30
湯船に浸かったまま話し合いを続けたが、なかなか決定打には至らなかった。そうこうするうちにのぼせてきたので、いったん上がることにする。コウさんもいつの間にか、姿を消していた。
小紅は着替えを持っていなかった。脱いだものをまた着ようとしたので、私の予備の寝巻を貸した。色違いのパジャマ姿になって、浴場を出る。
ぺたぺたと廊下を歩いていくうち、また店員に出くわした。どこかで見覚えがあると思ったら、入口で客引きをしていた女性である。
「女将に話は聞いたよ。これからよろしくね」と親しげな笑みを覗かせる。「そういえばふたりはもう、〈深緋庭園にて〉見た?」
「なんですか、それ」
「見てないの? 三代前だったかな、とにかく昔の女将が地上で手に入れてきた、店の名物なの。奥座敷に飾ってあるよ。案内してあげる」
なんとなく興味を惹かれた。小紅も同様らしかったので、行ってみることにした。
目的地までの道すがら、客引きの女性は蘭と名乗った。コウさんと同時期にこの店に入り、以来ずっと親しいのだという。
「さっきコウが、蘭に耳を洗ってもらうって言ってたけど」と小紅が訊ねる。「本当?」
「ほんと。耳だけじゃなく全身隈なく。一緒にお風呂に入って、一緒に寝てるよ」
「言っていいのか分からないけど、私たちがお風呂に入ってたら、コウも来たの。更紗にちょっかい出そうとしてた。あなたとしてはそういうの、どうなの?」
蘭さんはまるで意に介した様子もなく、
「別に。けっきょくはお互いが一番だって分かり切ってるし」
絶大な自信と相手への信頼を感じさせる物言いだった。その異様な説得力に私が感心していると、小紅は溜息交じりに、
「じゃあ私たちの席に、コウと一緒に出てきた人は誰?」
「あの子は新人の聖。長く勤めて慣れてるコウが、教育係をしてるってわけ」
「ああ――そういう仕組みなんだ」
「聖の仕事ぶりはどうだった? なにを話した?」
「音楽のこととか。コウほど積極的じゃなかったな。私としてはありがたかったけど。あの人、新人なんだ」
「そろそろ一皮剥けてもらいたいんだけどね」と蘭さんが困り顔をする。「コウの指導、悪くないと思うんだけどな」
「静かで物知りの子のほうがいいって客もいるんじゃないの。それともここの客はみんな、耳に悪戯されたがってるわけ?」
「全員じゃないかもしれないけど、だいたいは」
いくつもの角を曲がり、戸を引き開けて、私たちは奥座敷に辿り着いた。そう広大なわけではないのだろうが、とにかく構造が複雑な店である。目に付きにくい部屋や空間が無数にあると思しい。
「あれが〈深緋庭園にて〉。〈金魚辻〉でずいぶん高い値で買い付けて来たらしいよ」
もっとも奥まった壁に吊り下がっていたのは、どこかの庭先を描いた掛軸だった。外光の当たらない位置を選んで飾ってあるらしい。ずいぶんと大切にされてきたのだろう、古めかしいが綺麗で、それなりに見栄えがする。しかし――。
「悪くないと思うけど、平凡じゃない?」蘭さんに聞かれないようにだろう、小紅が私の耳元で囁く。「そんなに高級品に見えないよね? 私の感覚が間違ってるのかな」
私の目にも、それは凡庸な絵だった。決して下手ではないのだが、取り立てて賞賛すべき点も見いだせない。前を離れたらすぐに忘れてしまうような、印象の薄い作品なのだ。
いったん答えを保留し、顔を少し近づけて眺めてみた。よくよく観察すれば、なにか印象が変わるかもしれないと思ったのである。
しかしその期待も、まるきり裏切られることになった。より評価が下がった、と言ってもいい。存在してはいるのに全体にまるで貢献していない、無意味な線や描きこみがやたら多いのだ。
「私も駄目だと思う」と小声で結論した。「少なくとも、大金出して買いたい絵じゃない」
「どう? おふたりさん。なにかご感想は?」
蘭さんにそう問われたので、綺麗な絵ですね、などと当たり障りのないことを言って誤魔化した。小紅がどうかは分からないが、私に美術の素養は皆無だ。目が節穴である可能性は大いにあった。
「〈金魚辻〉で掛軸を取り扱ってるのって――〈蒐集家〉かな」
独り言とも小紅に語りかけたともつかない調子の言葉に、蘭さんが反応した。「そうそう、そんな人だったって。なかなか売りたがらなかったのを、無理言って手に入れたらしいよ」
いまひとつ納得はできなかったが、なんらかの希少価値はあるらしい。気を悪くさせても申し訳ないので、蘭さんと別れるまで、私たちは無難な態度を貫きつづけた。
割り当てられた部屋に戻って再びふたりきりになると、小紅は小首を傾げて、
「ここの人たちの価値観が分からなくなってきた。ただ私たちが面白いと思うことをやっても駄目なんじゃないかなあ」
「うーん」と私も腕組みをした。「とりあえず、ここの様子をもう少し観察してみようよ。どういう出し物が受けるのか、なにか手掛かりが見つかるかもしれない」
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