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「皆さん、初めまして。私たちはつい最近、〈朱紋様〉で働きはじめた新人の赤前垂です。店に入ってすぐ、私たちは有名な噂を耳にしました――そう、有名な幽霊の噂です。女将の話だと、先々代のころから囁かれているのだとか。皆さんもきっと、ご存じのことと思います」

 聴衆が頷く気配が伝わってくる。ここに居合わせた誰もが知っているようだ。

「今日お話ししたいのは他でもありません、この幽霊の正体についてです。私は先日、〈朱紋様〉の中庭にある渡り廊下で幽霊に遭遇しました。残念なことにすぐ気絶してしまったので、ゆっくり観察している暇はありませんでしたが――」笑い声が起きる。「――臆病者であるからこそ考えられることもまた、あるのです。まずは私が幽霊に出会ったときの状況について、お伝えすることにしましょう。たいへん典型的な状況です。私は夜中、お手洗いに行くために渡り廊下を通りました。〈朱紋様〉の中庭は、窓明かりと祭火の灯りで不思議な赤色に染まっています。廊下の中ほどまで至ったとき――もっとも背の高い庭木の陰から、血まみれの幽霊が現れたのです。私は即座に気を失い、気が付いたときには朝でした。私を部屋まで運んでくれたのは、先輩のコウさんです」

 コウ、と小紅が合図する。コウさんが立ち上がり、私たちに、続いて他の観客に向けて手を振って見せる。

「この幽霊は、人の手による悪戯だったということで処理がなされました。コウさん、その方法をここでみんなに話してくれませんか? 女将に話したとおりに繰り返してください。お願いします」

 ああ、うん、と彼女は頷いて、「服に鬘をくっつけて作った玩具の幽霊を、小さく丸めて糸で枝に吊るしたんだ。それから廊下に簡単な仕掛けをした。誰かが通って糸が引っ張られると、幽霊が枝から落ちてくるようにした。きゃあきゃあ悲鳴をあげる程度で済むと思ってたんだけど、あんたはぶっ倒れちゃった。悪いことしたよ」

「ありがとうございます。その木の枝を確かめると、傷がありました。小さく消えかけた跡、と確かめてくれた栄さんは言いました。間違いありませんね、女将」

「そのとおりだ」と客席の栄さんが応じる。「かなり小さくて目立たない、消えかけたような傷、と言った」

「ありがとうございます。ところで皆さん、今の表現になにか違和感はありませんでしたか?」

 客席が少しざわめく。隣り合った者たちどうしで囁きを交わしている。

「消えかけたような傷。糸の仕掛けによって付いたものなら、それは真新しい傷のはずではないでしょうか。私も栄さんに肩車をしてもらって、実際にその傷を見ました。とても小さな、古ぼけた跡でした」

 私は少し間を置き、観客が静まるのを待った。私の言葉が浸透している。みな、気が付いてくれたはずだ。

「そう。糸を使った悪戯という説は、この事実によって否定されてしまうんです。つまりコウさんは嘘を吐いたんです。なんのために? 誰かを庇ったのだ、と私は考えています。違いますか、コウさん」

 彼女は答えなかった。ただ驚愕に満ちた顔で、こちらを見返しているばかりだった。

「コウさんともっとも近しい人物は、同時期に入店した蘭さんです。ふたりがとても仲良しなことは、〈朱紋様〉の全員が証言できます。でもコウさんと蘭さんは、庇ったり庇われたりする関係ではないと私は思っています。悪戯をするならふたりで、怒られるのもふたりで――そう考えるんじゃないかと。さっきもふたりは、蜥蜴の丸焼きを一緒に食べていました」

 蜥蜴じゃなくて井守だ、とどこからか声があがる。私は笑い、

「失礼しました。ではコウさんが庇うとしたら誰なのか。〈朱紋様〉では先輩と後輩がふたり組になって接客に当たります。後輩を守るのは先輩の務め――仕事に誠実なコウさんのことだから、そういう意識が常にあったんじゃないかと想像します。そしてコウさんと組んでいる後輩は、聖さんです」

