第10話 ロイ・カーチスの旅立ち(続)

「今から、1、2、3、と、3つ数えるの。数えたあと、ロイに話しかけて」

と、キッシュの声がした。

私は、無言で頷いた。そして、キッシュがロイと交代しやすいように、はっきりとした声で、

「1、2、3…」

目を閉じて俯いていたキッシュの顔が、ゆっくりと私の正面に向いてくる。私は、目は閉じてはいるが間違いなくキッシュの顔だ、と確認する。閉じていた目がゆっくりと開かれた。と、同時に、キッシュの両の目の間、眉間の辺りに、すーっと白い靄のようなものがかかった。と、その瞬間、キッシュの瞳が、見覚えのある黒い瞳が、私の目の前で、別の瞳に、いや別人にすり替わったのだ。

「きゃーーーっ!」

私は、恐怖のあまり座っていた椅子からのけぞり落ちそうになり、かろうじて体のバランスを保ちつつ、その場から逃げようと後ずさりした。

と、その瞬間

「逃げるなっ!」

と、キッシュに一喝された。

「私だって、怖いんだから…」

と、キッシュの声がした。

「はい…」

私は我をとり戻し、キッシュの、いや、ロイの前に座り直した。

再び、目を閉じた状態のキッシュが

「もう一度」

と言った。

私は、深く息を吸い込み、今度は意を決して出来るだけ冷静に

「1、2、3…」

暫しのあと、閉じていたキッシュの、いや、もうロイになっているのだろうか、瞳が開いた。

私は、今度は恐れを感じることなく、ロイをしっかりと見つめることができた。

そして、「ロイ、ロイね」と、声をかけた。

そして、ひと言ひと言ゆっくりと丁寧に、ロイの表情を確かめながら、訊いた。

「ロイ、私はリンダよ。知っているわね」

「ロイがここに来たってことは、来た理由があるのね?それを教えてちょうだい」

ロイは身じろぎもせずに黙っている。暫く、ロイの様子を窺っていたが、答えが返ってきそうな気配はない。私は、質問を変えたほうが良い気がして、今度は

「ロイ、今の気持ちを聞かせてちょうだい」

と、訊いてみた。

ロイの瞳がわずかに動いた気がした。私は、

「ロイ、今はどんな気持ち?」

と、重ねて訊いた。

今度は、ロイの首がわずかに傾いた気がした。私は、ロイの唇から言葉が返ってくるのを待った。だが、返答はない。私は、またしても質問を変えることにした。

「ロイ、何か私たちにしてほしいことはある?」

ロイは、今度こそ考えているようだった。私は、辛抱強くロイの言葉を待った。しかし、またしてもロイからの返答は得られなかった。

その時、私は黒猫の言葉を思い出した。ロイが再び現れる前、そう、つい1時間程前の黒猫の言葉だ。

「ロイはあの白い道を探している。でも、黒くなってしまったロイには見えないんだよ、きっと」

確かに、黒猫はそう言ったのだ。

私は、ロイの返答を待つのをやめて、ロイを説得することにした。

「ロイ、あなたはもうここに来ちゃいけない。あなたのいるべき場所はもうここじゃないのよ。あなたには、あなたの往くべき場所があるのよ。ロイ、わかっているわね」

ロイはまたしても身じろぎひとつせず、宙を眺めている。私は続けた。

「ロイ、あなたは白い道を探しているのよね。白い道が見えなくて、部屋の中から出られなかったのよね」

そうロイに語りかけた瞬間、自然と自分の口からこぼれ出た言葉に、そうよ、そうだったのよ!と、私は確信を得た。

ロイは長らく、あの部屋から出る術がなかったのだろう。そこに、黒猫キッシュが現れたのだ。誰も訪れることの出来なかったあの部屋に、あの日キッシュが現れたのだ。そう考えれば、キッシュをめがけてロイが飛んできたのも無理はない。ロイにすれば、キッシュだけが頼みの綱なのだから。

私は、

「ロイ、少し時間をちょうだい」

と、言った。

「ロイ、あなたが何とか白い道を探し出せるように考えるから」

私は、一旦ロイとの交信を打ち切らざるを得なかった。

静かに、自分をとり戻したキッシュは疲れたように、はあ、と深いため息をついた。

真っ黒の瞳が光を帯び、意思をとり戻したようだった。いつもの黒猫の瞳だ、と私は思った。

「どう?とりあえず、これでよかったのかな?」

私は、黒猫に訊いた。

「リンダ、お疲れ様。とりあえずはね」

と、黒猫は答えた。

その後、すぐさまメリルと私と黒猫は、いかに白い道を探しだすのか、について話し合わなくてはならなかった。何しろ、ロイを黒猫のなかに放置しているわけにはいかないのだから。

黒猫の話では、部屋の窓の外に白い道があったというので、実際にロイが亡くなった家まで行かなければならないのか、という議論もなされた。しかし、そもそも死の世界に、そんな住所的観念が存在するのか、という理論をたどり、結局、黒猫の最初の言葉に確信を得た。

「黒くなっちゃったロイには、見えないんだよ」

どうして、黒くなっちゃったかはわからないけど、と黒猫は言った。

暗礁に乗り上げるしかないのか、という重い空気を破るように、

「それにしても、今日のロイの登場は静かだったわね。静か過ぎて全然わからなかったわ」

と、私が言った。メリルも、「ほんとに」と頷いていた。

「今日のロイはお行儀が良かった。まるで、昨日の祈りのせいじゃないかと思ったくらいよ」

と、黒猫が言った。

と、その瞬間、

「わかったーっ!祈りよーっ!」

メリルと私と黒猫が一斉に声をあげた。

祈りの言葉は、どうか、白い道がロイにも見えますように。そして、どうか、ロイが往くべき場所にたどり着けますように、だ!

「もし、私が途中で声が出なくなったり、様子がおかしくなったりしても、メリルとリンダは絶対に祈りの言葉を止めちゃだめよ」

と、キッシュが言った。

私は頷き、

「じゃ、はじめるわよ」

と言った。


メリルと私と黒猫は胸のまえで手を組み、一斉に祈りだした。

私は、さっき三人で確認し合った祈りの言葉を唱えながら、一生懸命頭のなかで、いや、心のなかでというべきだろうか、想像をしてみた。

そこには、四つん這いで黒くなったロイがいる。ロイの脇には、龍のごとく天に昇っていく白い道がある。ロイは恐る恐る、その白い道に近づいてゆく。私は、そうよ、そうよ、ロイ!と、声援をおくる。黒い姿のロイが四つん這いで、白い道を歩き出す。一歩、一歩、足元を確認しながら、ゆっくりと。私は、そうよ、ロイ!そのまま進むのよ!と、白い道を進んで行くロイのうしろ姿を見送る、という想像を。

と、その時、私はこのうえない感動に包まれた。

ロイが白い道に導かれて、天に昇っていくのが見えた。さっきまで四つん這いだったロイの姿は、いつしか人間の姿に戻っていた。もう黒くはなく、若々しい男性の姿で。

一筋の涙が、目じりからこぼれているのを自覚した。私は、閉じていた目をゆっくりと開けた。そこには、メリルとキッシュが変わらずにいた。

「ロイ、行っちゃったわね」

と、私が言った。

メリルも黒猫も、黙ったまま頷いた。

オレンジの光が眩しい夕暮れ時だった。

時計の針は16時30分を指していた。

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