔を見た。目の辺りから上の、顔半分が真っ黒のトムの顔。やっぱり目だけがぎらぎら光ってた」

と、黒猫が言った。

「私たち三人だけで乗り切れるのかしら?」

私が呟いた。

と、その時、

「ジョージを呼びます。ジョージにとってトムは実の兄ですもの。ジョージだって見届けないといけないわ!」

と、メリルがきっぱりと言った。

すぐにメリルは夫のジョージ・グリーンに連絡を取り、

「仕事を済ませてから、到着は21時頃になる、と言ってます」

と、言った。

私と黒猫は頷いた。

その間にも、トムが近づいてきているらしい気配が増すにつれて、黒猫の様子が目にみえて苦しさを帯びていることに気づいた。

「キッシュ!大丈夫?だいぶ苦しそうよ!」

閉めつけられた喉から絞り出すように、

「奴が、私の“声”を盗ろうとしている……」

と、キッシュが言った。

メリルも私もどうしていいのかわからず、おろおろして

「キッシュ、大丈夫?声を盗ろうとしているってどういうこと?私たちは、どうしたらいい?キッシュを救うために何をすればいいの?」

と、私は訊いた。

「わからない…トムの目的が何なのか…」

と、黒猫が苦しそうに答えた。

明らかに声が出にくくなりつつあるキッシュに、もうこれ以上質問できる状況ではないことを、私は感じ取った。

メリルと私は、ただキッシュを見守りながら、息をひそめて待つ以外になかった。

ソファにもたれる姿勢で苦しそうに眉をしかめていたキッシュが、一瞬大きく目を見開いて、言った。

「トムが…来る…」

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