23
指定された扉から巴さんの屋敷を後にした。廊下がそのまま、下り坂の通路へと繋がっている構造だった。決して広くはないのだが窮屈な感じもしない道を、小紅とふたりで歩む。
しばらく進むうち、足許が平坦になった。先ほどより多少、天井が低くなったようでもある。
「もう酔いは醒めてる?」小紅の足取りは確かな様子だったが、念のため訊ねた。「眠くない?」
「眠いからおんぶしてって言ったら、してくれるの?」
笑い交じりの口調から冗談なのだと分かったが、私はあえて立ち止まり、腰を屈めた。「おんぶ、してもいいよ」
あっさり流されるだろうと高を括っていたら、小紅は思いがけない行動に出た。私の背後に回ってきて、首筋に両腕を巻き付けたのである。
「じゃあおんぶ」
「本当に眠いの? 少し休憩する?」
彼女は私の肩のあたりに頬を押し当てたままかぶりを振った。「ただしてほしいだけ。私、やったことないから」
思いがけないその返答に、はっとした。彼女の告白が脳裡に甦る。かつては金魚だったという言葉が真実だとするなら、おんぶや抱っこの経験などあろうはずもない。
私は下腹部に力を込めながら、小紅を持ち上げた。想像よりもずっと軽い。両膝の下に回した腕の位置を微調整し、姿勢を安定させた。
「どう?」
「本当にすると思わなかった」と彼女は私の耳元で笑い、それから小さく付け足した。「でも嬉しい」
つい頬が緩んだ。バランスを取りながら、体を揺籠のように揺らす。
「乗り心地、悪くない?」
「大丈夫。更紗、お母さんにこういうふうにしてもらったの?」
「あと蓮花さんにも。何回かだけだけど、今でもよく覚えてる」
ぷすん、と小紅は鼻を鳴らした。「更紗はその人のこと――すごく慕ってるんだね」
「うん」
と応じると、彼女はまたぐりぐりと顔を動かした。先ほどよりも力が籠っている感じがする。気のせいだろうか。
「慕ってるって、どういう感じ?」
質問の意図がよく分からなかったが、ともかくも言葉を探した。「尊敬? でも先生に感じるような気持ちとも少し違って、なんだろ、もっと親しいっていうか」
「強く思ってる?」
「普段は近くにいないから、いつも考えてるわけじゃないかな。でもなにか悩んでたり、相談したいことがあったりしたら、真っ先に顔が浮かぶの」
「たとえば、どんな悩み?」
私は少し考え、「悩みだと――勉強のことが多いのかな。くだらない愚痴を言っちゃったりもするし、嬉しい報告をすることもあるし、雑談もするけど」
「人に関わることは?」
「人間関係ってこと? 今のところ、あんまり。喧嘩とかしないし」
「逆は? つまりその――急に誰かと仲がよくなること」
「学校ではないかな。田舎の小さい学校で、クラス替えもないんだよ。同じメンバーでずっと持ち上がりだから、よく言えば安定してる」
「そのうちの誰かと、時計の人だったら? いちばん親しみを感じるのは?」
「学校では言わないけど――蓮花さんかもしれない。別に友達と上手く行ってないわけじゃないんだけどね。でも蓮花さんのほうが安心するっていうか」
短い沈黙があった。小紅は僅かに声を固くして、
「嬉しさや悲しさを分かち合う相手は、絶対にその人がいい?」
「絶対かっていうと――分かんないな。実際、今は一緒にできないことのほうが多いわけだしね。いつでも自分より前にいる人って感覚なのかも。隣じゃなくて」
「下りる」
「え?」
「もう満足したから。いつまでもおんぶしてたら、更紗も疲れるでしょ」
唐突なその申し出に少し困惑しつつ、私は小紅を解放した。彼女は跳ねるように私の横へやってきて、
「巴がさ、交渉するも買い戻すも奪い返すも好きにしろって言ったじゃない? 更紗としては、どういう方向で考えてる?」
「――まずは交渉じゃないかなあ。素直に返してくれるかどうか分かんないけど、とりあえず」
小紅は指先で顎を摘まんだ。
「〈金魚辻〉の内部での問題なら、最終的には八重の権限で解決できる。力があって、かつ相応の根拠に基づいてそれを行使できる存在でなければ、そもそも神と精霊の市を立てること自体できないから。でも〈祭火隧道〉に八重の力は及ばないし、〈朱鼠〉も八重に従う道理はない。まったく理屈の通じない相手ではないと思うけど――」
「無理やり取り返すのは厭だな。できるかどうかも分からないし、向こうには向こうの言い分がきっとあるだろうから」
いくつめともつかない角を曲がると、急に視界が開けた。一瞬、屋外に出たのかと錯覚しかけたほどだった。壁も天井も遥かに遠く、黒く霞んでさえ見える。洞窟の中にぽかんと開けた巨大な空間に、私たちはいるのだった。
「更紗。あれ、見て」
目を凝らした。呼吸するかのようにゆったりと上下する物体の影が、遠くに浮かんでいた。自分たちの立つ場所より一段低まったところに、黒々とした水面が広がっていることに気付く。巴さんの言う地底湖に辿り着いたのだと分かった。
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