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 翌日から、私たちは栄さんの指示どおりに仕事を開始した。配られた赤い前垂れを身に着け、雑巾掛けや荷物運び、洗濯といった雑用をこなす。大半が単純な作業で、拘束時間もそう長くはなかった。

 そうして駆けまわるうち、私たちは〈朱紋様〉の仕組みを徐々に理解していった。客が入りはじめるのは夕方過ぎ。夜が明けて店が閉まると、仕事を終えた女たちは自室に引き上げて眠る。入れ替わりに私たちが起き出し、諸々の準備や片付けを行う、というのが一日の基本的な流れである。

〈朱鼠〉という種族のこともまた、知った。同じ地中の存在といっても、巴さんたち一族とはまるきり性質が違う。むしろ人間に近いという印象を、私は抱いた。特殊な力はほとんど持ち合わせない。姿を変えることもない。

 女たちは原則、ふたり一組で接客に当たる。組み合わせは状況に応じて変動するが、自分の相方はこの人、程度の認識はみなにあるようだ。息が合っているとか仲が良いとかいった段階を超えている様子のペアも、そう珍しくはない。人目も憚らずに互いの体を弄り合ったり、口づけを交わしたりしている光景を、私たちは何度となく目撃した。

 そうしたことがあるたび、小紅は「気が散って仕事にならない」と私に洩らした。まったく同感だったが、雑用係でしかない私たちに止めさせる権限はなかったし、店の女性たちは女性たちで、私たちなどまったく気にしていない様子で振る舞った。服を脱ぎ落し、肌を見せびらかし、わざとらしく嬌声をあげる。慣れるのは非常に困難だった。私は困り果て、深刻な睡眠不足に陥る羽目になってしまった。

 私たちが〈朱紋様〉に滞在を始めて一週間ほどが過ぎたころ――。

 寝不足の目を擦りながら、私はいつものように雑用をしていた。なんということはない仕事だったのだが、その日はつい、失態を犯した。訪ねるべき部屋を間違えたのである。

「――どなた?」

「赤前垂の更紗です。ここから荷物を運ぶようにと指示されたんですが」

「荷物? そんなもん、ここにはないよ」

「え? 小紅からはここだと――」

「じゃあどっちかの思い違いだ。ないものはないんだもの」

 扉が開いた。相手は寝巻姿だった。本当に私の勘違いで、休んでいる人を起こしてしまったらしい。叱られるものと覚悟し、身を硬くした。

「あんたか。あたしのこと、覚えてる?」

「ええと」必死で記憶を巡らせた。「コウさんと一緒に接客してくださった――聖さん」

「覚えてたの。あたしってコウと比べると印象が薄いからさ、たいてい忘れられてるもんなのに」

 まあ入りなよ、と聖さんは私を手招いた。それほど怒ってはいないようだ。安堵した。

「なにか飲む? こき使われて疲れてるんだろ」

 私の返事を待たず、聖さんはお茶を淹れはじめた。部屋に柔らかな香りが満ちる。小さな湯呑を私に差し出すと、彼女は薄く微笑んでみせた。

「どうぞ」

「ありがとうございます。いただきます」

 湯呑を持ち上げて、一口付けた。「美味しい」

「そう。苦すぎたりしない?」

「いえ、ちょうどいいです。とっても素敵な味」

「ならよかった。たくさんあるから、遠慮しないで飲んでって」

 印象が薄い、と自認しているらしい聖さんだが、目鼻立ちはむしろ、非常に精緻な部類だ。ただ華やかな印象を与える風貌ではない、というだけである。線が細く伏し目がちで、どこか物憂げな空気を纏っている人だった。

 私たちは少しのあいだ、本や音楽の話をした。むろん知っている作品や作家が重なっているわけもないのだが、それでも私はその会話が楽しかった。話をしながら二杯のお茶を飲み干したとき、聖さんがふと思い出したように、

