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 どうした、といっせいに精霊たちが騒ぎ出す。私は目を瞬かせて、

「針が止まっちゃってる。電池切れかな。それとも――壊れちゃった?」

「いろいろと衝撃が加わったせいかもしれない」と八重さん。「この世界に来てから、その時計も大冒険をしただろうから」

「止まっちゃったのは後で修理すればいいんですけど、市の掟には反しませんか」

「それは平気だ。お前の時計に違いないから。お前は失くし物を取り戻した。もとの世界に帰ることはできるよ」

 私は胸を撫で下ろし、「よかった」

「本当にね」

 私は文字盤を見つめ、それからはたと顔をあげて、「小紅は?」

 かしらを巡らせ、彼女の姿を探した。まだ時計塔の天辺に居残っているのだろうか。そして跳躍の瞬間に見た、あの――。

「更紗」

 人波がするすると分かれたかと思うと、その隙間を擦り抜けるようにして、ゆっくりと小紅が歩み出てきた。しかしその小さな体はすでに薄れ、いくつもの淡い光の粒を纏わせている。

「ずっと言えなかった。私が〈金魚辻〉に来たのは、自分の精霊としての寿命を延ばす方法を探すためだった。生まれ変わりが上手く行かなくて――このままじゃ長くないって、自分で分かってたんだ」

 微笑している。向こう側とこちら側の境界、鳥居の前での出会いを、私は思い返していた。あのとき小紅は、私にこう声をかけてきたのだ。「買い物は済んだの? もし済んだなら、私の――」と。

「最初は、更紗に手伝ってもらおうと思った。でも逆に、私が更紗の失くし物を探す手伝いをすることになった。巻き込まれちゃったなって思ったよ。でも、今は後悔してない。なんのために探すのか分からない、見つかるかも分からないものを探すより、更紗といられたほうがずっとよかったから。本当に――楽しかったから」

 小紅は視線を伏せ、私の目からその表情を隠した。小さくかぶりを振ったのち、ゆっくりと頷いて、

「この姿になってから、ずっとずっと探してた。長いこと、必死で探し回ってた。だけど、もういいんだ。見つけたかったものを、見つけられたから」

 そう語る間にも彼女の体は揺らぎ、ぼやけ、薄れて、市にそそぐ朝日に紛れんとしていた。かろうじて輪郭を残した顔を、小紅があげる。

「ごめんね。もう少し、本当にもうちょっとだけ、私に時間があればよかった。更紗を笑顔で送り出したあとだったら、きっと楽しいままで思い出になれた。更紗にそんな顔――させなくて済んだのに」

「小紅」やっとのことで、私は彼女の名を呼んだ。唇が震え、上手く言葉が出てこない。「私、そんなの――」

 ごめんね、と小紅は繰り返し、それから光に消えかけた両腕を優雅に広げてみせ、

「更紗のためだけに踊るって、約束したよね。いま、見せてあげる。私を思い出すとき、更紗には笑顔でいてほしいから。隣を歩いてる私でも、一緒に眠ってるときの私でも、知恵を絞ってる私でも、どんな私を思い出してもいいけど、できれば笑いながら、思い出してほしい。得意なことはいっぱいあるけど、でも踊りが一番だから、これが私からの、最後の贈り物」

 舞いはじめた。彼女の纏う赤い着物の鮮やかさと、ひらひらとした袖の揺らめきは、びいどろの玉のなかを泳ぐ金魚そのものだった。誇らしげに鰭を張り、透明な硝子の向こう側にいる誰かのために踊る。軒先に射し入った光に照らし出されて、その姿はますます艶やかに浮かぶ。素敵だね、とその誰かは笑い、遊び疲れた金魚はやがて、穏やかな眠りにつく――。

 静かだった。居合わせた誰もが、その舞いにただ、見入っていた。

「――駄目」私は叫び、静寂を破って地を蹴った。はたと動きを止めた小紅のもとへ駆け寄り、強く抱きすくめた。「そんなの信じない。私たちふたりなら、なんだって乗り越えられるんだもん。最後の贈り物なんて欲しくないよ、小紅」

 更紗、と彼女が応じ、私の背に固く両腕を巻き付けた。「私もやだ。このまま――時間が止まればいいのに」

 閃きが、脳裡に舞い降りた。私は手のなかにあった〈らふらん〉の腕時計を、小紅の小さな掌に握らせた。

 ほとんど光と同化しかけていた手が、実体を取り戻した。小紅を包んでいた淡色の粒子もまた、幻であったかのように失せた。

「私――」小紅が驚愕に満ちた表情で自分の掌を見下ろし、それから顔をあげた。「まだ私だ」

「当たり前だよ」私は咽声で告げると、確かな存在となってそこに立っている少女を、再び抱き締めた。「小紅は、ずっと小紅なんだから」

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