16

「また会ったね」と男性は唇の端を吊り上げた。「人の子が、よくここまで来たね」

 小さく頷いた。近づくと、彼の向かいに二枚、座布団が敷かれていることに気付いた。

「まあ掛けてくれ。私を覚えているかな」

「駅の〈翼ある乙女の像〉の前で少し――お話ししましたよね」

「ああ、そうだ。人の子の待ち合わせ場所として有名だと聞いたが、私には理解できないね。あの像は最低だ。あんなものの下に立つなど、私たちには考えられない」

 なぜ顔に見覚えがないのかと考え、短いやり取りの最中、彼がずっと壁のほうを向いていたことを思い出した。〈翼ある乙女の像〉を視界に入れたくなかったためらしい。

「あのとき、私に言いましたね。私が待ち人に会えないかもしれない、今日は〈金魚辻の市〉だから、と」

「〈蒐集家〉に聞いたかもしれないが、私たちは旅好きでね。君たちの世界にもよく出張する。多くの人間を観察していると、引き寄せられやすい類の者が分かるんだ。君はまさしくそうだった。面白いと思った。ところで今、君の左手首はずいぶんと涼しいようだね」

 私は息を吸い上げ、「巴さん。私はこの〈金魚辻の市〉で、〈梨の天使らふらん〉の腕時計を失くしました。あなたがなにか知っているのではないかと思い、こうしてお邪魔しています。ご存知のことがあれば教えてください」

 彼は愉快そうに笑い、私と小紅を順に見渡した。その瞳はまるで瞬かない。

「所在を知っている。教えても構わないが、ただ教えるのではあまり面白くない。そこで少々、私たちの戯れに付き合ってもらいたい。どうかな」

「いいよ」と私に先んじて小紅が応じた。「やる。なにをすればいいの」

「三つの遊びを用意する。一本目をどちらかが、二本目をもうひとりが、三本目は君たちふたりで力を合わせて――挑んでもらいたい」

「二本先取?」

「いや、それでは君たちに望みが薄すぎて申し訳ない。どれか一本で構わないよ。一本取れれば、君たちの勝ちだ。私は時計の在り処を教える。もし私たちが勝ったら――どうするかな。〈蒐集家〉のように名前でも差し出してもらうか?」

「分かった」とまたしても小紅。「負けたら私の名前をあげるよ」

「ちょっと小紅。そんな約束――」

「いいから。ねえ、それで成立? 人間の名前を賭けないと駄目ってことはないんでしょう?」

 巴さんはほっそりとした顎を指先で撫でてから、ゆっくりと頷いた。「それでいい。ではさっそく一本目の勝負と行こう」

 言葉と同時に、部屋が暗闇に満ちた。掌を打ち合わせる音、続いてずるずると滑るような音があちこちから響く。闇に乗じて小紅が消えてしまうのではないかと不安になり、私は彼女の手を強く握りしめていた。ずいぶんと長くそうしていたように思えたが、実際にはほんの数分のことだったろう。視界が戻る。小紅は変わらずそこにいた。

「さて、ではどちらが挑むのか決めてもらおう」

 いつの間にか、眼前に丸い卓袱台が置かれていた。その上に大振りな壺が二本と漆塗りらしい黒の大皿が二枚、並んでいる。壺にそっと顔を近づけてみると、くらりとするような芳香が漂ってきた。私は頭を引っ込めて、

「これ――お酒?」

「そのとおり。先に飲み干したほうが勝ちだ。実に単純な勝負だろう」

 ちらりと小紅を見やった。彼女はこちらに視線を寄越し、淡々と、「飲めない?」

「というか、未成年だし」

「ああ、子供だから駄目ってこと? じゃあいいよ。私が受ける」

「小紅は飲めるの?」

「まあ、嫌いじゃないよ」

 選択の余地はなかった。ここは彼女に引き受けてもらうほかない。

「決まったようだな。では合図とともに開始し、先に空にしたほうが勝者だ。分かっているとは思うが、これは貴重な酒でね。零さずに、味わって飲んでもらいたい」

「いかさまはしないよ」

「よし。では――行くぞ」

 どこからか低い打楽器の音が轟いた。途端に小紅が壺から大皿に酒を注ぎ、両手で抱えて飲みはじめる。私はただそのさまを眺めているほかなかった。

 器の傾きが増していく。白い咽が上下する。丸ごと一皿ぶんを飲み終わると短く息を吐き、口許を拭う。次の一杯に取り掛かる。あっという間の、流れるような動作だった。

「たいした飲みっぷりじゃないか、なあ」

 巴さんがそう暢気な口調で話しかけてきたので、私は驚いた。薄笑いを浮かべながら、小紅の奮闘ぶりを見物している風情だ。

「こんなこと言うのもなんですけど、あなたは飲まないんですか」

「ああ、飲むよ。じきにね」

 平然としている。なんらかの手立てがあるのかと思い、そっと彼の手許を覗いた。壺には酒がたっぷりと詰まったままだ。一滴たりとも減っているようではない。

 巴さんは壺に鼻先を近づけ、ゆっくりと匂いを嗅いだ。「実にいい香りだ。そそられる」

 言葉とは裏腹に、やはり口を付けようとはしない。ただ壺を覗き込んだり、空の器を手に取ってみたり、小紅に視線をやったり、といった動作を繰り返しているばかりである。

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