「たぶん、あんたが行くはずだったのは〈萩の間〉じゃないのかな。荷物っていうとたいがい、あそこで受け渡しをするから」

「そうかもしれません。戻って確認します。本当にご迷惑をおかけしました」

「戻るより、じかに〈萩の間〉を見に行ったほうが早いよ。中庭を突っ切っていく廊下があるんだ」

 道順を説明してもらえた。なにしろ入り組んだ構造の店なので、知らない部屋や通路はいくらでもある。自分が無駄な遠回りをしていたことに気付かされた。

「便利な通路があるんですね。教えてもらえてよかったです」

「だろ? あんたたちの部屋からだったら、手洗いに行くにもそこを通っていくといいんだよ」

 聖さんに礼を言って仕事に戻った。荷物は彼女の言葉どおりの場所にあった。助言に従っておいて正解だったと思う。おかげで二度手間を踏まずに済んだ。

 やるべきことを片付けて部屋に戻った。思いがけず早い時刻だった。

 小紅はまだ留守にしていた。なにか別の作業の最中なのかもしれない。ふたりとも体が空き次第、〈隧道祭〉に向けた打ち合わせをする予定になっていたから、彼女が戻る前に少しでも考えを纏めておこうと思い立った。机に向かう。

 ところがその手筈が狂った。いくらもしないうちに、猛烈な眠気に見舞われたのである。日頃の寝不足がここに来て祟った。尋常ではない睡魔だった。

 どうにも耐えられなくなり、ほんの少しだけのつもりで布団に身を横たえた。あっという間に意識が朦朧とする。

 はたと目が覚めた。その瞬間、自分が恐ろしいほど深い眠りに引き込まれていたことを悟った。頭がひどく重い。

 自然の欲求を覚えた。というより、そのために自分は覚醒したのだと分かった。「――お手洗い」

 そっと体を起こした。いつ戻ったのか、小紅は同じ布団で寝息を立てていた。机の上に、私のぶんらしい夕食が用意されているのにも気付く。「起きたら食べてね」と書きつけた紙が添えてあった。

「やっちゃった――やだもう」

 約束を反故にしてしまった。明日、謝らなければならない。私のことだから、いくら起こされても決して起きなかったのだろう。

 ともかくも部屋を出た。お手洗いに向かおうとして、聖さんに教わった廊下の存在を思い出した。迷わずそちらを目指す。

 中庭へ続く扉を開けるなり、深く昏い赤色に身を包まれた。〈朱紋様〉の無数の窓の灯り、そして〈祭火隧道〉を照らし出す火の光が錯綜し、この空間に射し入っているのだった。

 庭の中央を走る渡り廊下を進んだ。そこここに大振りな飾り石や、奇妙に捻じ曲がった木が聳えている。見事な庭園の光景には違いなかったが、目に付くすべてが紅く染まっているさまは、どこか異様でもあった。

 廊下の中ほどまで至ったとき、視界の隅になにか黒い影が映りこんだ。赤一色の世界に突如として生じたその色味は、恐ろしいほどに目立った。見間違えようもない。

 ゆっくりとかしらを巡らせる。ひときわ背の高い木の陰から、それは現れた。

 女性――なのだろうが、店の誰かでも、他の〈朱鼠〉でも、むろん人間でもないのは明らかだった。ゆらゆらと揺れるようにして、そこに佇んでいる。

 身に纏った装束は、上から下までどす黒く染まっていた。元がどういった色だったのかは、もはやまったく見当がつかない。いっさいが血塗れなのだった。

 顔も血で黒々と染まり、人相は分からない。ただ乱れた長い髪の隙間から、恨みがましい光を湛えたふたつの目が、こちらを見つめているばかり――。

 幽霊、という語が脳裡に生じるより先に、私の体は苛烈な拒絶反応を起こしていた。視界が明滅し、上下左右の感覚が出鱈目になる。全身の力が失せていく。

 どさ、と自分の体が床に打ち付けられる音が、どこか遠くから聞こえた。記憶にあるのはそこまでだ。夜中、お手洗いに行く途中に幽霊を目撃し、卒倒する――きわめて類型的な怪現象を、この日、私は体験したのである。

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