令和3年夏の失恋

椎名めぐみ

令和3年夏の失恋

ちょっと前に『イン・ザ・ハイツ』という映画を観た。アメリカの移民街を舞台にしたこの真夏のミュージカル映画は、愛するに値する人間達の確かな健気さ、そして人間でいることの喜びに満ち満ちた、大変に素晴らしい爽快な傑作映画だった。どうでもいいが椎名めぐみの名作映画3選というのがあって、


1位 バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

2位 仁義なき戦い 広島死闘篇

3位 スターウォーズエピソードⅢ シスの復讐


といった感じだったのだが(私は順位を厳密に決めるのがスキなのだ)、『イン・ザ・ハイツ』の登場でシスの復讐は4位になった。というかもはや1位でもいいかもしれない。退屈な日々を肯定しようとする強靭な意志が、ここには明確に映り込んでいる。原作のリン=マヌエル・ミランダのインタビューを見たが、彼の主語はあくまで"私達"だった。この映画には生きることの楽しさと人生への誠実な信頼がほんの微細なセリフに至るまでびっしりと張り巡らされている。人生に未練はいらない。それは音楽の力で、夏の力で吹き飛ばすべきシロモノなのだ。私は映画館の最初の「マスクして見ろ!」って言ってくる注意勧告みたいなやつをミテミヌフリをしてこっそりマスクを外して観たような者なので、そのような野生の力に心から共感したというわけだ。だいたい、なんかウジウジと文句ばっか言って人生について悩んでるような感じの作品というのは、大抵のばあい描写のレベルも低く、結局は人間の本質にもせまることが出来ない。一時期だけTwitterでばずった『ルックバック』とかがそうだ(名前を書くのも気色悪い)。もとより私はああゆうような、人の心にシミみたいに残ろうとする純文学的な話が大の嫌いで、『進撃の巨人』も『鬼滅の刃』も『チェーンソーマン』も『呪術廻戦』も、私には全く同じ漫画にしか見えない。エロ漫画同然なビジュアルをしながら何となく深いみたいな感じのフインキを醸し出してくる。グロテスクな社会的抑圧を描くああゆう漫画には大抵、ミカサとかしのぶとかマキマみたいな謎にえろい女が登場するもんで、抑圧を描くくせに人間にとって最も苦痛な性的抑圧の部分は急に開放的になってしまう。おかしい話だ。

とにかくああゆう作品を「名作!」とか言う神経には私は全くついて行けない。ああゆうような作品は"紅茶のシミ"と呼ぶにふさわしい。要は、なんかいい匂いがするだけの汚いシミみたいなモンである。


そんなものより『イン・ザ・ハイツ』は遥かに優れている。この作品には「客の心に残ろう」なんていう下卑た精神は微塵も感じられない。偶然産まれて来たこの町のこの人生を、ただしっかりと存分に生きる。それ以上のことなどあるはずがない。夏の青空の下に私達は無力で、しかしその無力さを身体いっぱいに晴れ晴れと背負いこむ。ほんとうに心に残る作品とはこういうもののことをいう。『ルックバック』みたいな必死に心に痕をつけてこようとしてくる作品こそ実際はサラッとTwitterタイムラインを流れていって忘れて、現在だけを真剣に確かに生きて気にもとめない『イン・ザ・ハイツ』のような作品こそ、いつまでも消えない響きを人生に残してくれるものだ。夏の力は、ああゆう紅茶のシミみたいな、心に残ったヘンなワダカマリを完膚なきまでに吹き飛ばしてくれる。夏の清々しさを横に置いてあーだこーだ言ったところで暇つぶしにもならない。


それにしても、『イン・ザ・ハイツ』が映した"夏"というモノの正体はいったい何だろうか。最も頻繁にテーマになるこの季節に、熱、暑さ、つまり豊かな生命のイメージが託されていることは何となくわかる。歴史的な詩人達にとって夏、つまり荘厳な生命の表現はほとんど究極目標だったといっていい。アルチュール・ランボーの『永遠』という詩は太陽について謡いあげたものだし、ヘルダーリンやロートレアモンやニーチェといったナだたる詩人も、結局は統合的な夏の生命観が主題になっているとみて間違いない。自分の人生から抜け出すことの出来ない我ら人間にとって、生命の凄さを認めることは最良の人生論のようにも思える。日本のオタクにとっても夏という季節は最重要級のテーマで、『イリヤの空、UFOの夏』しかり『あの花』しかり、アニメ漫画ラノベの夏シーンを思い出そうとすればまったくキリがない。

