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 小紅が幽霊画を丸めた。それを合図に、新たな人物が舞台へと歩み出してくる。栄さんだった。彼女もまた、手に巻物を携えていた。打ち合わせどおりだ。

 私は栄さんと目を合わせて頷き合ってから、

「〈朱紋様〉に幽霊の噂が囁かれるようになったのは先々代からです。ちょうどこの時期、お店に入ってきたものがありました。当時の女将が、地上で購入した品だそうです。〈深緋庭園にて〉という絵画です」

 栄さんが舞台の中央に立ち、慎重に巻物を広げた。赤い光の錯綜する庭先を描いた、決して下手ではないが凡庸な風景画。かつて私と小紅が揃ってそう評した作品である。

「この絵について、皆さんはどんな感想を抱かれるでしょう。悪くはない、けど――といった程度ではないでしょうか。しかし先々代の女将はこれに大金を投じたといいます。どこにそんな価値があるのか? それを、皆さんにお見せします」

 栄さんが〈深緋庭園にて〉を持ったまま、私の隣へと移ってきた。舞台の光が、彼女と絵を赤く濡らす。その途端、客席にどよめきが生じた。

 絵が変化していた。無人だったはずの中庭に、白い着物を纏った女性の姿がくっきりと浮かび上がっていたのだ。立ち位置はちょうど中央、背の高い木の隣。不思議な微笑を湛えながら、こちらを見やっている。どこか物憂げで、この上なく嫋やかな雰囲気を宿した人物を主役とした、まったく違った作品がそこにはあった――。

「これが〈深緋庭園にて〉の秘密です。赤い光を浴びると色が変化する、特殊な絵の具が使われているんです。透明な絵の具に色が生じるのではありません。光に反応して色が変わるだけです。この人物を構成する線のすべては、ずっと私たちの目に映っていたんです。ただし非常に巧妙に、違和感なく、背景に溶けて消えてしまうように描かれていたせいで、それに気付けなかった。その技巧こそが、〈深緋庭園にて〉の真価なんです。先々代の女将は誰にもその秘密を伝えることなく、独りでこっそり木の枝に吊り下げては眺めていた。枝の古傷はその痕跡です。様子を遠目に目撃した者はみな、絵の人物を幽霊と勘違いをした。本当の〈朱紋様の幽霊〉の正体は〈深緋庭園にて〉だったんです」

 栄さんが光の下を抜け出した。瞬く間に〈深緋庭園にて〉から女性の姿が失せ、もとの平凡な風景画へと返った。

 そのように、私たちの視覚は認識するのだ。お風呂場でのコウさんの言葉を借りるならこうだ――目に映ってはいても、見てはいない。

 聖さんの顔が青褪めるのを、私ははっきりと確認した。正直なことを言えば、これ以上続けたくはなかった。しかしここまで来て、語りを放棄するわけにもいかない。すべて覚悟のうえで、私はこの舞台に立っているのだから。

「さて――私たちよりも先に、〈深緋庭園にて〉の本当の価値に気付いた者がいました。貴重品の収集を長く続けてきたからこその目利きだったのでしょう。それ自体は敬意を表すべきことです。しかしその人物は、誤った手段でこの絵を手に入れようとしました。〈朱紋様〉に誰かを潜入させて盗み出せ、と命じたんです。指示を受けたのはおそらく〈花櫓〉――この界隈では〈朱紋様〉と並んで有名なお店だそうですね。そこで潜入役として抜擢されたのが聖さんだった、私はそう考えています。さっき耳に挟んだんですが、〈花櫓〉での彼女は、度胸があると評されていたようです。持ち前の度胸を発揮し、彼女は〈朱紋様〉に新人として移籍してきた。そして絵を盗む機会を探っていたんです」

 聖さんは狼狽えた風情でちらちらと視線を彷徨わせていた。その退路を塞ぐように、両側からコウさんと蘭さんが詰め寄る。

「実行するとしたら、みんなが寝静まっている昼間しかありません。ところがそこに邪魔者が現れた。私と小紅です。雑用係として、日中は店じゅうを走り回っている。私たちを排除しなければならない、と聖さんは考えました。私が怖がりだと知った彼女は、幽霊の噂を利用することにした。それが血まみれの幽霊が出現した理由です。結果、私は幽霊怖さに寝込み、小紅は私の看病に付きっきりになりました。日中の店内は手薄になります。その隙を狙って、彼女は絵を盗んだ。正確に言えば、偽物とすり替えた。そのつもりでいた。違いますか、聖さん」

 沈黙だけがあった。聖さんは小刻みに身を震わせているのみだった。私は奥歯を噛みしめてから、吐き出すように、

「聖さんに指示を下した何者かは、彼女に絵の真価を伝えなかったのだと思います。ただ偽物を手渡し、これとすり替えろと命じた。聖さんはなにも疑うことなく、奥座敷に飾られていた絵をそのまま盗み出しました。でもそれは、事前に栄さんに頼んで描いてもらった偽物なんです。表層だけ見ればたいしたことのない絵ですから、彼女になら簡単に模写できる」

 昨日の夜、栄さんが私に囁いた言葉は、絵がすり替わったことを――すなわち聖さんによる犯行を、確認したという合図だった。幽霊なんかいない。

「本物はいま、ここにあります。皆さんに見ていただいたとおりです。私たちはここに告発します。〈牡丹燦乱〉が聖さんに命じて、〈深緋庭園にて〉を盗ませようとしたことを」

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