 その名を発した瞬間、私は息苦しさを感じた。客席を見渡す。視線、視線、視線のなかに、ひときわ強く突き刺すような気配を感じた。私たちは――相対している。

「続けて、私の見た幽霊はなんだったのかを考えていくことにしましょう。そもそも糸による仕掛けという説が浮上したのは、犯人がずっと中庭に隠れて相手を待ちつづけるのは非現実的だと考えたからです。いつ私がお手洗いに行くかなど、普通は分かりようがない。でもこの前提が崩れたら? 犯人が私の行動を先読みできたなら、話は変わってきます」

 犯人、という語を初めて使った。もう後戻りはできない。

「少し遡って語りましょう。私はその日の昼、聖さんの部屋を誤って訪れました。連絡の行き違い、勘違い――ということに、ひとまずしておきましょう。よくあることです。ところで〈朱紋様〉は、夜に営業するお店です。昼間はみな、仕事を終えて眠っている。ところがその日、聖さんは私を叱りも追い出しもしませんでした。部屋に招き入れて、お茶を振る舞ってくれたんです。とても親切で素敵な方だと思いました。だからこういう想像はあまりしたくないのですが――そのお茶に薬が混ぜられていたとしたら? 眠気を誘発する薬、そしてお手洗いに行きたくなる薬を、ちょうどいい時間に私が目覚め、お手洗いに立つように分量を調整し、飲ませた。味で違和感を持たれないよう、薄くしたんでしょう。私が規定量を飲み干すまでは、私を会話で引き留めた。相手の興味に合わせて話ができる方だから、それも簡単だったというわけです」

 どよめきが起きる。私は続けて、

「繰り返しますが、薬については推測です。しかし私が自室に帰りついた直後、猛烈な眠気を覚えてすぐに眠ってしまったこと、そして聖さんが私に渡り廊下の位置を教えてくれたこと。この二点は客観的な事実です。ともかく私は深夜に目を覚まし、渡り廊下へ向かいました。そのほうがお手洗いに近い、と教わっていましたから。そして私は幽霊を目撃することになります」

 小紅がいったん舞台袖に引っ込み、紙を携えて戻ってきた。客席に向けて広げる。以前に栄さんが即席で描いた幽霊画である。

「ところで、人はなにをもって幽霊を幽霊と認識するんでしょうか。なぜ枯れ尾花が幽霊に見えてしまうのか、と言い換えてもいい。じっくり観察すれば、相手が幽霊なんかでないことは分かるはず。でもそれより先に、意識が誤作動を起こしてしまう。あ、幽霊、と思い込んでしまう。夜中に突如として現れた怪しい影――これだけでも誤作動を引き起こすには充分かもしれません。でも犯人は工夫することにしました。きちんと白い服を着込み、長く乱れた鬘を付ける。一瞬で幽霊と錯覚させるためです」

 私は立ち位置を変えた。舞台を照らす灯りがもっとも濃い場所へと移る。全身が赤色に染め上げられる――。

「ところが、犯人はあることに気付きます。赤い光で満たされた中庭に白い服を着て出て行っても、白が浮かび上がっては見えない、ということです。これでは幽霊っぽくない、と犯人は考えたんでしょう。更なる工夫を凝らすことにしました。血糊です。どす黒く血に塗れていれば、恐ろしい存在であることが伝わる。幽霊に見えやすい。実際、効果は覿面でした。私は怖さのあまり気絶したんですから、大成功と言っていいでしょう。しかしその大成功が、かえって私に手掛かりを与えてくれました。幽霊の絵を見てください」

 右手を伸ばして絵を指した。小紅がそれをゆらゆらと動かしてみせる。

「これは先々代から伝わる〈朱紋様の幽霊〉を、過去の目撃証言をもとに再現した絵です。ご覧のとおり、こちらの幽霊は血にまみれてはいません。全身が真っ白です。すなわち本来の〈朱紋様の幽霊〉は、赤い光のなかでも白く浮かび上がる存在なんです。どういうことなんでしょう? 本当の〈朱紋様の幽霊〉の正体は、いったいなんなのか?」

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