『イン・ザ・ハイツ』が映すリア充大満喫の夏と『イリヤの空、UFOの夏』の妄想する青春の夏は、私には大した差であるようには思われない。そこにあるのは変わらず命の充実、人生の実感で、へんな区別をもうける必要は特にないように思える。しかしここでちょっと注目しなければならないのは、この二者を区別しようとする独特の言説がネット上に動いているということだ。『サマー・コンプレックス』、ならびに『感傷マゾ』と呼ばれるモノがそれである。ありえたはずの青春、過ごせたはずの夏を彼方に想う感傷に着目するという、なかなかに難儀なこの立場は、私には誤差としか判断出来ない『イン・ザ・ハイツ』と『イリヤの空、UFOの夏』の微細な違いを過敏に感じとっている。後者の夏には充実することへの違和感や拒否がそこはかとなく含まれていて、夏を大満喫するような態度からは距離をとろうとする。感傷マゾと呼ばれる立場はこの距離をひっ捕らえて新しい読み方を実現させる。作品において実現されているような夏の喜びへ"読者である自分"は到達できないままに、クダらない日々を生きてしまっている、こんな自分には思い出と呼びうるような大切な記憶は何一つない・・・こういうふうな自虐の感覚である。夏の満喫に違和感を覚える人々にとってこの感覚は共感できるようで、ネット上には賛同者も多い。

キーワードとして拡大していくこの感傷マゾという立場に、私はひとつ註釈をつけておきたい。少なくともあるタイプの作家、感傷マゾという立場に併合されてしまいがちなあるタイプの作家、西村悠や、三秋縋や、一二三スイや、有沢まみずといった作家達は、感傷マゾとは全く異なる原理、方法で作品をつくっている、という註釈だ。確かに彼らのような作家達も、感傷マゾと呼ばれる立場と同様に、夏の満喫に対して距離を取ろうとする。しかし彼らの作品にはひとかけらの自虐もないし、なにより彼らは皆共通して、夏の生命や人生の生き生きとした体感から無縁になった地点の実在を確信し、能動的な厭世観、人生からの率先した退避願望を貫いている。夏と無縁の場所を窃視し、そこを自分の居場所とするためにはどのような文体的、プロット的工夫が必要かという研究を信条としている。ちょっとソレっぽく言うならば、感傷マゾヒスト達のような夏への永遠の片想いにあえぐのではなく、なぜか覗け見えてしまう"夏と無縁の場所"を生活の延長上に現させるために創作している、いわば夏への失恋の作家達なのである。『イン・ザ・ハイツ』がてらに少し、夏への失恋の作家達について書く。



--夏への失恋の作家達について--


例えば一二三スイの『世界の終わり、素晴らしき日々より。』では、登場人物達のたゆたう心と、残酷に放置された世界との齟齬が丹念に描写される。ここには、すくみ上がる心と、絶対零度の宇宙の触感が、正確な彫琢で見事に表現されている。この芸術作品は、ライトノベルのフリをしたままとても高度な文体的課題に挑戦している。主人公達は冷えあがった星空を見上げ、崩壊した世界にふしぎな安堵を覚える。どう考えてもここには、充実した青春への憧れなんてモノはかけらも見受けられない。どことなく終末的なフインキと夏への距離感だけで同系統のイメージにぶち込んでしまうのはどうも不正確に思える。

