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 沈黙を挟んだのち、栄さんは穏やかに、「ああ」

「ならよかった。女将としてきっちり言い聞かせてよね」

 そうする、と応じながら彼女は無造作に指を折り曲げ、関節を鳴らした。この仕種に私はどきりとして、「なるべく穏便に」

「べつだん殴ろうってんじゃないよ。ただの癖」

 安堵した。彼女が本気で拳を振るったなら、歯が折れる程度の話では済まないだろう。

「なんでもかんでも腕っぷしで解決するような真似は、あたしはしない。殴り合うなら自分より強い奴と、正当な理由をもって、だ。雇ってる子たちを傷つけるなんて論外だと思ってるよ。だから安心しな」

「そんな人、いるのかな」とつい洩らした。独り言のつもりだったのだが、栄さんは微笑して、

「昔、ひとりだけいた。たいした奴だったよ。惚れそうなくらいにね。とにかくあたしは、そういう相手としかやり合わない」

 なんだか凄まじい世界だ。私などにはとても到達しえない境地である。

「さて――小紅、更紗。今回は本当に迷惑をかけた。あとのことはあたしに任せて、あんたたちは部屋で休みな」

 言い残し、足早に中庭を去っていく。女の子たちを集めて面談する準備にかかるという。絶対に真実を打ち明けさせると、栄さんは改めて約束してくれた。

 彼女を見送ったのち、私と小紅も自室へと引き返すことにした。休めと指示されたのだから、今日の仕事はこれで上がって構わないのだろう。

「無事に解決しそうだね」と道すがら、小紅が笑いかけてきた。「けっきょく、幽霊なんか居なかったってことで」

「うん。本当にありがとう。私、ぼんやりしてるだけでなにも考えられなかった」

「たまにはいいでしょ。一回ぐらいは私もやってみたかったんだ。どうだった? 様になってた?」

「とっても」私はそこで栄さんの言葉を思い出し、「――惚れそうなくらい」

 彼女のようにさらりと発するつもりだったのだが、上手く行かなかったとすぐさま痛感した。途端に気恥ずかしさに見舞われる。苦手なことをやるのではなかった。

「ねえ小紅」私は慌てて別の話題を探した。「栄さんと対等に渡り合えた相手って、どんな人だと思う?」

「月乃だよ」

 あっさりと答えが返ってきたので面食らった。「月乃さんって――お面職人の?」

「話してくれたことがあるんだ。とんでもなく強い女とやり合った、いつかあの女の面を彫りたいって。月乃は自分が正面から負かした相手の面しか作らない。名前までは聞かなかったけど、でも栄の顔を見た瞬間に分かったよ。月乃とちょうど対になる位置に、傷が付いてる」

 私は月乃さんの姿を思い浮かべた。確かにそのとおりだ。屈強な肉体といい、自分の仕事に誇りを持つ態度といい、なるほどふたりには共通点が多い。

「いつか決着がつくのかな」

「さあ。私が見る限り、素手でぶつかり合ったら互角だと思う。お面を使えばとうぜん月乃が有利だけど、そういう真似ができない奴だから」

「お互いに敬意を抱いてるんだね」

 そうだね、と小紅は応じ、私を振り返って、

「ともかく真相さえはっきりすれば、私たちもやっと〈隧道祭〉の準備に集中できるね。今日のところはひとまず、部屋で静かにしてよう。ふだん使わない頭を使ったから、ちょっと疲れちゃった」

「お疲れさま。ゆっくり休んでね」

 彼女は指先で頬を掻いて、

「安心してほしかったから頑張った。更紗もこれで、落ち着いて眠れるよね。今日はさ、ふたりともお昼寝にしようよ」

 部屋に帰りつくと、私たちはさっそく楽な服装に着替え、寝床を拵えにかかった。ところが一枚目の布団を敷き終えた時点で、どちらともなく面倒になってしまった。目で頷き合い、相手の意思を確かめると、同じ布団に潜り込んで眠った――。

 翌日、栄さんから報告があった。自分がやった、とコウさんが告白したそうだ。きゃあきゃあと悲鳴をあげる程度がせいぜいと高をくくっており、まさか声もなく倒れるとは思ってもみなかったという。仕掛けを回収しに来たタイミングで気絶している私を発見し、慌てて部屋に運んだ――というのが、事の顛末である。

 栄さんに連れられて、コウさんは私たちの部屋に謝罪に来た。普段の軽妙な調子は完全に失せ、可哀相なくらいにしょぼくれていた。ずいぶんときつく絞られたのかもしれない。

「遊び半分だったとか言い訳はしない。本当に悪かった」

 深々と頭を下げられ、私はかえって恐縮してしまい、

「いえ、こちらこそ――こんな大騒ぎにしてしまってすみませんでした」

「これに懲りたら更紗に悪戯しないで。コウだけじゃなくて、他の子たちもだよ。また変な真似したら許さないから」と私よりむしろ、小紅のほうが怒っていた。

 こうして幽霊騒ぎは終結し、私たちは〈隧道祭〉に向けて本腰を入れた準備を始められるかに思われた。ところがその直後、私は新たなトラブルに見舞われる羽目になってしまった。

 体調を崩したのである。一息に緊張が解けたのが原因かもしれない。体が弱いのか、あるいは神経が細いのか、昔から私にはそうしたところがある。ひとつの山場を越えると、途端に力尽きてしまうのだ。

 私は栄さんに来てもらい、自分の考えを話した。相談の結果、すべての仕事をしばらく休ませてもらうことが決まった。基本的に部屋で寝ているだけの生活が、その日から始まった。

 小紅は私に付きっきりになった。食事を用意したり、寝巻を洗濯したり、体を濡れた布で拭いたりといった諸々は、すべて彼女が引き受けてくれた。栄には了解してもらってるから、更紗はなにも心配しなくていいから、と彼女は繰り返した。

 眠りに落ちるたび、私は悪夢に魘された。幽霊が、幽霊が、と譫言を口走っては、ぽろぽろと涙を零した。小紅が少しでも離れようとすると、行かないで、傍にいて、と訴えたほどだった。思い返しても情けないのだが、他にはどうしようもなかったのだ。

〈隧道祭〉の前夜、栄さんが私たちの部屋を訪れた。私の枕元に屈みこみ、厳粛な声音で、

「大丈夫だ。幽霊なんかいない」

 その言葉を聞くと、私はゆっくりと上半身を起こした。彼女の目を見返しながら、

「本当ですか」

「ああ」

 部屋の隅で洗濯物を畳んでいた小紅が、ぱたぱたと近づいてきた。「更紗、起きて平気なの? 栄が相手だからって無理しちゃ――」

 私はかぶりを振った。「ごめんね、小紅。もう大丈夫。明日の〈隧道祭〉も出られるよ」

「時計が大事なのは分かるけど、体のほうが大事だよ。それになにをやるかも決まってないのに」

「大丈夫。体はもう回復してるし、できることもある。考える時間はたっぷりあったし、小紅と栄さんのおかげで、ぜんぶ上手く行ってる」

「言ってることがよく分からないよ。なにが上手く行ってるの?」

 小紅、と栄さんが静かに呼びかけた。「あたしからも謝る。これは作戦だったんだ。更紗はとっくに復調していた。ずっと寝込んだふりをしてたんだよ」

「え? でも、そんな、なんで――」

 すっかり混乱した風情の小紅の手を私は握り、息を吸い上げて宣言した。

「明日の〈隧道祭〉でなにもかも明らかにする。幽霊騒ぎの本当の犯人と、その裏にある真相を」

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