18

 短い暗闇が訪れたのち、巴さんが姿を現した。「いや。彼女はよく眠っているようだね。ついでに二戦目の準備をさせてもらった」

 彼の後方に、柱状のものが数本、突き出していた。高さも太さもまちまちだが、いずれもまっすぐに天井に向かって伸びている。土台にあたる部分だけが重たげで、どっしりと安定した構造に見える。

「これを使うんですか」

「そうだよ。少し騒々しくなるかもしれないから、仕切りを設けさせてもらった」

 見回すと、私の背後には新たな襖が出現していた。私と巴さんがいる空間と、小紅の寝ている空間とを区切ったものらしい。

「子供たちを遊ばせるときは、よくこうしている。ばたばたと騒がしいと、眠るに眠れないからね。あの子に危害を加える気はないから、安心してもらって構わない」

「お気遣いいただいて――」と礼を言ったのち、「よく分からないんですけど、お酒は強いものだったんですか」

「強くないと勝負にならない。とはいえ、うちの子供たちも飲んでいるものだよ。私たちの一族はみな、酒好きでね」

 頷く。「二本目は必然的に私が、ということになりますね。ルールを聞かせてください」

「単純明快だ。輪投げだよ」

 巴さんが肩越しに、親指で後方を指す。なるほどあの柱は的棒ということらしい。

「三回投げて、一回でも入れば君の勝ちだ。どの的に入れてもいい。君の足許に印があるだろう」

 円形の不思議な紋様が、畳の上に浮かんでいた。墨かなにかで書きつけたか、あるいは焼け焦げさせたかのように黒い。じかに踏むのは憚られたので、両足を軽く広げて跨ぐようにして立つ。

 巴さんが輪を差し出してきた。的が大きいぶん、輪も大きい。車のハンドルくらいはある。

 そっと手を伸べて掴み、思わず悲鳴をあげそうになった。滑るのだ。素材は不明だが、少なくとも一般的な紐や丸めたホースの手触りではない。

「これ――」

「独特な感触だろう? 私たちの特製でね。それを使うほうが盛り上がるんだ」

 ともかくも一本を受け取り、構えた。それなりに重い。的もまた、存外に遠い。

 フリスビーの要領で投げたつもりだったが、輪は手からするりと擦り抜けてあらぬ方向へと飛んでいったのみだった。ぱたりと虚しい音を立てて、畳に落ちる。

「第一投は失敗だな」

 黙って二本目を受け取った。体を斜め向きにして距離を目測したり、軽く素振りをしたりしながら、心音が落ち着くのを待った。昔からスポーツが全般的に苦手な質で、フリースローであれサーブであれ、うまく決まったためしがない。手を拭い、息を吐きだす。

 もっとも手前の的棒を狙った。輪は思いがけず調子のよい軌道を描き、先端にぶつかって回転した。このまま勢いを失って落下してくれれば入る。拳を握って凝視した。

「――え」

「第二投も失敗だ。次が最後だぞ」

 畳の上に落ちた輪を唖然として見つめた。いんちき、という言葉が飛び出しかける。

 期待したとおりに回転は止まった。しかし――的棒が自ら意思を宿しているかのように動いて、輪を弾いたのである。一瞬の出来事で確証こそ持てなかったが、私の目にはそう映った。ゆっくりと巴さんを振り返る。

「あの、今――」

「なにが起きたと? 私たちを糾弾するつもりなら、はっきりした証拠を出してもらいたい。兎の聴覚でなにか聞き取れたのか?」

 唇を引き結んだ。ほんの微細な、震える程度の動きだった。輪の回転の勢いによって引き起こされた撓みと抗弁されれば、それまでである。人間の視覚の限界だった。ここにクロがいれば――。

「最初からそのつもりだったんですか。壺を丸呑みしてみせたのも、視覚的なトリック?」

 巴さんは飄然と、「それは君の思い付きにすぎない。それなりの証拠を積み重ねての推論なら、耳を傾けてもいい。しかし単にいかさまと言うだけではね、負け惜しみと見做されても仕方がないと思わないか」

 奥歯を噛みしめながら彼を睨んだが、まるで瞬かない目で見返されるばかりだった。悔しさで鼻孔の奥が熱くなってきた。苛立ちを押し殺しながら、最後の一本を掴む。

 公民館祭の記憶が甦っていた。あのときは蓮花さんに助けてもらえた。しかし今は独りだ。

 第三投は、先の二本と比較にならないお粗末さだった。勢いが付きすぎ、輪はあらゆる的棒を通りすぎて壁にぶつかった。打突音と同時に、きゅう、と奇妙な音が洩れる。

「おい、気を付けてくれ」巴さんが素早く立ち上がり、落ちた輪を拾いに走る。「あまり驚かせるな。力任せに投げるもんじゃない」

 意図的ではなかったとはいえ、力が入りすぎていたのは事実だ。自分の振る舞いを後悔していた私は頭を下げて、

「すみませんでした。よその家のものなのに、乱暴に扱うような真似をして」

「まあ、いい。そう簡単に壊れはしないからな。私も挑発的な言葉遣いをしてしまった。それは謝る。どうか許してほしい」

 私は手を差し出した。巴さんは少し逡巡した様子を見せたが、けっきょく握り返してくれた。彼の手が輪と同じように滑らかなことを、私はそのとき初めて知った。

「気を取り直して最終戦と行こう。約束どおり、君の友人にも参加してもらう。三十分後だ」

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