同様に有沢まみずの『銀色ふわり』は生命を認識できないニュータイプの物語だし、西村悠の『夏空のモノローグ』は、夏休みの1日をループさせるために宇宙を貫いて出現した正体不明の塔に関する話だ。これらの作家が書く過剰な厭世観は、感傷マゾヒスト達のような単なる結果的な夏との距離感とは異なり、なにか肉迫した積極性が感じられる。単なる犯罪者の歪んだ情熱ではない、これらの、おそらくは互いの存在もほとんど認知しあっていないであろう、かけ離れたマーケットでひそかに活躍している一見無関係の作家達には、夏への失恋という別軸の共通項があると私には見える。この厭世観は、アンナ・カヴァンやJ・G・バラードの描くような内的宇宙(インナースペース)とも異なる。あのような文体の強力な統一性は無い。それよりもむしろ近いのはカフカの文章だ。些細でどうでもいい描写だけをひたすらに繰り返すカフカの意味不明な執着は、つまり夏への失恋を端緒にしたカフカの性向を表したものではないか。そういえばカフカの最高傑作と称される『城』は、一年中雪の止まない町が舞台だった。主人公Kの城への執拗な執着が意味するのは、つまり夏の充実からのひたすらな逃亡だ。この態度は例えば、『千羽鶴』や『虹いくたび』、『舞姫』を書いた頃の中期の川端康成や、『みじめな奇跡』と『荒れ騒ぐ無限』を書いた頃の中期アンリ・ミショーの態度とも合致する。ある時期の川端康成やアンリ・ミショーが望んだのは、そのような避暑地としての文学だった。これまたダジャレみたいな偶然だが、川端康成の最も有名な小説は『雪国』だし、アンリ・ミショーの代表作と評される作品の題は『氷山』である。ここでも、夏の充実からの逃亡はあからさまな形で現れ出ている。



この失恋の作家達は、『イン・ザ・ハイツ』のような夏の満喫をどのように受け取るのだろうか。私の見てきた限り現状、失恋の作家達の限界はここにある。今から即自殺するのでもない限り、人々が生き、また生き続ける以上、生命を認知する一言を抜きにまともな物語を成立させることは難しいらしい。誰か特定の作家のことではない、このように時代もジャンルもマーケットも全く異なる同一の才能達は、しばらくするとこれまた示し合わせたように素朴な生命讃歌へ向かってしまう。例えば川端康成は晩年、「仏界入り易く、魔界入り難し」をテーマに気違いのように咲き狂うたんぽぽを描き、これが遺作になる。ミショーもまた原始的な人間の力に着目し始める。西村悠や一二三スイや三秋縋もまた、乙女ゲームライターや、ライトノベル作家や、恋愛小説家という典型的な役割にやたら安住しようとする。せっかく特異な着眼点で発見した生命と無縁の開拓地を、とってつけたような美談や、ハズカシすぎるポエムで唐突に手放してしまう。このヘタクソな誤魔化しは絶対に糾弾したい。生命讃歌は、こと失恋の作家達に限ってはこれは"罠"なのだと、あえてハッキリと書いておきたい。普通の程度の創作者にとっては、生命讃歌は確かに究極目的といって差し支えない。自身の偏屈なこだわりを乗り越え、異質な表現を深い次元で認め合う、その感動が生命讃歌だ。しかし、はなから人生に対してケほども興味のない失恋の作家達にとって、生命讃歌はたいへん都合のいい失敗の言い訳にしかなっていない。このたいへん深淵な限界を、夏への失恋の文学の結論にすることに私は同意できない。それでは結局、最初に述べた『感傷マゾ』と夏への失恋の文学の差異は無効になってしまう。人生の喜びや夏の満喫を絶対に受け入れられないということ。少なくとも、失恋の作家はここをスタート地点にするべきだ。


とってつけた生命讃歌に至るというなら、それは『イン・ザ・ハイツ』を見たほうがよっぽど楽しいというモンである。夏への失恋をもっと深刻に受け止めなければ、感傷マゾと混淆されて読まれることはむしろ自明のことだ。これらの作家達が、その才能の共鳴にも関わらず互いの連帯がほぼまったくないように見受けられるのは、要はこの生命讃歌の罠という課題がデカすぎて作家的探究を辞めているからだろう。西村悠や一二三スイや三秋縋の『エンタメ』作家としての妙な矜持は、作家的探究をやめる際の依代に過ぎない。

失恋の作家達が夏を肯定する。その道すじにはとても悲しい誤魔化しがある。『イン・ザ・ハイツ』のファンとしても失恋の文学のファンとしても、そんなとってつけた結論を認めるわけにはいかないのである。生命讃歌を失恋の作家達が描くというのは、一般相対性理論を発見した人が中学生に数学を教えているようなモノだ。彼には他にやるべきことがある。

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